396.老魔導士、死なずして、まだ働く
荒野の乾いた風を上書きするように、食欲をそそる芳醇な香りが立ち込めていた。
「はいよー! フレーバービール、お待ちどう!」
ラルフの快活な声が、沈んでいた難民たちの心に波紋を広げる。
「ほら、カレーパンよ。……ふんっ、四の五の言わずに食べてみなさい。あまりの旨さに『飛ぶ』わよ?」
エリカが不遜な態度で差し出したのは、黄金色に揚げられた芸術品だ。さらには、
「血のラーメンいかがっすかぁー! 真っ赤に燃える、最高にエグくて美味しい血のラーメンだよぅ!」
という、およそ炊き出しには似つかわしくない物騒な呼び声が響き渡る。
ここは、活気あふれる「居酒屋領主館」――では、断じてない。
戦火に追われ、着の身着のままこの荒野へと辿り着いた難民たちが、身を寄せ合う絶望の淵だ。
しかし、飢えと疲弊に塗りつぶされていた彼らの前に、ラルフや屋台の店主たちが現れ、ごく自然に、そしてあまりに強引に「炊き出し」という名の宴を始めてしまったのである。
「プハァァァァァァァッ! ぬ、ぬおおおおおっ! 酒……酒なんて、一体何年ぶりだ……ッ!」
「キンキンに冷えてやがる……!」
「魂に染み渡るとはこのことかぁ!」
男たちは、久々に五臓六腑を焼く酒精の刺激に、獣のような咆哮を上げた。
「何このパン、凄い……お肉だわ、お肉がぎっしり詰まってる!」
「……こ、このラーメンって、ヤバい。死ぬかと思った……」
老若男女を問わず、ロートシュタインが誇る禁断の美食の数々に、彼らは感涙に震えた。
だが、本当の「攻勢」は、彼らの腹が満たされた瞬間から始まったのである。
至る所で、聞き慣れない「勧誘」の言葉が飛び交い始めた。
「ね? ね?! ウチのパン、美味しいでしょ? だったらさ、ウチで働かない? 三食昼寝付き、有給休暇も完備してるわよ!」
「は、はぁ……ユ、ユーキュー?」
「ほう! お前さん、かつては狩人だったのか?! ならば冒険者になるがいい。それがいい、そうしよう! ……早速、簡易手続きに入ろう。よし、書類はどこだ……」
それは、ラルフの前世の言葉で言うところの「リクルーティング・イベント」。あるいは、「合同企業説明会」。はたまた、荒野の「キャリアフォーラム」。
魔導車ハイバックスの荷台に腰掛けていたラルフも、視線を下げ、幼い子供を抱えた若い母親と静かに言葉を交わしていた。
「領主さま。……私のような、子連れの身でも働ける場所はあるのでしょうか? 私は以前、ヤフニールで小さな酒場を切り盛りしておりまして……」
「酒場?! それは願ってもない。なら是非、ウチの『居酒屋領主館』へ! お子さんは孤児院に預けてもいいし、なんなら現場に連れてきても構わないよ」
「えっ……? 連れて、働く……?」
母親が呆然と呟く。ラルフは屈託のない笑みを浮かべた。
「ああ。ウチじゃそのくらいの年の子たちが、元気に皿洗いや掃除を手伝ってくれてるよ。それに、手の空いたメイドや暇を持て余した商人たちが、面白がって読み書きや算術を教えてくれる。教育環境としても、割と悪くないはずだよ」
すると、母親の腕に抱かれた少女が、夢見心地な声を上げた。
「お母さん。あのラーメン、すっごく美味しかったね……!」
満面の笑み。
それを見た瞬間、母親は堪らなくなり、奥歯を噛み締めた。絞り出すような声で、彼女は問う。
「領主さま。私も……あのラーメン、作れるようになりますか?」
その問いを聞いた瞬間、ラルフの表情が豹変した。まるで極悪非道な企みを抱く魔王のような、底知れない笑みを浮かべる。
「ああ……すぐに、作れるようになるぞ!」
母親は、その不敵な言葉に、ようやく救いを見出した。堰を切ったように涙が溢れ出す。しかし、そこに"待った"をかける者がいた。
「ちょっとラルフさまー! ラーメンのことなら、私たちがプロフェッショナルなんだから! ……ねぇ貴女、どう? 私たちと来ない? 給料は居酒屋領主館の二倍……いえ、三倍払うわ!」
ポンコツ三人娘の一人、パメラが鼻を高くし、三本の指を誇らしげに突き出した。
「ハァ!? なら僕は、住居の無償譲渡を約束しよう。さらに居酒屋領主館の永年無料クーポンも付ける! どうだ!」
「ハァ?! なら私たちだって! 福利厚生として『ラーメン永久食べ放題』よ! これでもう、一生飢える心配はないわ!」
「馬鹿言うな! 子供にラーメンばかり食べさせたら栄養が偏るだろ!」
いつしか、難民の救済は、熾烈な人材争奪戦へと変貌を遂げていた。
母親は、次々と提示される破格の好条件に目を白黒させ、交互に二人を見つめるしかない。
そんな母の胸の中で、幼子だけは無邪気に声を弾ませていた。
「キャッハッハッハッ! ラーメン、たべほうだい!」
その無垢な笑い声だけが、この荒野に訪れた確かな未来を祝福しているようだった。
一方、砂地に腰を下ろし、達観したような面持ちでこの喧騒を眺めていた老人がいた。
難民たちを率いてきた長老、グローズ・ハインド。
荒れた髪と豊かな顎髭を蓄えた彼は、深く、長い溜息を吐き出した。
彼は全身の力を抜くようにして、砂の上に座り込む。
その手には、先ほどラルフから手渡されたビールジョッキ。
それを一気に呷れば、シュワシュワとした清涼感が喉を駆け抜け、強烈な酒精が腹の底を熱く焦がす。
(どうやら……儂の役目は、ここまでらしい)
ボロボロになりながら同胞を守り抜いてきた。
その自らの意義と、最後の仕事を見届けた充足感が、彼を包む。
特に華々しいこともない人生だった。
少しだけ、魔法の素養があった。
冒険者の真似事をしてみたり、将来の魔導士を夢見る若者に学問を教えたりもした。
だが、先の大戦を機に国を追われ、流転の果てに気がつけば「長老」などと呼ばれていた。
もう、すべて終わったのだ。
これからは静かに……。
しかし、そんな彼の感傷を打ち砕くように、隣にドカリと一人の紳士が腰を下ろした。
「そなたは、何か得意なことでもあるのか?」
威厳に満ちた髭を風に揺らしながら、その人物――国王ウラデュウスが、ビールを片手に問いかけてきた。
グローズは自虐的な笑みを浮かべ、鼻を鳴らす。
「……ふん。儂はな、これしか能のない、ただの老いぼれよ……」
直後、彼が両手を広げると、そこには鮮烈な魔法の炎が揺らめいた。
詠唱はおろか、発動のための所作さえ見せない、淀みのない魔力行使。
隣にいたウラデュウスは、あわやジョッキを落としそうになるほど目を見開いた。そして、
「ま、魔導学園の講師にならんかぁぁぁ!」
と、なりふり構わず老人の肩を掴んで縋り付いた。
だが、この逸材を周囲の経営者たちが見逃すはずもない。
「ちょっと待ったぁ! それだけの火魔法使いなら、ウチの鍛冶工房に来い!」
ドワーフの親方が野太い声で吠える。
「はいはーい! ウチのパン屋の厨房担当として、是非スカウトしたいでーす!」
「待て待て! 高火力魔導士なら僕が欲しい! 居酒屋の焼き場、陶芸の窯の温度調整役! 月に金貨三十枚払う!」
なんと、ここでも強欲に、
ラルフ・ドーソン、参戦!!
グローズは呆気に取られるしかない。
この老いぼれを、まだ働かせようというのか?
彼は意を決して、弱々しく首を振った。
「いや、その、ありがたい話だが……。儂は見ての通り、もう腰が言うことを聞かなくてな。働けるものならそうしたいが、いかんせん体が……」
言いかけた、その時だった。
「――《完全治癒》」
温かな、そして暴力的なまでの魔力の光がグローズの下半身を包み込んだ。
長年彼を苛んできた鈍い痛みが、霧が晴れるように消えていく。
驚愕して顔を上げると、そこには片手を差し伸べたラルフが立っていた。
彼の左目には、常人には制御不能なほどの魔力の輝きが赤く灯り、それが波が引くように収まっていくところだった。
魔導士の端くれとして、グローズは直感した。
これが、四年前にたった一人で大戦を終結させたという「生ける伝説」の格。
人間離れした神業。
グローズの頬を、冷たい汗が伝う。
すると、伝説の大魔導士は、満面の、ひどく邪悪で爽やかな笑みを浮かべて言い放った。
「これで! まだまだ、現役で働けますね!」
グローズは、天を仰ぎ、深すぎる溜息を吐き出した。
「……どうしても、働かなきゃダメかのぅ? 儂、できれば釣りでもしながら、静かに余生を送りたかったんじゃが……」
ついに本音を漏らした彼に、ウラデュウスが興奮した様子で食いつく。
「ほう! そなた、釣り好きか!? ならば儂の権限で叙爵させよう! 魔法爵か男爵あたりなら、どうとでもねじ込めるぞ! 水上都市に住むというのはどうだ!」
もはや隠す気もない職権乱用の提案。
それに呼応するように、周囲もさらに加熱する。
「あ! 私たち、ロートシュタインの水上都市で釣具屋やってるんですけど! 顧問として来ませんか!?」
「いーや! シャーク・ハンターズこそが、この御仁の終の棲家に相応しい!」
グローズは遠い目で、狂乱の宴を眺めていた。
もしかすると、自分たちは共和国や盗賊団、ましてや人買い連中よりも、遥かに厄介で「欲深い」連中に目をつけられてしまったのではないか?
……そして、そのまま買い叩かれ、骨の髄まで使い倒される。そんな気がしてならない。
「……まあ、酒も料理も、とびきり美味いんだよな〜」
彼は、なんか、色々と、……諦めることにした。
これはこれで、悪くない。
かもしれない。
いや、なんだか、どうやら生きることに疲れていたはずの心に、妙な熱が灯ってしまったらしい。
「あ、どすか? おかわり、いる?」
と、ラルフ。
老魔導士は、再び差し出された「フレーバービール」を、今度は自分から積極的に、受け取ってしまった。
それが、悪魔の契約とも知らずに……。




