393.ドーソン家の食卓
「私は、とんでもないことを失念しておりましたわ。……従業員が、おりませんの」
淡々と、しかし爆弾を落とすかのような口調で由々しき告白をしたのは、リネア・デューゼンバーグ伯爵夫人である。
その白磁のような貌には、自らの「うっかり」に対する微かな困惑が、名画のひび割れのように薄く張り付いていた。
「モグモグ……。そんなこと僕に報告されても、困るんですけど」
オークロースカツ丼という、暴力的なまでに食欲をそそる黄金の逸品を頬張り、一切の相談に乗る気配を見せないのが、この領の主ラルフ・ドーソンだ。
サクサクと小気味よい音を立てて衣を噛み砕く彼は、目の前の美食を完遂することに全神経を注いでいる。
ラルフの対面では、さらに混沌とした光景が広がっていた。
「レバニラ炒めをくれ! あと、ビールおかわりだ!」
豪快にジョッキを空け、胃袋の限界に挑むかのように追加注文を叩きつけるのは、ラルフの父にして先代当主、ヴォルフガング・ドーソン。
その隣では、
「ミンネちゃーん! 私に、追加でイカのお刺身をちょうだいな」
と、おっとりとした、しかし有無を言わせぬ魔女としての圧を持ったオーダーを飛ばす母、ジャニス・ドーソンが微笑んでいる。
「はーい! ただいま行きまーす!」
孤児の従業員であるミンネが、カウンターの向こう側から弾けるような、それでいてどこか癒やしを伴う元気な声を返した。
さらにラルフの隣では。
「ラルフ! そこのソース取ってちょうだい!」
オークカツカレーと半ラーメンという、炭水化物の暴力的な二重奏を前にしたエリカが叫ぶ。
「モグモグ……はいよ……」
「モグモグ! ムシャムシャ……。お、おい、ラルフ・ドーソン! この『カラシメンタイコ』とかいう赤色の劇物、ヤバすぎないか!? 白飯が魔導回路に吸い込まれるマナのごとく消えていくぞ! これは本当に合法の食い物なのか? おい!」
一心不乱に白飯をかき込んでいるのはオルティ・イルだ。
あまりの旨さに、もはや語彙が国家の法規を疑うレベルにまで退行している。
ここは、居酒屋領主館の客席。
周囲の熱気と喧騒に負けず劣らず、このテーブルもまた、騒がしくも温かな「ドーソン一家とその愉快な仲間たち」の夕食風景に彩られていた。
リネアもまた、今晩こそはこの深刻な人材問題を領主に直談判しようと息巻いていたのだが、気づけばこの輪の中に引き込まれ、瑞々しい「冷しゃぶサラダ定食」をご馳走になっていたのである。
ふと、エリカがソースをカツに回しかけながら顔を上げた。
「モグモグ……。お母様、仮に商業ギルドに求人を出したところで、すぐには見つからないと思うわよ」
愛娘による、氷のような無慈悲な現状分析。
リネアは箸を止めて瞬いた。
「そうなの? どこかに、仕事に困っている人たちがいるのではなくて……? ……あぁ、そうね。この場所では、確かに厳しいかもしれないわね」
彼女が視線を巡らせた先にいるのは、食うに困っていなさそうな人々。
ラルフが引き起こした「美味しい革命」以降、ここは美食の都として大陸全土、いや、海を隔てた東大陸にまで、その名を轟かせる一大観光地へと変貌を遂げていた。
完全雇用に近いこの領で、仕事にあぶれて路頭に迷う者など、もはや絶滅危惧種に等しいのだ。
「アンナ! デザートにリグドラシル・メロンと、あと少し渋めの白ワインを頼むよ」
通りかかったメイドに流れるような動作でデザートを注文したラルフが、呆れたようにリネアを振り返った。
「というか、リネアさん。なんであんなに王宮の広間みたいな店舗にしちゃったんですか? もっとこじんまりとした店にすれば、一人か二人でも回せたでしょうに」
「……つい、ね! うふふ」
まさかの「つい」の一言で片付ける気らしい。伯爵夫人の度量というか、天性の豪胆さには恐れ入る。
「なら、お友達でも誘えばいいじゃないですか。あの、いつも一緒にいる……」
ラルフはそこまで言って、ふと隣のテーブルに目を向けた。そして、即座に(あ、無理だこれ。どうしようもねーわ)と確信した。
「ギャッハッハッハッ! やっぱり私は酒造りの天才だわ! みんな、跪いて私を崇め奉りなさいよー!」
「ギャッハッハッハッ! お姉ちゃん最高! いっそ私たちで新興宗教でも立ち上げちゃう? 『聖女酔教』なんてどうかな、流行るよー!」
「ギャッハッハ! それ良いわねー! 私たちが、神話になるわよー」
高純度の焼酎を呷り、完全に出来上がっている聖女姉妹が肩を組んで爆笑している。
口にしている内容が不敬を通り越して、もはや新創世記のような混沌を孕んでいる。
さらに同じテーブルでは、
「うえ〜い、ヒッく……。妾が、かつて魔導国家カランディアの魔導兵団を灰燼に帰した話はしたかのう? うぃ〜、あれはな、なかなかに骨が折れたのじゃぞ……」
いちごを焼酎に漬け込んだ鮮やかなリキュールを揺らしながら、いつの時代の武勇伝か判別もつかない太古の昔話を語り出しているのは、伝説のエルフ、ユロゥウェルである。
彼女たちは今や、リネアにとって何でも言い合える「気の置けない友人」という貴重なポジションを築いていたが、これほど酒を愛でる面々が、素面で、しかも真面目に接客業に従事できる世界線など、ラルフには到底想像できなかった。
彼は静かに、そして深く納得した。
「まあ、そうなると。王都にまで足を伸ばして求人を出すしかないでしょうね。……あとは、そうですね。奴隷商から、買う? とか」
冗談めかして言ったラルフが、チラリとエリカを盗み見た。
「なによ?」
即座に返ってきたのは、絶対零度の鋭い視線。
「いや、別に。なんでもないっす」
ラルフは早々に目を逸らし、冷めかけた味噌汁を啜った。
その時、ヴォルフガングがミンネから受け取ったレバニラ皿をテーブルに置き、「ありがとな」と労いの言葉をかけた後、ふっと思い出したように口を開いた。
「そういえば、共和国の東側にあるあの荒涼地帯……あそこに難民キャンプがあったな。なあ、ジャニス、覚えているか? 確か、去年のことだったはずだが」
ラルフの手が止まった。味噌汁の椀を口から離し、その瞳に獲物を狙う鷹のような鋭い光を宿す。
「ん? 難民……?」
「あぁ! そういえばいたわね。確か、ヤフニール国の人たちだったかしら? 共和国の傘下に入ることを良しとせず、国を離れた人たちが身を寄せ合って細々と暮らしていたわね」
ジャニスの言葉に、エリカが隣で息を呑む。
「ラルフ。もしかして、ヤフニールって……」
「ああ。そうだ。……エマの故郷だ……」
エマ。かつて居酒屋領主館で働いていた、あの健気な孤児の少女。
今や彼女はトルティーヤの屋台から始まり、フランチャイズ展開まで手掛ける立派な若き経営者へと成長を遂げている。
だが、あの先の大戦の傷跡は未だ癒えず、時代の奔流に取り残され、新しい時代の光から見捨てられた人々がまだ存在しているのだ。
ラルフは、深く、深く、底の見えない思慮の海へと沈んでいく。
そして、その思考の底から突き上げてきたのは、同情でも憤りでもなく、純然たる「経営者」としての、ある種の戦慄だった。
(……勿体ない!)
荒れ地で、着の身着のまま、ただ明日を繋ぐためだけに時間を浪費している人々がいる。
そこには、まだ活用されていない膨大な「労働力」という名の、磨けば光るダイヤモンドの原石が眠っているのだ。
(いや、そんな暇があるなら働けよ……!)
ラルフの中で、一つの決心が、カチリと音を立てて冷徹かつ情熱的に形を成した。
しかし、……ラルフは知らなかった。
この喧騒渦巻く店内には、リネアと同じように深刻な人材不足に頭を抱え、藁をも掴む思いの経営者たちが、客として何人も紛れ込んでいることを。
彼らの耳は、今やラルフたちの会話を逃すまいと、まるで特殊な集音魔導具のように大きく、鋭く、そばだてられていたのである……。




