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第三話 接触条件

 高速機動隊の制圧は、いつだって静かだった。


 外縁の工場区画に灯るのは、怒号でも銃声でもない。白いスポットライトと、規律正しい無人機の羽音と、命令の短さ。人間が恐怖で声を上げるより先に、空が“管理”される。


 「封鎖。退避。抵抗は危険行為とみなす」


 拡声器の合成音が、同じ文言を繰り返す。誰かを説得するためではなく、記録のための言葉だ。正当化のための言葉だ。


 廃工房のシャッターがこじ開けられ、工具が踏み鳴らされる。違法拡張の足場が切断され、路地の入口が機械的に塞がれる。目立つ抵抗はない。目立つ抵抗をした者は、すでにいない。


 新開市の中心部が“整っている”のは、こういう整え方を許すからだ。


 その頃、義弘は外縁の別の路地で、八重蔵の茶を啜っていた。


 啜っていた、と言うには義弘の動作は丁寧すぎた。茶碗を傾け、唇を濡らし、置く。まるで儀式だ。老人の手癖というより、長い会合の癖。


 八重蔵は、義弘が持ってきた配送票を指先で押さえた。紙の端が擦り切れている。何度も見せるために開け閉めした紙だ。


「見せびらかしだね」


「見せたい相手がいる」


「そりゃあ、名誉会長サマだろうさ。噂も正義も釣れる」


 八重蔵が笑った。笑ってから、急に真顔になった。


「ただね。昨日の工場区画は“下”だ。搬入の末端。箱の底。……上がある」


 義弘の視線が八重蔵に向いた。


「上?」


「搬入口の上。つまり、都市の“骨”に繋がってる」


 八重蔵は指で空をなぞった。新開市の未完成部分――都市構造部のメンテ坑。点検路。保守用の隙間。そこは都市の管理下にあるはずで、外縁の闇とは別の闇だ。


「バイオ・オイル施設の保守ルートに紛れてる。表の物流に混ぜれば、外縁の箱なんていくらでも動く」


「……アライアンスか」


「そこまで言うと、狼が笑う」


 肩の上でトミーが鼻を鳴らした。


「狼は笑わねぇよ。噛むだけだ」


「喋るウサギは噛むのかい?」


「噛むよ。嫌いなやつは」


 八重蔵が、茶碗を置く音をわざと大きくした。


「で、名誉会長サマ。どうする? 高速機動隊が封鎖した。外縁から入れば撃たれる。表から入れば、記録に残る。都市の骨を触れば――」


「触る」


 義弘は即答した。


 八重蔵が、わずかに目を細めた。


「……変わらないねぇ。あんたはいつも、嫌われる方へ行く」


「必要だ」


「必要って言葉は便利だよ。誰でも使える」


 義弘は茶を飲み干し、茶碗を置いた。置き方は丁寧だが、決意は硬い。


「案内はいらない」


「だろうね」


 八重蔵は、最後に一言だけ落とした。


「点検路は古い。崩れてる場所もある。音を立てな。音は狼の餌だ」


 義弘は頷いた。


 トミーが義弘の耳元で小さく言う。


「聞いたか。音を立てろって。逆だろ」


「……八重蔵の優しさだ」


「優しさが曲がってる」


 義弘は外縁の闇へ歩き出した。背中に、中心部の光が遠ざかる。


 都市の骨へ。


 同じ頃。新開市中心部のOCM施設。


 白い壁と清潔な床の中で、アリスは立っていた。座らない。座れば備品が“客”になってしまう。備品は立つ。命令を待つ。


 オスカー・ラインハルトが笑顔を崩さずに言った。


「高速機動隊が動いた。想定外だ。……市場が荒れる」


「市場のために街を殺すの?」


 アリスの口は悪い。悪くしないと、別のものが漏れる。


 オスカーは肩をすくめた。


「街を守るために市場を守る。市場を守るために街を守る。言い換えに過ぎない」


「最悪」


「君はいつもそう言うね。だが、君は仕事ができる」


 誉め言葉に、所有の匂いが混ざる。


 アリスの胸の内側で、生体ブリッジが微かに熱を持った。思考の回路が分かれ、作業人格が目を覚ます。補佐が静かに整える。主人格だけが、怒りを抱える。


「証拠を取る。偽ゴーストを潰す」


「潰す、という言葉は市場に優しくない」


「殺すのが目的じゃない。……でも許さない」


 オスカーは微笑んだ。


「なら、君の得意なやり方で。派手にするな。正面衝突も避けろ。高速機動隊は君の縄張りじゃない」


「わかってる」


 アリスが目を閉じる。翼が広がる。アプリケーションとログと都市の鼓動が、羽のように周囲を取り囲む。


 その翼の端に、二つの小さな光が点いた。


 トウィードルダム。トウィードルディー。


 双子は返事をしない。ただ、点灯の仕方が“急いでいる”ときのそれだ。仕事が好きなのか、主人が好きなのか。たぶん両方だ。


 アリスが命令を出そうとした瞬間、足元でコトンと小さな音がした。


 薄いケースが置かれている。いつの間に。


 中身は簡素だった。スカーフ留め具の予備。粉塵フィルタ。糖分パック。医療ではない。戦闘でもない。――体調と呼吸のための、小さな備え。


 アリスは眉をひそめた。


「……誰がこんなの」


 返事はない。双子のアイコンが一瞬だけ点滅して消える。言葉で甘えさせず、手順で支える。そういう“好き”だ。


 アリスは舌打ちしながら、ケースをポケットに入れた。


「余計なことすんな」


 余計なことをされるのは、嫌いじゃない。


 オスカーが言う。


「行け」


 アリスは踵を返した。


 フードを被る。髪をひとつにまとめた束が、フードの縁に引っかかりかける。


 その瞬間、黒い影がすっと近づいた。


 シュヴァロフ――ジャバウォック。


 光を反射しない黒い機体が、爪を畳み、まるで壊れ物を扱うように、アリスの髪束の位置を直した。フードの縁から外し、留め具の位置を整える。戦闘機がやる仕事ではない。母親がやる仕事だ。


 アリスは顔をしかめる。


「……やめろ。うざい」


 シュヴァロフは止めない。丁寧に終える。終えると、ほんの少しだけ距離を取った。アリスの呼吸が落ち着くテンポを知っている距離だ。


 アリスは、言い返すのをやめた。


「……行く」


 翼が揺れ、出動が始まる。


 外縁の点検路は、都市が“まだ完成していない”ことを忘れさせない。


 コンクリートの壁は途中で途切れ、鉄骨が露出し、古い配線が蜘蛛の巣のように垂れている。都市構造部に埋め込まれたハードウェアは、ここではむき出しだ。人間の骨が皮膚から覗いているような気持ち悪さ。


 義弘はスーツを最低限に抑えていた。装甲は内側で待機。視覚の強化は赤外線とレーダーの最小限。探知装置の交信探知は封じる。狼に匂いを撒かないためだ。


 足音は立てない。だが“音を立てな”という八重蔵の言葉が、背中に刺さっている。音を立てるな、ではない。音を立てろ。矛盾に見えて、矛盾ではない。


 必要な音だけを立てる。余計な音は殺す。


 義弘は刀を抜き切らず、鞘のまま歩く。都市戦用ブレードが視界に薄く同期し、刃のラインが“切れる”と告げる場所を教えてくる。義弘はそのラインを信じすぎない。刃の最短は、都市の最短ではない。


 角を曲がった先で、壁が崩れていた。


 崩落ではない。崩落しかけている。梁が泣いている。いつ落ちてもおかしくない天井。ここは“骨”だ。骨は折れれば戻らない。


 トミーが肩の上で小さく唸る。


「ここ、嫌だ。匂いが古い。血の匂い」


「……回れない」


「回れ。死ぬぞ」


「回れない」


 義弘はアンカーを射出した。人工蜘蛛の糸が梁に吸着し、軽く引く。張力で梁の揺れを測る。落ちるか落ちないか。落ちるなら、どこから落ちるか。


 義弘は一歩だけ、右へずらした。


 次の瞬間、天井の一部が、重い音を立てずに落ちた。砂埃が舞う。義弘がいた場所を避けて、落ちる。必要な音だけが響く。余計な音を殺した結果、崩落の音が“最小”になった。


 トミーが目を丸くした。


「……今の、怖すぎる」


「怖がるな。計算だ」


「計算が怖いって言ってんだよ」


 義弘は進んだ。


 都市の骨の奥に、空気が変わる場所がある。保守ルートに紛れた“上”。そこに、偽ゴーストの手が伸びているはずだ。


 同じ点検路の別の入口から、アリスも侵入していた。


 双子が先行する。トウィードルダムが崩れかけた床にフォーム硬化材を流し込み、短い時間だけ“歩ける床”を作る。トウィードルディーが微細なマイクロドローンを散布し、空気流と生命反応を拾う。


 奇妙なことに、マイクロドローンの密度は、まずアリスの周囲だけ異様に濃い。命令していない。双子の手順だ。主人の安全が最優先。好きが手順になっている。


 アリスはムッとする。


「……過保護」


 返事はない。ディーの散布角度が、アリスの目に埃が入らないよう調整される。過保護が丁寧すぎて、文句を言いづらい。


 その後方に、シュヴァロフがいる。


 戦闘姿勢ではない。爪は畳まれ、尖端は内側にしまわれている。アリスに触れないための配慮だ。機体が動くたび、落下物予測ラインが頭の中で計算され、危険箇所に先回りして身体を置く。支点になる。盾になる。退路を残す。


 アリスが一瞬だけ呼吸を乱した。生体ブリッジが過負荷になりかける。作業人格が前へ出ようとし、主人格が押し戻す。境界が溶ける気配。


 シュヴァロフが、ほんの少しだけ距離を取った。


 アリスの呼吸が落ち着く距離。母親が、子供の背中を撫でる代わりに、空気の余白を作る距離。


 アリスは舌打ちする。


「……わかってる。平気」


 平気じゃないときほど、そう言う。


 双子が前方の壁を“静かに”開口した。壊すのではなく、構造を崩さずに開ける。ダムの仕事だ。ディーがその隙間から先の空気を嗅ぎ、生命反応を拾う。


 ――反応あり。


 ディーが小さく進路を示す。声はない。動作が丁寧になる。


 アリスが眉をひそめる。


「……人がいる?」


 双子が頷くように動く。はい、ではなく、急いでいるという動き。


 アリスは小さく息を吐いた。


「最悪」


 最悪なのは、救助が必要な現場だ。救助が必要な現場は、すぐに“ゴーストが殺した”物語になる。


 アリスは双子に指示を飛ばす。


「救助優先。……でも目立つな」


 双子が、返事の代わりに“最適解”を選ぶ。


 点検路の狭い分岐で、二つの影がぶつかった。


 義弘は足を止め、刀を抜き切らず構えた。狭所では刃を振り回さない。自分の刃で自分の退路を切らないためだ。


 正面に、小さな影。灰色のフード。セーラー服。口元を隠すスカーフ。子供のような身長。だが、視線は子供のものではない。刃のように鋭い。


 その前に、黒い影が立った。


 シュヴァロフ。


 殺せる距離まで一瞬で入れる。だが、入ったところで止まる。爪を上げない。アリスの前に“盾”として立ち、同時にアリスの背中側に退路を残す位置取り。閉じ込めない。守る。


 義弘の目が、わずかに細くなった。


 トミーが、場に似合わない声を出した。


「おいゴースト。偽物が暴れてるぞ」


 アリスが睨む。


「……誰がゴーストだ、ウサギ」


「お前だろ? ネットのゴースト。人気者だぞ。ピザ頼んでくれるって」


「頼まない。……勝手にやっただけ」


 義弘が、低い声で言った。


「噂と違うな」


 アリスが尖る。


「噂を信じて来たの? 企業の老人」


「信じていない」


「じゃあ何しに来た」


「偽物を潰す」


 アリスの翼が、胸の内側でざわついた。作業人格が、義弘の通信端末の癖を解析し始める。義弘が都市システムに強引な問い合わせを投げる種類の人間だと理解する。嫌悪が燃える。だが、同時にログの断片がよみがえる。昨夜の銀行前。彼は、殺していない。調整している。


 シュヴァロフが、一歩だけ前に出た。アリスが前に出ないように。危険な子供を止める母親の一歩。


 アリスは舌打ちした。


「……わかった。出るなってことね」


 義弘は、シュヴァロフの爪が畳まれているのを見た。戦闘機が爪を畳む理由は一つしかない。味方を傷つけないためだ。


 そのとき、遠くから“圧”が押し寄せた。


 規律ある無人機の飛行音。索敵。通信の匂いが硬い。命令が速い。情がない。


 高速機動隊が、坑内へ入ってきている。


 トミーの耳が倒れた。


「来たぞ。狼」


 義弘のバイザーが、熱負荷の計算を始める。ここで戦えば、追撃が来たときに詰む。アリスの翼も揺れる。電子戦は得意だが、高速機動隊の系統は別だ。通じにくい。正面衝突は不利。


 二人は、同時に理解した。


 敵は互いじゃない。


 義弘が言う。


「今日だけだ。位置情報を売るな」


 アリスが噛みつくように返す。


「売らない。……でも私の名を使うやつは許さない」


「殺すな」


「増やさない。……殺しは増やさない」


 言い換えではない。譲歩だ。アリスの譲歩は、刀より重い。


 義弘が続ける。


「証拠は共有する。重複は排除する。片方が死んでも残るように」


 アリスは一瞬黙って、そして短く言った。


「……合理的」


 トミーが肩の上で鼻を鳴らす。


「仲良くすんな。……でも仲良くしろ」


 シュヴァロフが、わずかに頭部を傾けた。理解した合図。母親が、子供の“約束”を確認する仕草。


 双子が、二人の間にスッと入り込んだ。


 トウィードルディーが、薄い板を立てる。防御板ではない。埃よけ。視線遮り。名目は作業。実態は過保護。


 アリスが小声で言う。


「……余計なことすんな」


 ディーは返事をしない。板の角度を“ちょうどいい”に調整する。アリスの目に砂埃が入らない角度。義弘の刃が引っかからない角度。


 好きが丁寧すぎる。


 索敵音が近づく。


 義弘は撤収ルートを頭の中で組み替えた。アリス側の双子がいるなら、崩落しかけた通路を“歩ける”に変えられる。だが、その分、時間は減る。高速機動隊は待ってくれない。


 アリスの翼の中で、作業人格が警告を上げる。


 ――熱源接近。

 ――通信遮断の可能性。

――捕縛優先の運用。


 捕縛。殺すより厄介だ。捕縛は“記録”になる。記録は“物語”になる。物語は人を殺す。


 そのとき、ディーのマイクロドローンが、奥の小部屋で生命反応を拾った。弱い。動けない。瓦礫の下だ。


 アリスが歯を噛む。


「……やっぱりいる」


 義弘が言う。


「助ける」


「当たり前」


 同じ言葉を、違う理由で言う。


 双子が走った。


 トウィードルダムがジャッキ脚を突っ張り、梁を支える。フォーム硬化材で瓦礫を固定し、崩落を止める。止める時間は短い。短い時間で十分だ。


 トウィードルディーが瓦礫の隙間に担架アームを滑り込ませ、下の人間を引き出す。小柄な作業員。顔が煤けている。外縁の人間だ。戸籍があるかどうかは分からない。だが、呼吸はある。


 ディーが応急の酸素と固定を施す。医療ではない。命を繋ぐだけの手順。


 義弘は周囲を見張り、刀を抜かずに構える。刃は抑える。ここで刃を振れば、音が出る。音は狼の餌だ。


 シュヴァロフが動いた。


 戦闘担当の影が、前方へ滑る。爪が展開する。だが狙うのは“敵”ではない。坑内に入ってくる索敵ドローンのセンサー。通信中継。追跡の目。


 シュヴァロフは一撃離脱で、センサーを潰し、通信を断ち、追跡ドローンを別方向へ誘導する。倒すのではない。追わせない。母親が子供を連れて逃げる戦術だ。


 アリスは翼の中でシュヴァロフの動きを見ながら、口だけで悪態をつく。


「……格好つけすぎ」


 シュヴァロフは返事をしない。格好つけているのではない。守っているだけだ。


 双子が作業員を担架で運び始める。ディーが運搬ルートを“アリスから遠い側”に取る。アリスを巻き込まないためだ。救助のために主人を危険に晒さない。好きが戦術になっている。


 義弘が言う。


「出口は?」


 アリスが即答する。


「こっち。……でも崩れてる」


「崩れているなら、整える」


 義弘がアンカーを射出した。人工蜘蛛の糸が壁に吸着し、義弘が引いて自分の身体を滑らせる。脚部の電磁反発で壁面をスケートのように走る。だが速度は出さない。熱負荷を管理するためだ。


 トウィードルダムが前へ出て、崩れた床を硬化材で埋める。ジャッキ脚で壁を突っ張り、通路の形を整える。整えるのは一時的だ。一時的で十分だ。


 高速機動隊の索敵音が、もうすぐそこまで来た。


 白いスポットライトが、坑内の壁を舐めた。光が触れる場所の空気が冷える。記録が走る。


 義弘のバイザーが警告を点滅させる。


 熱負荷:上限72%

 まだ余裕はある。だが余裕を使うと、次がない。


 アリスの翼が揺れる。生体ブリッジが焼けるような感覚。作業人格が勝手に前へ出ようとする。主人格が押し戻す。境界が危ない。


 その瞬間、シュヴァロフがアリスの前に“影”を落とした。


 外部センサー情報を整理して、要点だけを翼へ渡す。双子への指示を中継し、アリスの認知負担を軽くする。母親が状況を噛み砕いて子供に渡すように。


 アリスは怒鳴りたくなる。


「勝手に仕切るな!」


 でも、仕切られた方が助かるのを、体が知っている。


 アリスは歯を噛んで、短く言う。


「……ありがとう、じゃないから」


 シュヴァロフは返事をしない。丁寧に続ける。


 撤収路の出口は、外縁の別の路地に繋がっていた。


 双子が作業員を運び出し、暗闇の中で降ろす。ディーが最後に酸素を調整し、ダムが頭上の崩落箇所を硬化材で“次の崩落までの時間”だけ延命する。救助は完了。証拠は回収済み。撤収が成立する。


 義弘は、アリスへ小さく視線を投げた。


「証拠」


 アリスは、ポケットから紙片を取り出した。配送票の端。署名の部分だけ。全ては渡さない。最低限。合理的な共有だ。


「これ。……“GHOST”って書いてある。見せびらかし」


 義弘も同じ種類の紙を懐から出し、端だけ見せた。全ては見せない。最低限。合理的な共有。


 トミーが鼻を鳴らす。


「同じだな。偽物が同じ芸をしてる」


 アリスが吐き捨てる。


「ムカつく」


「怒りは武器だ」


 義弘が言うと、アリスが睨んだ。


「老人、説教しないで」


「説教ではない。……調整だ」


 アリスは鼻で笑った。


「調整ヒーロー」


 義弘は否定しなかった。


 そのとき、シュヴァロフが戦闘姿勢を解除した。背中に巨大な腕を背負い直し、爪を畳む。影が少しだけ柔らかくなる。


 そして、まるで何事もなかったように、アリスのスカーフの位置を直した。


 砂埃を軽く払う。フードの縁を整える。母親の手つき。


 アリスが顔をしかめる。


「……やめて。子供扱いすんな」


 シュヴァロフは止めない。丁寧に終える。終えると、距離を取る。呼吸の余白。


 双子も、左右に立った。


 ダムが無言で足元に小さな段差解消パッドを置く。ディーが微風で砂埃を払う。服ではなく環境を整える。好きが目立たないように、好きが丁寧。


 トミーが小声で言った。


「……あいつら、お前のこと大好きだな」


 アリスは顔を赤くしない。赤くする代わりに、口が悪くなる。


「うるさい。……仕事だし」


 義弘が、初めてほんの少しだけ口元を緩めた。


「……いい仕事だ」


 アリスが睨む。


「褒めないで」


「褒めていない。評価だ」


「同じ」


「違う」


 そのやりとりが、妙に人間だった。


 しかし、人間の余韻は長く続かない。


 遠くで、合成音声がまた鳴った。高速機動隊の拡声器。封鎖。退避。記録。正当化。


 義弘が言う。


「ここで別れる」


 アリスが頷く。


「次に会うときは敵かもね」


「次に会うときも、まず助ける」


 義弘の言葉は淡々としていた。淡々としているから、嘘がない。


 アリスは一瞬だけ黙り、そして吐き捨てるように言った。


「……勝手にしろ」


 そう言いながら、アリスは双子とシュヴァロフを連れて、闇へ溶けた。灰色のフードが翻り、消える。


 義弘も、トミーと共に別の路地へ歩いた。


 背中に、都市の骨の冷たさが残っている。


 その夜、真鍋佳澄の端末が震えた。


 市警サイバー課の画面に、緊急の拡散ログが流れ込む。匿名アカウント。だが拡散速度が異常に速い。ボットの匂い。組織の匂い。


 画面に踊る見出し。


 「ゴースト団声明:津田義弘、アライアンスの犬。外縁で市民を狩る」


 真鍋の喉が、乾いた。


「……最悪」


 声明文には、工場区画での映像の切り取りが添えられていた。白髪の老人が刀を構える瞬間だけ。救助は映っていない。撤収の判断は映っていない。調整は映っていない。


 物語は、いつだって一番残酷な編集を選ぶ。


 真鍋はすぐに別の画面を開いた。


 義弘の行動ログ。高速機動隊の封鎖ログ。OCM周辺の物流ログ。どれも、重く、硬い壁にぶつかる。


 壁の向こうに、“我々”の匂いがする。


 真鍋は端末を握りしめた。


 そして、短く呟いた。


「津田さん……あなた、今度こそ撃たれる」


 新開市は、今日も半分だけ完成している。


 だから残り半分で、噂と正義と偽物が、先に完成してしまう。

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