第二話 外縁の工場区画
新開市の外縁は、都市の“嘘”が剥がれた場所だった。
中心部の道路は、線が正しく、人が正しく流れる。けれど外縁では、線が先に死んでいる。ARの案内は途切れ、更新期限の切れたアイ・プローブがノイズを吐き、VGの廉価版が広告だけをやけに鮮明に映す。現実の段差を、情報が埋めてくれない。
義弘は、路地の入口で立ち止まった。
外縁へ踏み込む瞬間、バイザーに浮かぶガイドラインが、急に薄くなる。都市の管理域を外れた証拠だった。背中側に、中心部の光が遠ざかり、目の前に油と鉄と汗の匂いが近づく。
肩の上で、トミーが鼻をひくつかせた。
「言っとくけどな。ここは線を信じると死ぬぞ」
「知っている」
「知ってるなら、もっと嫌そうな顔しろよ。せっかく外縁なんだぞ。怖がれ」
「怖がるより、面倒だ」
「それを怖いって言うんだよ」
義弘は返事をしない。代わりに、手の中の金属片を指でなぞる。昨夜拾った外装片。I2Hユニットの刻印。ロット番号。新開市の正規調達に存在しない“外”の部品。
ここに来た理由は、それだけだった。
外縁の奥に、古い市場のような路地がある。屋台と廃材とドロイドの残骸が混ざり、誰が客で誰が見張りか分からない。そこにいる男は、いつも同じ場所にいるわけではないのに、なぜか探せば必ず見つかる。
八重蔵は、路地の暗がりで茶をすすっていた。
年齢不詳。顔はしわだらけだが目は冴えていて、身に付けた服はボロいのに靴だけがやけに新しい。情報屋の靴は逃げ道だ。
「おや。名誉会長サマじゃないか」
八重蔵は笑った。笑い声が軽すぎて、逆に重い。
「ヒーロー遊びは飽きたんじゃなかったのかい」
「飽きた」
義弘は金属片を出した。八重蔵の茶碗の横に置く。路地の光が、刻印だけを鋭く照らす。
八重蔵の笑いが、少しだけ消えた。
「……こいつぁ、厄介だね」
「読めるか」
「読めるとも。読めすぎるのが嫌だ」
八重蔵は指先で刻印をなぞる。その動きは丁寧で、どこか懐かしむようでもあった。
「新開市の表の調達じゃない。正規の保守でもない。外から入ってる。しかも最近、こういう“交換品”が増えた」
「I2Hの交換か」
「そう。壊れるのが早い。使い方が荒い。……いや、荒く“させてる”」
義弘の瞳が細くなる。
「誰が」
八重蔵は肩をすくめた。
「答えを買うのかい? それとも、匂いを買うのかい?」
トミーが肩の上で、わざと咳払いをした。
「匂いでいい。こっちは鼻が利くんだ」
「喋るウサギ……って噂は本当だったのかい」
「本当だよ。嘘の方が得意だけどな」
八重蔵が笑う。笑いはすぐに引っ込む。
「匂いならある。工場区画。外縁のさらに奥。廃れたメンテ坑の近くで、夜にだけ搬入が動く。正規のドロイド便じゃない。……箱が、軽いのに熱い」
「熱い?」
「I2Hの部材は、梱包が違う。熱を嫌う。なのに熱いってことは、回収したばかりか、まだ“生きてる”」
義弘は立ち上がった。椅子は引かない。必要がないからだ。
「案内はいらない」
「そう言うと思ったよ。名誉会長サマはいつも、説明を買わない」
八重蔵が、最後に一言だけ落とした。
「気をつけな。最近、外縁の見張りが変わった。安いドローンが増えたんじゃない。……“通報が速くなった”」
義弘は頷いた。
それが一番怖い変化だ。
工場区画は、外縁の“肺”だった。
かつて都市の建設のために作られた資材置き場と、違法に増えた修理工房と、潰れた工場が混ざっている。屋根のない鉄骨の下を、風が抜ける。空気が古い油の匂いを運ぶ。
義弘はスーツを完全には起動していなかった。装甲は内側で待機させ、視界の強化も最低限。探知装置のレーダー波も弱める。違法な交信探知を全開にすれば、ここでは目立つ。目立てば“通報が速い”。
それでも、義弘の視界は十分に鋭い。老人の目の光は、都市の光より冷たい。
トミーが耳を立てた。
「来る」
義弘は足を止めず、歩幅を変えないまま体の重心だけをずらした。
上から、軽い金属音。安価な偵察ドローンが二機、梁の影から滑り出る。火器はない。代わりに、レンズがこちらを見ている。撃つための目ではなく、通報する目。
義弘は刀を抜かない。抜くほどの相手ではない。
手首のアンカーが小さく鳴り、人工蜘蛛の糸が一本、空を走った。糸は梁に吸着し、義弘が軽く引く。糸の張力が、ドローンの進路に“見えない壁”を作る。
ドローンはそれに気づかず突っ込み、糸に絡まって姿勢を崩す。落ちる寸前、義弘がもう一本。今度はドローンの尾部へ。吸着。引き。
ドローンは梁にぶつかり、カメラが壁を向いた。映像が死ぬ。通報が遅れる。
「優しいねぇ」
トミーが小声で言った。
「壊してない」
「壊すと音が出る」
「……あっちの方が怖い」
義弘は、梁の向こうの影を見た。すでに誰かが見ている気配がある。見張りはドローンだけではない。人がいる。人の目は、機械より遅いが、機械より執念深い。
義弘は動きを速めず、静かに距離を詰めた。
そして、見つけた。
潰れた工場の裏手。半開きのシャッター。中に積まれた箱。箱は新品ではない。何度も開け閉めされた跡。回収用の箱だ。
義弘は箱のひとつに手を伸ばし、蓋の隙間から中を覗く。I2Hの部材が、丁寧に詰められている。けれど――匂いが違う。熱い。まだ機構が生きている匂い。交換したばかりの部材だ。
そのとき、トミーが背中の毛を逆立てた。
「……来た。影だ」
義弘も感じた。
空気が、薄く切られるような感覚。光が反射しない黒。輪郭が風景に溶ける。光学迷彩。
昨夜、銀行前で見たものと同じ匂い。
黒い影が、箱の上に静かに降りた。着地音がほとんどない。爪が金属に触れる音すら、丁寧に抑えられている。
義弘は、息を止めた。
影は、箱を壊さない。乱暴に漁らない。必要なものだけを抜き取り、必要でないものは整えて戻す。家事が得意だという噂が、もし本当なら、こんな動きだろうと思った。
そして、義弘の探知装置が“交信”を拾った。
パケットの癖。暗号の呼吸。確かに“ゴースト”の匂いがする。だが、やはり雑だ。痕跡が、わざとらしい。誰かが「ゴーストならこうする」と教科書をなぞっている。
義弘は喉の奥で、短く息を吐いた。
「……釣りだ」
トミーが頷くように耳を動かす。
「釣り針は派手だ。引っかかるのは、正義か、噂か……」
「俺だ」
義弘は、わざと足音を立てた。ほんの一歩。影がすぐにこちらを向く。黒い機体の頭部が、薄く光を吸う。目がないのに、見られている気がした。
義弘は刀を抜いた。都市戦用ブレード。刃の情報が視界に同期し、斬撃の最短線が浮かぶ。
だが義弘は、その線を信じない。
影――シュヴァロフは動いた。背中の巨大な腕が肩へ移動し、爪が空を掻く。立体機動。一撃離脱。こちらを殺すためではない。箱を持って逃げるためだ。
義弘は切り込まなかった。代わりに、アンカー。
人工蜘蛛の糸が、シュヴァロフの脚へ伸びる。吸着。義弘が引く。
――しかし糸が、途中で“滑った”。
電磁吸着が弾かれたわけではない。そもそも“接点”がないように、機体の表面が一瞬だけ迷彩の位相を変えた。触れたはずの場所が、触れていない。
「……器用だな」
義弘が呟くと、トミーが歯を見せた。
「可愛い顔して、やることがえげつない」
「顔はない」
「雰囲気だよ、雰囲気!」
シュヴァロフは箱から何かを抜き取り、身をひねって跳んだ。梁へ。壁へ。影へ溶ける。
義弘は追撃しなかった。追えば、熱負荷が増える。ここで熱限界を踏めば、高速機動隊が来たときに詰む。八重蔵の「通報が速い」が頭をよぎる。
義弘は、箱の底に残った一枚の薄い配送票を拾った。
偽装された番号。だが紙は紙だ。デジタルの嘘は、紙の嘘より簡単に消せる。逆に言えば、紙を残したのは“見せびらかし”だ。
そこに、手書きのような署名がひとつだけあった。
――GHOST.
義弘の指が止まる。
雑だ。雑すぎる。誰かがゴーストを“演じている”。
トミーが小さく言った。
「見せたいんだよ。誰かに」
「……俺に、だ」
そのとき、遠くで低いサイレンが鳴った。中心部の音ではない。外縁を押しつぶすような、重いサイレン。
トミーの耳が倒れた。
「やべぇ。これ……犬じゃない。狼だ」
義弘も感じた。空気の圧が変わる。無人機の規律ある飛行音。人間の気配がほとんどないのに、命令だけが速い。
高速機動隊。
義弘は配送票を懐に入れ、箱の刻印を目で焼き付けた。
「撤収する」
「珍しい! 賢い!」
「褒めるな」
義弘は、外縁の闇へ身を滑らせた。
同じ頃。
灰色のフードの少女は、学校の廊下を歩いていた。昼の光は、彼女を小さく見せる。セーラー服にフード付きパーカー。黒ニーソ。口元を隠すスカーフ。小学生に間違われてもおかしくない。
ミレナが隣に並び、肩を軽くぶつけてきた。
「ねぇ、アリス。昨日の夜、すごかったよね。ニュース。銀行の……」
「うるさい」
「ええ~。冷たい」
ミレナは笑ったが、目の奥は笑っていない。OCMの監視役。表向きは友達。内側は命令。そんな二重の線が、彼女の言葉の端に混じる。
「……最近、街の空気、おかしいよ。あの“ゴースト”って、本当に悪い人なの?」
アリスは足を止めずに言った。
「悪いとか良いとか、どうでもいい。……銃が出てくるのが最悪」
「銃、嫌いなんだ」
「嫌い」
アリスの声は短い。短いほど、感情が漏れない。漏れたら困る。備品は泣かない。
胸の内側で、脳内の生体ブリッジが微かに熱を持った。NECROの橋が、思考を別の回路へ誘う。主人格の周りで、作業人格がうずうずする。補佐人格が静かに整える。
そのとき、ミレナの端末が震えた。ミレナが画面を見て、顔色を変える。
「……呼び出し。OCM」
アリスは頷いた。
「行く」
「一緒に――」
「来るな。面倒が増える」
ミレナが言いかけて、口を閉じた。備品の扱いに慣れた人間の顔だった。
OCMの施設は、新開市中心部の“完成した部分”に寄り添うように建っている。白い壁。清潔な床。監視カメラ。微笑む広告。全てが整いすぎていて、逆に嘘くさい。
アリスは通されるままに、研究室のような部屋に入った。そこには端末が並び、ドロイドが静かに立っている。人間の匂いが薄い。
背広の男が、笑顔で迎えた。オスカー・ラインハルト――支社長。礼儀正しいが、礼儀の中に“所有”がある。
「アリツェ。昨夜、面白いことがあったようだね」
「面白くない」
「そう言うと思ったよ。君は――真面目だ」
アリスは椅子に座らない。座れば、ここが自分の場所だと錯覚する。錯覚は危険だ。
「要件」
「簡単だ。君の“関与”が疑われている」
オスカーは、平然と言った。疑われているのは“ゴースト”の方だ。だが彼は、アリス本人に言う。備品に対しては、遠回しは不要だ。
「私は銃が嫌い」
「君の好みは聞いていない。……ログを見せてくれ」
アリスは笑いそうになって、堪えた。ログを見せろ。つまり、所有者が鍵を持っているという宣言だ。
アリスは目を閉じた。翼が広がる。
電子情報が、翼のように周囲を取り囲む。物流ログ。保守記録。都市の通行履歴。ドローンの整備ライン。データが羽根になって舞う。
作業人格が動く。補佐が支える。主人格だけが“怒り”を抱える。
そして、見つけた。
自分の鍵が使われた痕跡。署名の模倣。だが作法が粗い。わざと残された“GHOST”の影。
「……これ、私じゃない」
オスカーは肩をすくめた。
「証明できるかい?」
アリスは翼の中から、別の羽根を引き抜いた。微細な癖。署名末尾のノイズ。自分なら入れない歪み。
「ここ。余計」
「それが?」
「誰かが、私の真似をしてる。しかも、見せびらかしてる」
オスカーの笑顔が、ほんの少しだけ硬くなる。
「君の推測は興味深い。だが、推測は推測だ」
アリスは睨んだ。
「じゃあ証拠を取る。回収する」
オスカーは頷いた。
「回収は良い。だが派手にするな。新開市は市場だ。市場が壊れたら困る」
アリスの口が歪む。
「市場のために、街を殺すの?」
「言葉が悪いね。街を“守る”ためだ」
アリスは、心の中で舌打ちした。
守る。誰を。何を。何のために。
アリスは翼の中で、二つのアイコンを呼び出した。
トウィードルダム。トウィードルディー。
戦闘ではない。救助と工作。現場を整える双子。
「出す」
オスカーは少しだけ驚いた。
「戦闘機ではなく?」
「殺すのが目的じゃない。……証拠を取って、巻き込まれた人間を生かす」
オスカーは微笑んだ。微笑みの奥が、冷たい。
「君らしい。……行け」
外縁の工場区画の裏。
双子は、暗闇の中を静かに走っていた。小型。狭所進入用。背中に折り畳み工具ラック。足音は小さいが、動きは忙しい。
トウィードルダムは、半開きのシャッターの隙間へ滑り込み、内側からジャッキ脚を突っ張った。梁の揺れを止め、崩れそうな棚をフォーム硬化材で固定する。崩壊は敵だ。現場を殺す。
トウィードルディーは、箱の間を縫い、生命反応を探すマイクロドローンを散布する。もし誰かが巻き込まれているなら、先に救う。救わないと、後で“ゴーストが殺した”という物語が作られる。
アリスの翼の中で、双子の視界が重なる。
そして、別の視界が重なった。
黒い影――シュヴァロフが、先に動いている。
アリスは舌打ちした。
「……もういる」
彼女は短く命令を出した。
「双子、箱の底。紙と刻印。残ってたら全部回収。……人がいたら優先して出せ」
双子は返事をしない。返事の代わりに、動作が丁寧になる。
そのとき、双子の視界の端に“白い影”が映った。
老人。長身。白髪。刀。肩に緑のウサギ。
アリスの胸の内側で、嫌悪が一瞬だけ燃えた。
権力者。資産家。企業の幹部。アライアンスに下った側。
けれど――昨夜のログにいたのは、彼だ。
彼は、銃で殺していない。斬って血を流していない。断線し、拘束し、被害を最小にしている。
アリスは歯を噛んだ。
「……ムカつく」
そして次の瞬間、別の“圧”が視界を押しつぶした。
規律ある無人機の飛行。重いサイレン。通信の匂いが、硬い。命令が速い。情がない。
高速機動隊。
アリスの翼が、一瞬だけ揺れた。軍産の施設で聞いたことのある匂い。アライアンスの国内武力。
「やば……」
作業人格が淡々と提案する。
――撤収。
――証拠優先。
――接触回避。
主人格――アリスは、吐き捨てるように言った。
「わかってる!」
双子が、最後に箱の底から一枚の配送票を引き抜いた。紙の嘘。見せびらかしの署名。
同じ瞬間、義弘も懐の紙に指を触れていた。
同じ証拠を、別々に掴む二人。
そして、同じ撤収の判断。
義弘の耳の探知装置が、遠くの交信を拾う。周辺情報を都市システムから“強引に”抜く誘惑が湧く。だが義弘は、あえて抑えた。抑えることで、生き残る。
トミーが義弘の肩の上で、低く唸った。
「狼が来る。アンタの嫌いなやつ」
「……知っている」
義弘は、外縁の闇へ引いた。アリスも、双子と共に引いた。シュヴァロフは影のように消えた。
誰も撃たない。誰も斬らない。誰も捕まらない。
ただ、証拠だけがそれぞれの手元に残る。
高速機動隊の無人機が工場区画の上を旋回し、白いスポットライトが一瞬だけ地面を舐めた。光が触れた場所の空気が、急に冷たくなる。
その光の端で、灰色のフードが一瞬だけ翻った気がした。
義弘は振り返らない。
振り返れば、物語が始まってしまう。
だが、始まってしまったのは事実だった。
――“ゴースト”の名で、誰かが街を殺しに来ている。
――そしてそれを止めようとしている者が、敵と味方の両側にいる。
外縁の闇の中で、老人と少女の歯車が、まだ噛み合わないまま同じ方向へ回り始めていた。




