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第一話 刃の外側

新開市の夜は、いつも半分だけ完成している。


 街の中心に聳える骨組みだらけの高層群――学術都市として設計された“新世代モデル”の塔は、六割のところで止まったまま、空に向かって歯をむき出しにしている。けれどその足元では、バイオ・オイル施設の照明だけが、呼吸のように脈動していた。世界の生命線。予算の行き先。権力の焦点。


 外縁はまた別の顔を持つ。旧市街と難民町が、都市の管理外で勝手に伸びて、路地が路地を産み、影が影を隠す。視界に重なるAR表示も、中心と外縁では色が違う。期限切れのアイ・プローブでちらつく広告、安物のVGで無理やり引き延ばした案内、何も映らない裸眼の人々。情報は平等に配られるという“建前”だけが、風に舞う。


 津田義弘は、その夜景を窓越しに眺めていた。


 長身、細身。白髪をオールバックに撫で付けた老人。瞳だけが鋭く、凛とした面立ちは作り物のように整っている。整形医療と人体工学――成果物としての身体。年齢だけが、そこから置き去りにされている。


 窓辺のクッションに、苔のように緑がかったウサギが丸くなっていた。日中は日差しを浴びたがる。今は夜だというのに、毛並みの奥が薄く光って見える。葉緑体を抱えた毛皮は、ただの色ではない。


 ウサギが、欠伸まじりに口を開いた。


「へぇ。名誉会長サマ。今日も世界は平和そうだな」


 義弘は返事をしなかった。返事の代わりに、グラスに水を注ぎ、口をつける。音が静かすぎて、ウサギの鼻息の方が大きい。


 トミー――そう名付けた改造ウサギは、卓上端末の画面を前脚で叩いた。ニュースフィードが勝手に流れ、合成音声が読み上げようとした瞬間、トミーがそれを止め、自分の声で続ける。


「新開市、ドローン犯罪増加。『市民の安全のために治安強化』だってさ。高速機動隊が何とかしてくれるって。笑える」


 義弘の視線が、ほんの僅かに動いた。


「アライアンスの犬だ。犬が吠えるのは腹が減ってる時か、誰かに吠えろと言われた時だ」


「お、しゃべった」


 トミーがにやりとする。ウサギの顔で「にやり」は違和感があるはずなのに、トミーだと自然に見えるのが腹立たしい。


「それと、ヒーロー興行。『サムライ・ヒーロー大集合!』だって。広告まみれの鎧で、ドローン相手に見世物やる。スポンサーのロゴが先に斬りかかってくるやつ」


「……」


「アンタの鎧は、主力戦車二両分だっけ。広告付けないの? “津田グループ”って胸に」


 義弘はグラスを置いた。置き方が丁寧すぎて、逆に冷たい。


「付けるなら、背中だ。人に見せない」


「へぇ。謙虚なのか、根暗なのか」


「両方だ」


 トミーが短く笑う。笑いの後、耳が少しだけ伏せた。


「……でもさ。最近の犯罪、匂いが変だ。前は腹が減ってた。今は、殺しに寄ってる」


 義弘は、ようやく窓の外から目を離した。


「そうか」


 それだけ言うと、義弘は立ち上がった。衣服を替えるでもなく、靴を履くでもなく、壁際のケースへ歩く。そこには古い刀のような形のものが納まっている。刀身ではない。都市戦用ブレード――鞘のように見えるユニットが、義弘の装備の一部だ。


 トミーが首を傾げる。


「散歩?」


「買い物だ」


「何を?」


「違和感を」


 義弘はケースを閉じ、ドアへ向かった。トミーは当然のように後を追い、床を軽く蹴って跳ねる。義弘のコートの裾に鼻先を突っ込んで、勝手に乗り込もうとする。


「おい」


「置いてくな。夜の街はオレの方が詳しい」


「……邪魔になる」


「ならない。アンタが邪魔になったら引っぱる」


 義弘はため息をついた。ため息の量だけ、何かを諦めたような顔になる。それをトミーは見逃さない。


「ほら。そうやって、人に頼らないから嫌われるんだ」


 義弘は返さずに、エレベーターに乗った。


 新開市の中心部は、光が整いすぎている。道路の白線は真っ直ぐで、信号は秒単位で人間を流す。歩道のAR案内が、迷いを許さない。


 義弘の視界には、薄い線が幾つも走っていた。眼窩下に埋め込まれた入出力端末が、視神経に映像を“出力”する。現実とウェブが同期され、情報が現実の上に重なる。


 ただし、義弘はその線を信用しすぎない。線は便利だ。線は嘘もつく。


 角を曲がった瞬間、音が変わった。


 短く、乾いた破裂音。続けて金属の悲鳴。人々のざわめきが、一斉に“薄く”なる。恐怖がARの広告を押しのけて、現実を前に出す。


 義弘は足を止めなかった。むしろ歩幅を一定に保ったまま、音の方へ向かう。


 銀行の前だった。シャッターが半分降りた出入口。飛び交う小型ドローン。――いや、これは小型ではない。輪郭が“武装”のために変形している。銃口。発射炎の熱。人の背中を押して走らせる種類の恐怖。


 強盗犯たちは、顔を隠し、手に火器を持っていた。火器の方が、彼らの腕より自然に見えるほどに。


 義弘は、コートの下でサムライ・スーツの起動を始めた。


 両二の腕、肩甲骨、太もも。埋め込まれた端末が一斉に応答し、ウェブ・ネットワークに接続する。身体の内側が、冷たい水で満たされる感覚。スーツが“身体の外側”に生成されるのではない。義弘の身体の延長として“立ち上がる”。


 コートの下で、複合装甲が展開し、関節部の円環装甲が噛み合った。強化バイザーが降り、視界が変わる。赤外線、紫外線、レーダー波。雨も煙幕も関係ない視界。両耳のあたりから伸びた探知装置が、全周の情報を拾い始める。


 トミーが、義弘の肩の上に飛び乗った。毛がひやりとする。


「うわ、これ嫌い。硬い。冷たい。金持ちの匂い」


「黙れ」


「黙ったら死ぬ」


 義弘は一歩、歩道から車道へ出た。銀行の前で、強盗の一人が叫ぶ。


「近づくな! 撃つぞ!」


 義弘は、刀を抜かなかった。都市戦用ブレードはまだ鞘のまま。義弘はただ、立ち位置を半歩ずらした。


 次の瞬間、ドローンが発砲した。弾道が見える。バイザーのガイドラインが、跳弾の可能性を青い線で示す。義弘はその線に従わず、線の外へ“わずかに”逃げた。


 弾は空を切り、路面の角で跳ねて、誰にも当たらずに消えた。


 義弘は走らない。だが、距離が縮む速度は速い。スーツのパワーアシストが、老人の身体に“若さ”を貸す。


 義弘がブレードを抜く。刀身は薄く、都市の光を吸って鈍く光る。刃の情報がバイザーに同期し、斬撃の線が“最短”を示す。


 義弘はその最短を、外した。


 斬ったのはドローンの胴体ではない。武装ユニットのケーブル。断線。火器が沈黙する。ドローンが姿勢を崩し、路面に落ちた瞬間、義弘の手首から電磁吸着式アンカーが射出された。


 人工蜘蛛の糸が、空を縫う。ドローンの脚に巻き付き、義弘が引く。糸は切れない。切れるのは、相手の体勢だけだ。ドローンが宙で一度回転し、銀行のシャッターに叩きつけられた。


「……」


 強盗の目が見開かれる。彼らが想定していたのは、広告まみれのヒーローか、警察の無人機だ。白髪の老人が、静かに“調整して勝つ”ことではない。


 だが、次の攻撃が来た瞬間、義弘は違和感を確信した。


 空気が歪んだ。


 熱。衝撃。圧力の塊。歩兵用対戦車兵器のHEAT弾ほどではないが、近い“熱量”が、ドローンの小さな発射筒から吐き出された。


 義弘のスーツが、瞬間的に衝撃を熱へ変換する。I2Hが稼働する。装甲車並みの防御力。だが同時に、内部で熱が生まれる。限界がある。限界を超えれば、強制冷却が始まる。冷却中は、その部位の保護は装甲だけになる。


 バイザーの端に警告が点った。


 熱負荷:上限85%


「……早い」


 義弘の声が、初めて低くなる。


 トミーが耳を立てた。


「これ、いつものチンピラじゃない。誰がこんな玩具を渡した?」


 義弘は答えずに、次の動きを選ぶ。斬るか、守るか。追うか、止めるか。


 強盗の背後で、もう一機、黒い影が動いた。


 光を反射しない黒。輪郭が空気に溶ける。光学迷彩。周囲の風景に同化する――はずなのに、義弘の探知装置が“異物”として拾う。レーダー波の戻りが、そこだけ薄い。


 影の背には巨大な腕。爪。鞘状に伸縮する前腕。戦闘用。だが、その動きは乱暴ではない。むしろ丁寧だ。対象を壊すのではなく、掬い上げるような手つき。


 その影が、強盗側のドローンに“触れた”瞬間、義弘の探知装置がネット交信を拾った。


 パケットの癖。暗号の“呼吸”。それは、噂で聞いたことのある類のものだ。“ゴースト”。都市システムを掌握する、最強の犯罪者。


 だが――雑だった。


 痕跡の残し方が、素人の見せびらかしに近い。ゴーストが本物なら、こんな置き土産はしない。


 義弘の喉の奥が、わずかに硬くなる。


「……ゴースト、か」


 強盗の一人が叫ぶ。


「ゴーストだ! ゴーストが来た!」


 世論の言葉が、現実に先回りして飛びつく。理解は早い。正確さは遅い。


 黒い影――シュヴァロフ。ジャバウォック。アリスが設計した戦闘用ドローン。義弘はまだ名前を知らない。ただ、影が“回収”していることだけは分かる。


 影は、強盗のドローンのコア部品を引き抜くように掴み、そして、消えた。光学迷彩が街の反射に溶ける。まるで最初から居なかったように。


 義弘は追おうとした。


 足に力を入れた瞬間、警告が赤く変わる。


 熱負荷:上限100%

 強制冷却:右腕/胸部


 右腕の感覚が遠のく。装甲の内側が、冷たい刃のように冷える。守れるのは装甲だけ。身体は熱から守られているが、動きが鈍る。追えば、次の一撃で壊れる。


 義弘は追撃を諦めた。


 トミーが歯噛みするように舌打ちをした。


「くそ。逃げた」


「逃げたんじゃない。回収した」


「何を?」


「証拠だ」


 義弘は周囲を見渡す。市民は避難し、銀行の警備ドロイドが遅れて出てくる。遠くでサイレン。市警。高速機動隊の気配はまだないが、時間の問題だ。


 義弘は、落ちたドローンの残骸の一部を拾い上げた。熱・衝撃置換ユニットの外装片。刻印。ロット番号。


 バイザーが照合を始める。都市の正規調達品――該当なし。新開市のシステムに登録されていない。


 義弘は、口の中で小さく息を吐いた。


「……外から来た」


「外?」


「少なくとも、この街の“表”からじゃない」


 そのとき、背後から声がした。


「またあなたですか、津田さん」


 振り向くと、市警の女性が立っていた。真鍋佳澄。サイバー課の警部補。義弘を“取り締まりたい”顔と、“助けられた”顔が同居している。


「あなたのスーツ、また都市システムに強引な問い合わせを投げましたね。ログが――」


「必要だった」


「必要かどうかを決めるのは、あなたじゃない」


 正論だ。正論はいつも、遅れてくる。


 トミーが義弘の肩の上で、わざと大きくため息をついた。


「ほら。正義さんが来たぞ、名誉会長サマ」


 真鍋がトミーに目を留める。驚きは一瞬だけで、すぐに仕事の顔に戻った。


「……喋るウサギまで連れてるんですか」


「趣味だ」


 義弘が言うと、トミーがすかさず噛みつく。


「趣味じゃねぇ。友情だ、友情」


 真鍋が頭痛のする顔をした。


「いいですか。今夜の事件、もう噂が流れてます。『ゴーストが関与』って。あなたが現場にいたことも、すぐ拡散されますよ」


 義弘は、遠くで光る配信ドローンを見た。映像が世界へ流れる。誰かの編集で物語になる。そこに真実が入る余地は、いつだって狭い。


「……構わない」


 そう言いながら、義弘は構っている自分を知っていた。構わないなら、拾った刻印を手の中で握りしめたりしない。


 真鍋が低い声で言う。


「津田さん。あなたが追ってるものが“ゴースト”なら――」


「ゴーストではない」


 義弘は即答した。自分でも驚くほど早い。


 真鍋が眉を上げる。


「根拠は?」


「雑だった」


「……何が?」


 義弘は答えなかった。答えない癖が、また誤解を呼ぶ。分かっている。分かっていて、やめられない。


 トミーが義弘の代わりに言った。


「アンタらの“正義”より、ウチの老人の勘の方が当たる時もあるってこと」


 真鍋が、言い返しかけて、飲み込んだ。飲み込んだ分だけ、彼女もこの街の構造を知っている。


「……とにかく。勝手に動かないでください。高速機動隊が動いたら、あなたでも――」


「知っている」


 義弘は短く言った。


 知っている。高速機動隊の火力も、命令系統も、そして“我々”の冷たさも。


 義弘は背を向けた。真鍋が止めようとする気配を、背中で受けて、あえて止まらない。止まれば、また物語に縛られる。


 トミーが肩の上で、ぽつりと言った。


「……なぁ。アンタ、また嫌われに行くの?」


 義弘は歩きながら答える。


「嫌われるのは、慣れている」


「慣れるなよ。心が死ぬぞ」


「もう死んでいる」


「嘘つけ。死んでたら、今みたいに目が光らない」


 義弘は返さなかった。返せなかった。


 同じ夜。新開市のどこかで。


 灰色のフード付きパーカーの影が、廊下を滑るように歩いていた。セーラー服。黒いニーソックス。口元を覆う大きめのスカーフ。小学生のように小さな体。だが、その歩みには迷いがない。


 アリツェ・ヴァーツラフコヴァー――アリスは、誰もいない教室に入って、鍵をかけた。鍵をかける動作だけが、妙に“丁寧”だった。


 机の上に、古い携帯端末の形をしたコントローラを置く。意味はない。形式だ。アリスの本体は、身体の内側にある。


 息を吐く。


「……最悪」


 口が悪い。自分で分かっている。分かっていて、止めない。止めると、別のものが壊れる。


 アリスが目を閉じると、脳内で何かが“立ち上がった”。


 生体ブリッジ。脳細胞間の化学的電位変化をバイパスし、別のネットワークを作る装置。NECRO由来の技術。人間の思考を、コンピュータの処理に寄せるための橋。


 アリスの視界に、翼が広がった。


 アプリケーション。ログ。監視カメラの断片。交通制御。都市の心拍。電子情報が、羽のように周囲を取り囲む。外から見れば演出だ。内側から見れば現実だ。


 脳の奥で、別の声が目を覚ます。


 ――作業開始。


 主人格の命令で、三つの作業人格が動き出す。残りの補佐が、静かに支える。意思を持つのは自分だけ。ほかは機能。そう言い聞かせないと、境界が溶ける。


 アリスは銀行強盗のログを拾い上げた。都市の監視は完璧ではない。だが“完璧ではない部分”こそ、ハッカーの住処だ。


 ログが繋がる。


 武装ドローンの識別信号。通信の癖。暗号鍵の一部。――そして、“署名”。


 アリスの背筋が冷たくなる。


 その署名は、確かに“ゴースト”のものに見えた。自分の癖。自分の呼吸。初期の活動で軍産側がうっかり口にした、あのコードネーム。ネットが勝手に育てた怪物。


 だが、雑だった。


 自分なら残さない。自分なら、もっと静かにやる。何より――自分は銃が嫌いだ。暴力の連鎖の引き金になるものが嫌いだ。なのに、今夜の強盗は殺しに寄っている。


「……誰よ。これ」


 アリスの翼が、ざわりと揺れた。情報の羽根が逆立つ。


 作業人格が淡々と報告を上げる。


 ――鍵の使用痕跡、未登録。

 ――署名の模倣、精度は高いが手順が粗い。

 ――供給ルート、OCM社周辺の物流に寄る。

 ――回収運用、あり。


 アリスは机を蹴りそうになって、踏みとどまった。怒りで壊すのは簡単だ。壊した後の現実は、戻らない。


「……私を、釣り餌にしてる」


 声が小さくなる。小さくなった分だけ、怒りが芯に凝る。


 アリスは翼の中から、ひとつのアイコンを掴んだ。黒い影。自分の手足。シュヴァロフ――ジャバウォック。


 言葉は必要ない。命令は短いほどいい。


「回収。生きた証拠だけ。……殺すな」


 翼が一瞬だけ光り、そして静かになった。


 アリスは深く息を吸って、吐いた。


 自分の名で、街が殺しを始めている。

 自分の知らない鍵で、誰かが“ゴースト”を名乗っている。


 それは、許せない種類の“調整”だった。


 アリスは、もう一度ログを見た。署名の末尾に、見覚えのない微細な癖が混じっている。


 ――プロキシ。


 誰かが自分の影を作っている。


「……見つける」


 呟きは、誓いになった。


 その頃、義弘は外縁へ向かう路地の入り口に立っていた。


 中心部の整いすぎた光が背中に遠ざかり、雑多な匂いが前に来る。ARの線は減り、現実の段差が増える。


 義弘の手には、拾った外装片。刻印。ロット番号。新開市の“表”には存在しない証拠。


 肩の上で、トミーが鼻をひくひくさせた。


「……工場区画。今日の連中、そっちに消えた。匂いが変だ。新しい油の匂いじゃない。古い血の匂いだ」


 義弘は、薄く目を細めた。


「行くぞ」


「言われなくても」


 老人とウサギが、未完成の街へ踏み込んでいく。

 表の正義の外側へ。影が影を使う場所へ。


 新開市は、今日も半分だけ完成している。

 だからこそ、残り半分に――物語は落ちている。

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