392.乙女心
「ふむ! 案外似合ってるじゃないか?」
「こ、これは、本当にこれで合っているのか……?」
慣れないサロンエプロン――つまりは「前掛け」という装いに、戸惑いを隠せないのは、聖教国が誇るエリート魔導士、オルティ・イルだ。
その落ち着かない様子を、ラルフは満足げに腕を組んで眺めていた。
場所は、居酒屋領主館の厨房。
なぜ、このような奇妙な光景が展開されているのか?
発端は、ラルフが首を突っ込み、シッチャカメッチャカに暴れ回った昨年の「聖教国革命」にある。
それ以後、開国と資本主義経済の導入という激動の真っ只中、大教会にて『聖教魔導厨士』という前代未聞の役職が設立される運びとなったのだ。
要は「ラルフみたいに魔法を料理に転用できる料理人を育成しよう」という試みである。
ならば、と。
白羽の矢が立ったのが、このオルティ・イルだった。
ロートシュタインに入り浸り、「ラルフとの再戦に臨み雪辱を果たす!」などと息巻いてはいるが、この地の美食に脳を焼かれているのは誰の目にも明白。聖教国に帰る気配が微塵も感じられない彼女を見て、大教会の司祭たちの意見が「アイツでいいんじゃね?」と秒で一致したのは、言うまでもない……。
「見ろ! ラルフ・ドーソン。私も、道具屋街でドワーフの鍛冶師謹製の包丁をオーダーしたのだぞ!」
自慢げに抜き放たれたのは、オリハルコン製の三徳包丁。
キラキラと銀色に光る刃には、彼女のやる気に満ちた瞳が同じようにキラキラと宿っている。
「ほう! 高そうだなぁ。……ってかさぁ、お前、なんでそんなに金持ってるんだ?」
ラルフは不思議そうに首を傾げた。
聖教魔導士としての職務を放り出しているような状態で、一体どうやって生活費を捻出しているのか。その疑問に対し、オルティは「ふっ!」と鼻を鳴らした。
「これを見よ!」
「ん? ああ、そういうことか」
彼女が懐から取り出したのは、冒険者認識票。
その色は、なんとシルバー。ランクはBだ。
おそらく、ロートシュタインの冒険者ギルドで登録し、短期間でここまで駆け上がったのだろう。魔導士としての彼女の優秀さが、こんなところで発揮されていたわけだ。
「ふ~ん。僕のとは、ちょっとデザインが違うのかぁ」
ラルフが首から提げたチェーンを引っ張り上げ、襟口から取り出したのは――特級冒険者票。
それは冒険者としての最高峰、選ばれし者のみが持つ証。
オルティは、その眩い輝きに目を見開き、マヌケな顔を晒した。
公爵であり、大魔導士であり、S級冒険者。それがラルフ・ドーソンという男。
(もう、勝てないのは当然なのかもしれない……)
オルティの心が、ポッキリと折れそうになる。
しかし、彼女は気を取り直して食い下がった。
「そ、それで! まずは何を教えてくれるのだ? カレーか? あの麻婆豆腐か!?」
お気に入りの激辛メニューを自らの手で作り出せる。その期待に胸を躍らせる彼女に、
「はいよ。まずは、テーブルを拭いて」
ラルフが手渡したのは――一枚の布。すなわち、ダスターだった。
「は? いや、その、私は料理を学びにきたのだが?」
困惑するオルティに、ラルフは静かに告げる。
「ふぅ……。あのな? 料理人としての第一歩は、衛生と片付け。それが金を払ってくれるお客様が口にする料理を作る者の、根底の心構えなの」
だが、高潔な魔導士としてのプライドが、その地道な教えを拒絶した。
「えーい! 何を言ってるのか、わからん! 私は料理を学べと大教会から指示されたのだ! 不本意だがな! だから、四の五の言わずに、料理を教えろ!」
激昂したオルティは、手にしていたダスターを床に投げ捨てた。
「…………ふぅ…………」
ラルフが深く、長く呼吸をする。
その顔は至極険しく、彼は一歩、また一歩と、静かな威圧感を纏って歩み出した。
オルティは(殴られる!)と直感し、身を固くした。
ラルフに対し、これまで憎き相手という態度を貫いてきたのは、魔導士としての敗北を認めたくない一心だ。どんな不敬を働いても怒らないラルフに、彼女はどこかで甘えていたのかもしれない。
オルティは、か弱い少女のように、その身を小さく縮こませる。
しかし、ラルフは彼女の目前まで来ると、スッとしゃがみ込み。
投げ捨てられたダスターを、無言で拾い上げた。
「……わからない?」
ラルフの声が、低く響く。
オルティは全身が泡立つような後悔に襲われた。冷や汗が背中を流れる。
ラルフの瞳は、前髪に隠れて見えない。
(追い出される……。「出ていけ」と言われるんだ)
聖教魔導士としての過酷な訓練の日々が、脳裏をよぎる。
孤児として保護され、魔導適性だけを頼りに生きてきた。失敗すれば罵倒され、出来損ないは排除される。その残酷な生存競争に敗れた先に待つのは、惨めな死だけだった。
「……あ、あ、そ、その……」
ガチガチと震え出すオルティ。
しかし、ラルフは気に留める様子もなく立ち上がると、拍子抜けするほど穏やかに言った。
「いや。すまん。……僕の説明が足りなかったな。まずは、ここの仕事を『見て』欲しいんだ。客として来てた時とは、やってみると全然違うこともある。だから、順を追って、徐々に、的確に覚えて欲しいんだよ」
それは、まるで懇願するかのような響きだった。
居酒屋領主館のオーナーであり、料理人としてのこだわり。そして、仕事に対する真摯さと誠実さ。
その強い意志を宿したラルフの瞳を至近距離で見てしまった瞬間、
オルティの心臓が、
ドクリッ!
と大きく跳ねた。
優しさ。
そして、自分を真っ直ぐに、対等に見てくれる男。
(……だが、認めるわけにはいかない。身分も国も違うし、そもそも私は、この男が嫌いなはずだ……!)
あまりにも雑多で、ややこしい。
そう、この男を好きになるのは、世界で一番ややこしいことなのだ。
だから、彼女は必死に虚勢を張った。
「ま、まずは……その、テーブルを拭けばいいのだな!? その……ああ、いい、やってみよう!」
ラルフの手にあるダスターを奪おうと手を伸ばすと――。
「ダーメ! これは床に落ちたんだから。ちゃんと消毒したやつを渡すからさ」
そう言って、ラルフは背を向けて去っていく。
しかし、オルティはその背中を、まるで追いすがるように呼び止めた。
「ラルフ・ドーソン。……お前、私と結婚しないか?」
なぜ、そんな口走ってしまったのか。自分でも理解できなかった。
後悔よりも早く、ラルフがゆっくりと振り返る。
オルティは、どこかで何かを期待してしまった。
断られるのは、わかりきっている。
だが、この男なら、自分の心に消えない傷を残してくれるような、特別な言葉を投げかけてくれるのではないか?
そんな期待もまた、甘えだったのかもしれない。
しかし、ラルフの口から漏れたのは、あまりに予想外の言葉だった。
「は? 毎日、“アレ”だぞ? それでいいってか? バカいってんじゃねーぞ!」
少しだけ照れたように、ガシガシと頭をかくラルフ。
“アレ”とは、居酒屋領主館で、毎夜毎晩繰り広げられる、あの喧騒と激務のことだろう。
だが。
"お前は、それでも、ついて来てくれるのか?"と不器用に問うような、その言葉。
それは、つまりは、
オルティにとっての、なんとも都合の良い、
意訳と幻想と、ロマンの拡大解釈⋯⋯。
彼女の耳には、この幸せな日常がいつまでも続いていくことへの、確かな「宣言」にも聞こえてしまった。
「…………っ?!」
オルティは、まるで幼い乙女のように頬を赤く染めた。
⋯⋯そのすぐ後。
領主館の裏手に呼び出されたオルティが、そこに集う女性陣から凄まじい「ヤキ」を入れられたのは、言うまでもない。




