404.鉄火の詠唱
「ゲギギギギギギジッ!」
モスマンの金属を擦り合わせるような、耳障りな絶叫が木霊した。
それは害を撒き散らす魔獣の咆哮――のはずだった。
「う、うわっ! モスマンだ! だ、誰か、冒険者を呼べぇー!」
「うわっ、気持ち悪ぃ。もうそんな季節かよ……。勘弁してくれ……」
ルインフォードの住民たちは、日常を侵食するその異形に対し、忌避と恐怖の混じった声を上げる。
だが、その恐怖が街を支配するよりも早く、静寂を切り裂く「シュパッ!」という鋭い風切り音が響いた。
「ギギギィーッ!? ギッ!」
人型の異形、その右肩を一本の矢が深々と貫く。
空中でバランスを崩し、無様に羽ばたきながらのたうち回るモスマン。
だが、一流の狩人たちが与える猶予は、瞬きほどの時間もなかった。
シュパッ! シュダダダダダダダダダッ!!
間髪入れずに放たれた矢の豪雨。
それはもはや精密機械の如き正確さで、モスマンの四肢と翼、そして急所を寸分違わず捉えていく。
数十本の矢に縫い止められた異形は、そのまま古びた納屋の壁へと叩きつけられ、無残な姿で磔にされた。
傷口から溢れ出す青い体液が、壁を汚しながら滴り落ちる。
まさに「針の筵」を地で行く惨状。
魔獣は最期に一度だけ痙攣し、そのまま動かなくなった。
立体街路の石橋の上、そこには二人の影があった。
「ほぅ? エルフのお嬢ちゃん、あんたもなかなかいい腕じゃねえか……」
身の丈ほどもある黒檀の長弓を斜めに構え、鋭い残心を見せているのは、狩人のガイ・ユーリーだ。
その称賛を真っ向から受けたエルフの少女、ミュリエルは、欄干の上に軽やかに立ち上がると、使い込まれた木製の短弓を誇らしげに掲げた。
「あーはっはっはっはっは! こんくれぇできねば、森で生きていかんねってぇ!」
透き通るような肌に、神聖な森の民らしい端正な顔立ち。しかし、その口から飛び出すのは豪快な笑い声と、あまりに素朴で独特なイントネーションの言葉だ。その強烈なギャップこそが、彼女という存在を象徴していた。
超一流の達人二人による、神業に近い連携。
それを見せつけられた住民の男が、呆然としながらも喉を震わせて叫ぶ。
「す、スゲェ……! あんたら、一体何者だ?! 冒険者なのか、それとも……流れ者の傭兵か?」
この要塞都市でも見かけたことのない異能の二人。その実力に、街の人々は畏敬の念を抱かざるを得なかった。
そこへ、緊張感を微塵も感じさせない、ひどく呑気な声が割り込んだ。
「お〜い! ミュリエルぅ、ガイさーん。そっちは片付いたか〜?」
石畳の坂道を、魔導士のローブをひらつかせながら歩いてくるのは、ロートシュタイン領主ラルフ・ドーソンだ。
その隣には、聖教魔導士の純白の装束に身を包んだオルティ・イルが、どこか不満げな表情で並んでいる。
「ふむ、これで粗方は片付いたようだな。……それよりラルフ、私は腹が減ったぞ。魔力の使いすぎだ」
国家級の魔導士でありながら、彼女の口から出るのは、およそ威厳とは程遠い即物的な要望だった。
「おー、領主さま。見ての通り、朝飯前の仕事だったぜぇ。こんなんで報酬を貰っちまっていいのかよ?」
ガイが背に弓を収め、軽々と橋から飛び降りる。
一方で、ミュリエルの視線はラルフの背後に釘付けになっていた。
「あんれまぁ。ファウストさま。……なんでそんなに、全身、汚れてん?」
ラルフの後ろで、ひどく煤け、髪を爆発させた男――ファウスティン・ド・ノアレイン公爵。
彼は、頭からつま先まで埃と砂にまみれた己の姿を、バツが悪そうに誤魔化した。
「う……。うむ、まあ、その……。色々と、不可抗力な事態があってな……」
爆発した塔の頂上から地面に落下し、領民に助け出された記憶を必死に封印しようとする公爵。
その傍らでは、壁に磔にされたモスマンの死骸をまじまじと見つめていたエドが、顔を青くして後ずさっていた。
「……う、うわぁ。エ、エグい……。どうやったら、こんなに弓を連射できるんですか……」
幼いエドは、凄惨な戦場を知る由もないが、この戦闘力のエグさは、目に見えて理解できた。
「ま! これだけ数を減らしたんだ。あとは領兵や住民の皆さんで十分対処できるでしょ?」
ラルフの問いに、ファウスティンはパンパンと上着の砂埃を払いながら頷いた。
「ああ、助かった。礼を言う。……この借りは、いずれ何か、精神的にお返ししよう」
「いや、そこは物質的か金銭的にお願いしたいんですけどね?」
そんな軽口を叩きながら、一行は夕闇に染まる領主館へと向かう。
今夜はノアルディアの館で一泊し、翌朝ロートシュタインへ帰還する手筈だ。
戦いの後の心地よい疲れ。そして、公爵の館で饗されるであろう豪華な晩餐。
誰もが、その「幸福な結末」を疑っていなかった。
そのはずだったのだが。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁッ?! ありませんよ。お食事なんて……!」
領主館の玄関ホール。夕暮れ時の静寂を切り裂いたのは、メイド長ローラの、鼓膜を震わせるほど鋭い絶叫だった。
「……へっ?」
ファウスティンから、魂の抜けたような間抜けな声が漏れる。
しかし、ローラの追撃は止まらない。腰に手を当て、般若のような形相で主人を睨み据える。
「だって、聞いてませんもん! これほどの人数のお客様を連れて帰るなんて、一言も! 前もって仰っていただかなければ、準備なんてできるわけがないでしょう!?」
ラルフ、オルティ、エド、ミュリエル、ガイ。
五人は、無言のまま互いに顔を見合わせる。漂うのは、あからさまな「お通夜モード」だ。
どうにも、このファウスティン公爵は、段取りという最低限の社会人スキルが欠落しているようだ。
「え、あ。え? あれ? ……俺、言ってなかった……か?」
「はい。聞いてません。旦那様からは『帰りが遅くなる』としか。ですから、私たち使用人は、すでに夕食を済ませてしまいましたよ」
ローラは無慈悲な事実を突きつける。
「い、いや! その、何か……何かあるだろ!? パンとか、干し肉とか、残り物でもいいから!」
主の権威をかなぐり捨てて狼狽するファウスティンに対し、ローラの溜め息は深くなるばかりだ。
「ええ、食材ならあります。ですが、この人数分を今から調理するとなれば、どれだけ時間がかかると思っているのですか? ……はぁぁ、もう! いつもお世話になっているラルフ公爵様をお招きして、この体たらくは何事ですか! 私、恥ずかしくてなりません! どうしていつも旦那様は、そうやって詰めが甘いのですかァッ!」
日頃の不満が堰を切ったのか、彼女の説教はもはや止まる気配がない。
空腹の限界を迎えつつあるオルティの目が死んでいくのを見て、ラルフは苦笑しながら手を挙げた。
「まあまあ、ローラさん。なんなら、僕にいい考えがあるんだ。実はマジックバッグに、色々と『お土産』を持ってきたんだよね〜。だから、今夜は僕たちが作るよ!」
その言葉に、ファウスティンが希望の光を見出したように振り返る。
「おっ!? そうか、そりゃあ助かる! 地獄に仏とはこのことだ!」
「旦那様! そうやっていつもいつも、ラルフ様に甘えてばかりでーっ!」
ローラの叱責をかわしながら、ラルフはいたずらっぽく笑った。
「いいんですよ! ちょうどここには、腕自慢の料理人が三人もいるんですから」
ラルフ、そして聖教魔導厨師となったオルティ、さらにノアレイン公爵家の料理番の若きホープ、エド。
早速、一同が厨房へ移動すると、ラルフはおもむろにマジックバッグの奥底へ手を伸ばした。
「じゃじゃーん! コイツを、持ってきたのよねぇ~」
取り出されたのは、眩いばかりの輝きを放つ、巨大な真紅の塊。
先日、居酒屋領主館に運び込まれたあの大マグロ――その中でも最高級の部位とされる、ロインだ。
作業台の上に鎮座したそれは、もはや食材というより、磨き上げられたルビーの山のように神々しい。
「おおおぉ……ッ! ラルフ、でかした!」
ファウスティンが歓喜の声を上げる。
すでに夕食を済ませたはずのローラですら、その宝石のような肉塊を前に、生唾を飲み込んでいた。
「ラルフ様! これを使って何を作るんですか!? 豪快に串焼きですか!? それとも照り焼き!?」
孤児から成り上がったエドが、己の得意分野である「焼き」の工程を想像し、目を輝かせる。
しかし、その横からオルティが、肉食獣のような瞳で異を唱えた。
「何を言う?! これほどの肉、ステーキにするのが道理だろう。チリペッパーを山ほどまぶし、焼き上げる。最高に刺激的な一皿にしようではないか!」
自らの胃袋の欲望を「料理」という名で正当化しようとする魔導士。
だが、その提案に対し、ファウスティンは心底呆れたように肩をすくめた。
「マグロを焼くだと……? はぁ、わかってねぇな……」
「そうだよ〜! 君たち……。こんなに新鮮な海の至宝を焼いて食べるなんて、もはや大罪、……"大罪司教"になっちゃうよ?」
ラルフとファウスティンの二人が、奇跡的なまでの統一見解を示す。
まあ、この世界の人々にとって、ラルフが言うところの『大罪司教』がなんなのかは、さっぱりわからないが。
とにかく、そこにあるのは、二人の間に流れる、言葉を越えた、前世の共鳴……。
「で? 何を作るんだ、ラルフ」
ファウスティンが、自らの失態も説教もどこかへ放り出し、身を乗り出す。
「決まってるでしょ。手軽に腹いっぱい! そしてこの恵みを余すことなく味わう究極の形……。今夜は、――『鉄火丼』で行こうと思う!」
「ホォォォォォ、コホォォォォォォォォォォォォ……」
ファウスティンは天を仰ぎ、喉の奥から魂を震わせるような歓喜の唸りを上げた。
その反応から、彼もまたこの「赤い宝石」が白米の上に鎮座する姿を幻視したのだと、ラルフは確信する。
「よし、エド! まずは君がこの塊を切り分けてくれ。部位によって脂の乗りが違うから、一口大に、見た目も美しく捌くんだ。君の包丁捌き、期待してるぞ!」
「はい! やってみせます!」
信頼を寄せられたエドが、愛用の包丁を構える。その瞳には職人としての熱い火が灯っていた。
「そんじゃあ、オルティ。君は一番重要な『米』を炊いてくれ。炊き方の秘訣は、この前教えた通りだ。一字一句、間違えるなよ?」
オルティは自信に満ちた笑みを浮かべ、胸を張った。
「ふふん、任せておけ! 貴様ほどではないが、私も魔導士の端くれ! 詠唱を覚えるなど造作もないこと。……いくぞ! 『はじめちょろちょろ中ぱっぱ、じゅうじゅう吹いたら火を引いて、ひと握りのワラ燃やし、"エリカさん喚いても"ふた取るな』……これで完璧だな?!」
「そうそう! その意気だ! じゃ、一気に仕上げていくか!」
「「「「オーーー!!」」」」
深夜を前に、厨房に熱気が溢れ出す。
メイド長のローラは、その異様な盛り上がりを眺めながら、思わず胃の辺りを押さえた。
(な、なんだかよく分からないけれど……。私の分って、作ってもらえるのかしら……?)
彼女の胃袋は、すでに主への怒りを忘れ、未知なる美食を迎え入れる準備を完了していた。
実は。他のメイド達も、涎を垂らしながら、厨房の中を血走った目で、覗き見ていた。
――時を同じくして。
遠く離れたロートシュタイン領、『居酒屋領主館』のカウンター。
「ぶえぇぇぇぇぇぇぇッくしょんっ!!」
凄まじいクシャミと共に、見事な金髪ドリルツインテールを激しく揺らしたのは、看板娘のエリカだった。
「ずずずぅ……んんんんっ? ちょっと、誰か、あたしの悪口でも言ってるんじゃないでしょうねぇ!?」
彼女は鼻を擦りながら、あらぬ方向を鋭く睨みつける。
その野生的な勘は、ルインフォードの厨房で自分の名前が変な詠唱に組み込まれていることを、正確に嗅ぎ取っていた。




