401.狩人とオトーシ
今宵、ロートシュタインに新たな英雄が産声を上げた。
「でっけぇ……! なんだこりゃ、化け物かよ!」
ラルフの口から漏れたのは、感動と驚愕が綯い交ぜになった感嘆だった。
夕闇の紫に染まりつつある居酒屋領主館の前庭。
そこに鎮座していたのは、もはや魚という概念を凌駕した巨躯を誇る「大マグロ」である。
行列をなす客たちは、その圧倒的な存在感と、ぬらりと光る銀の肌を前に、文字通り涎を流しながら釘付けになっていた。
「これ、釣ったのか?」
「いえ! ……ガイ・ユーリーさんが、銛でズドン! ですよ」
傍らで胸を張ったのは、海の荒くれ者集団『シャーク・ハンターズ』のフィセだ。その声には、目撃した者だけが抱く純粋な敬意が宿っている。
「魔導具の爆撃銛か?」
「いいえ、その、ただの鉄の、普通の銛です」
「え……まさか、素手で?」
「はい。激しく揺れる足場の先端、大波を浴びながら、一閃。あの獲物を仕留めた様は、まさに海に君臨する英雄そのものでした……」
「スゲェな! ガイさん。いやぁ、逸材が来たかぁ〜」
「だから、逸材なんてもんじゃないですよ! もしかしたらあの人、竜族さえも狩れるかもしれない、英雄の器ですよ?!」
ガイ・ユーリー。共和国から流れてきた(デスロード・スカウトにより連れてこられた)難民の一人であり、生粋の狩人。
齢五十を超え、白髪が混じり始めた長い髪を無造作に後ろで束ねているが、その体躯には一切の弛みがない。しなやかな筋肉は、長年の野営と狩猟で研ぎ澄まされた野生の証だ。
今回、彼がシャーク・ハンターズに同行したのは単なる気まぐれだという。
どこかの組織に属し、型に嵌まった職に就くことを忌避する自由人。冒険者ギルドからの熱烈なスカウトに対し、一応の登録こそ済ませているものの、パーティを組んでダンジョンを攻略することには興味を示さない。
ラルフの前世の言葉を借りるなら、彼は「孤高のフリーランス」を地で行く男だった。
「というか、ラルフ様。これ……捌けるんですか?」
「いやぁ、まあ、できないことは、ないけど……。幸い、今日はサルヴァドルさんが来る日だからね。この解体ショーは、専門家に丸投げ……いや、お任せしよう」
ラルフは即座に、泣きつく相手を定めた。
全長:5メートル超。
推定重量:1トン弱。
この巨体を運ぶためだけに、大型魔導輸送車『ファットローダー』をチャーターしたのだ。
いくらなんでも、素人の手には余りすぎる。
「それじゃあ、野郎共! 居酒屋領主館、開店だぁ!!」
ラルフの号令が夕闇に響き渡る。
「待ってましたッ!」
「ビール〜♪ ビールぅ♪」
「マスター?! エリカさんから、"油そば"とかいう裏メニューがあるって聞きましたよ! 隠してたんですか?! それを所望しますからね!」
「今日は、オルティも厨房に立っているらしいですよ? 司教」
「大丈夫かいな? 激辛料理しか出てこないんじゃなかろうな?」
「ほら、ガイさんも。早く早く! 英雄が突っ立ってちゃ始まらないぜ!」
雪崩を打って客たちが店内へとなだれ込み、静寂は一瞬にしていつもの喧騒に塗り替えられた。
「「「カンパーイ!!」」」
そこへ、どこから嗅ぎつけたのか、魚を愛してやまない国王が文字通り「すっ飛んで」きた。
「サルヴァドル! 何をボサッとしている! すぐに捌け! 今すぐだ!」
引っ張ってきた宮廷料理長をせっつき、前庭では松明の明かりの下、前代未聞の解体ショーが幕を開けた。
熱気に包まれる店内。
ラルフは、今宵の主役であるはずのガイに歩み寄った。
彼はシャーク・ハンターズの面々に囲まれ、賑やかな輪の中心にいたが、その手元にまだ「一杯目」がないことに気づいたからだ。
「やあ、ガイさん。最高の獲物をありがとう。……何から飲む?」
「あ、ああ、領主様。……実はな。その、俺ぁ、酒は一滴もやらないんだ。場違いで申し訳ねぇが、できれば茶でもあれば……」
ガイが申し訳なさそうに零した言葉に、ラルフは一瞬だけ目を丸くした。
この世界の酒場といえば「飲めない奴は去れ」と言わんばかりの場所だという先入観があるのだろう。だが、ラルフの驚きは単に「何故か周りに酒豪しかいなかったから」という至極個人的な理由に過ぎない。
「ああ。ウチはお子さん達も来ますし、こうして、ソフトドリンクのメニューもあります。好きなものを選んでください!」
今度はガイが絶句する番だった。
フィセに「ああ、あそこなら大丈夫だと思いますよ!」と半ば強引に連れてこられたものの、彼にとって酒場は苦行の場でしかなかった。
しかし、差し出されたメニュー表には、目移りするほど多彩な「ノン・アルコール飲料」が並んでいたのだ。
紅茶、緑茶、麦茶、豆茶。
さらには葡萄ソーダにメロンソーダ、さらには秘伝のクラフトコーラまで。
未知の文字列に翻弄されながらも、ガイは一番聞き覚えのある名前を指差した。
「よくわからねぇが、この『紅茶』ってのは、貴族様が嗜むっていう高級品だよな? 一生に一度くらい、飲んでみてぇ」
「温かいのにする? それとも、冷たいやつ?」
「え? こ、紅茶を冷やすなんてことができるんですかい?」
「もちろん。ロートシュタイン流の『アイスティー』、美味いよ!」
「じゃあ……それで頼む」
ガイの注文を受け、ラルフは軽やかな足取りで厨房へと消えていった。
再び周囲の談笑が耳に届く。
「いやしかし、ガイの旦那の『眼』は本物だ。あの鳥山を真っ先に見つけた。俺らより早くだぜ?」
「そうですよ! あの投擲の精度、あれは感動しましたぜ! ぜひウチのクランに加入を!」
すると、隣のテーブルの冒険者からも声が上がる。
「いやいや! 海なんてもったいねぇ。その腕があれば、魔の森のAランク魔獣だってカモだぜ。冒険者になれば、金も女も思いのままだ、ガイの旦那!」
猛烈な勧誘の嵐。そこへ、涼やかな音を立ててラルフが戻ってきた。
「お待たせ! 特製アイスティーだ。まずはそのまま、もし試してみたければ。このシロップやレモン、ミルクで自分流にカスタマイズしてみて。何かあれば呼んでね」
置かれたのは、背の高い透明なグラス。
ガイは、その美しさに息を呑んだ。
琥珀色の液体が照明を反射してきらめき、中にはカランと涼しげな音を立てる「氷」が浮かんでいる。
(……氷だと?)
カウンターの向こうを見れば、あの大魔導士として名高い公爵様が、あろうことか「製氷」の魔法を酒場の備品作りのために行使している。
その贅沢すぎる光景に、ガイは呆れを通り越して戦慄すら覚えた。
彼は、震える手で冷たいグラスを持ち上げる。
狩人として、ヒトの群れから、文明から背を向けて生きてきた自分。
そんな自分が、貴族が口にするという高貴な滴を味わう日が来ようとは。
静かな感動が胸に満ち、彼はゆっくりとその液体を喉へと滑らせた。
「――っ!?」
まずは鮮烈な冷気が、冬の清流のように喉を駆け抜ける。
続いて、春の花園を凝縮したような華やかな香りが鼻腔を抜け、舌の端をかすめる心地よい渋みが輪郭を整える。
そして最後には、繊細な甘みの余韻が長く、深く残った。
「おお……! こりゃあ……確かに、貴族様が独占したくなるわけだぜ!」
思わず叫んでいた。
その声に反応して、カウンターでくつろいでいた辺境伯が、面白そうに振り返る。
「ほう、ガイ殿は紅茶の味がわかる口か。ならば今度、我が領地で採れた特選茶葉を贈ろう。ロートシュタインの品にも引けを取らぬ自慢の品だ」
「あ、あの! いや、自分のような者に、そのような……」
「構わん。あのマグロの切り身を、私も私的に購入させてもらうつもりだからな。……それに、"凄腕"と個人的に友誼を結ぶことは、色々とこちらにも利があることなのだよ」
心底面白そうに。そう言って、何か企みに満ちた光をその目に宿す辺境伯。
「は、はぁ……」
困惑するしかない。
森の中で一人、獲物と対峙することにのみ心血を注いできたガイにとって、この場所の「常識のなさ」は衝撃的だった。
身分の差を軽々と越え、共通の「美味」を前に笑い合う。まさに、ここは異境だった。
そこへ、再びラルフがトレーを手に現れた。
「ガイさん、これ『オトーシ』ね。今日はヨランダが張り切って作ってくれたんだ。……この三種類から、好きなものを選んで!」
カウンターの奥で、誇らしげに胸を張るのは、聖教国魔導厨師の称号を冠したばかりのヨランダ・カームだ。
「お、おとーし……?」
「そう、一品サービス。つまり、タダだ! ウチは席料もとってないんだぜ! フフン!」
と、何故か得意げなラルフ。
「タダって……こんな料理を、無償で?」
ガイの視線の先には、小鉢に盛られた三つの宝石があった。
燃えるような赤が食欲をそそる『麻婆豆腐』。
鮮やかな緑のネギが散らされた、艶やかな『茄子の煮浸し』。
そして、雪のような白に黒胡椒のアクセントが効いた『マカロニサラダ』。
(これ……本当に酒場の、それも無料の料理なのか? 王族の晩餐の並びじゃねぇのかよ……)
喉が鳴る。
視線が、三つの小鉢の間を三角形に、何度も、何度も彷徨う。
どれか一つ。
そんな究極の選択を前に、狩人の決断力は霧散していた。
そして、彼は意を決して、絞り出すように言った。
「あ、……あのぅ。……もし、許されるなら。三つとも、全部いただくことは……できませんかね?」
ラルフは一瞬だけ目を見開き、そして観念したように深い溜息をついた。
「……いいよ。もう、特別ね。一つはサービス、後の二つは追加料金を少しだけもらうけど、いいかい?」
「ああ! もちろんだ!」
テーブルに三つの小鉢が並べられた瞬間。
店内から、怒号に近い声が上がった。
「おい領主様よぉ! そんなことが許されるなら、最初から言えよ!」
「そうですわ! わたくしも、一品に絞るのにどれだけ苦労したと思っているのですか!」
どうやら、居酒屋領主館の常連たちは、この『オトーシ一品制』を鉄の掟として守っていたらしい。
それがガイの素朴な要望によって崩されたのだ。
「俺は、このマカロニサラダをドンブリで食いたいんだよ!」
「私は煮浸しをもう一皿! 生姜マシマシで頼むわ!」
怒涛のように押し寄せる追加オーダー。
「ガイの旦那、よくやった! あんたはやっぱり英雄だぜ!」
「なんだ、つまり、裏メニューみたいなもんだったのか? 気が付かなかったぜ。……やるな、ガイさん!」
なぜか周囲の冒険者や漁師たちに肩を叩かれ、称賛されるガイ。
「あー! もう、わかった! 順番に作るから! 頼むから騒ぐな〜!!」
ラルフの悲鳴のような声を聞きながら、ガイは今までに感じたことのない、奇妙で、それでいて温かい居心地の良さに包まれていた。
かつて、同業者に無理やり連れて行かれた酒場は、不快な酒と怒号が飛び交うだけの場所だった。
だが、ここは違う。
好きなものを、好きなように、自分らしく楽しむことが許されている。
誰も強要せず、誰もがその瞬間の幸福を分かち合っている。
酒を飲んでいないはずなのに、心地よい昂揚感が、冷たい紅茶とともに全身を駆け巡る。
移り住んだばかりの、見知らぬ土地。
だが、この一夜だけで、彼は「友」と呼べる者たちとの確かな縁を手に入れていた。
ガイ・ユーリーは「箸」という名の不慣れな二本の棒に悪戦苦闘しながらも、三つの小鉢が織りなす未知なる滋味を、慈しむように交互に口へと運ぶ。
指先に伝わる覚束なさと、胸を満たす確かな温もり。
彼は、いつまでも途切れることのないロートシュタインの喧騒に、心地よく身を委ねるのだった。




