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居酒屋領主館【書籍化&コミカライズ進行中!!】  作者: ヤマザキゴウ


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389/403

389.無言の夜食

 真夜中のロートシュタイン領主館は、静寂という名の支配下に置かれていた。


 夕刻過ぎからの喧騒――居酒屋領主館の熱狂が嘘のように冷め切った領主私室で、シーツの山がモゾリと蠢く。

 やがて、重い岩を持ち上げるような足取りで起き上がったのは、この地の主、ラルフ・ドーソンであった。


 寝ぼけ眼のまま、彼は指先に小さな魔法の灯火を宿す。


 丑三つ時。一階に鎮座する大時計の刻む音すら届かない深淵な静寂の中、ラルフの腹の虫が、抗いがたい主張を始めた。


 ぐぅ~……


 夜半過ぎまで馴染みの客とグラスを傾けていたものの、胃に収めたのは漬物やチャーシューの端切れといった、いわば"酒の付き添い"に過ぎない。主食という名の質量が、今の彼には決定的に欠けていた。


 ラルフはよろよろとベッドを抜け出し、パジャマの上に魔導士のローブを羽織ると、空腹を抱えて自室を後にした。


 廊下を照らす魔導灯の淡い光の中に、指先の火を溶け込ませるようにして消す。


 二階の大階段に差し掛かったその時、前方から、その小さな人影は現れた。


 ぼんやりとした表情、寝癖のついた金髪。

 普段の象徴であるドリル状のツインテールを解き、背中まで流れるストレートのロングヘアを揺らしているのは、エリカだ。


 二人は、踊り場でぴたりと足を止める。


 視線が、無言のまま交差した。


「……」

「……」


 一秒、二秒。


 言葉など不要だった。

 同じ時間、同じ空間で、同じ「空腹」という根源的渇望に突き動かされた同胞。

 二人は何事もなかったかのように横に並び、連れ立って階段を降り始めた。


 エリカもまた、限界だったのだ。


 昼間、デューゼンバーグ伯爵家別邸に備え付ける、犬小屋ならぬ、"オオカミ小屋"を、ソニアの父である熟練職人と共に、あーでもない、こーでもない、と議論し、作り続けた代償。

 極限まで集中した彼女は、居酒屋がオープンする頃には力尽き、夕食も摂らずに深い眠りに落ちていたのである。


 一階の厨房を覗くと、そこには数人の孤児たちがいた。


 彼らは、夜食ソサイエティ――ラルフが公に黙認している、夜のつまみ食い特権階級の面々だ。新メニューの開発という大義名分を掲げ、和気あいあいと試作に励む彼ら。


 中心にいたトムが、領主の姿に気づき、慌てて声をかけようとした。


 だが、ラルフは無言で掌をかざす。


(気にするな。僕らも、ただの空腹な亡霊だ……)


 そんなオーラが、言葉以上に雄弁に場を制した。


「……」

「……」


 エリカもまた、静かに頷く。

 彼女もまた、この背徳のソサイエティに時折身を投じる常連だ。

 王都の貴族令嬢であった頃には想像もつかなかった、"真夜中のつまみ食い"の悦楽を、彼女はここで教わった。


 二人は厨房の深淵、保冷庫へと向かう。


 同時に扉を開け、冷気の霧の中に視線を走らせる。


「……」

「……」


 そこには、セスが納品したばかりの、新鮮なコロントロの卵が鎮座していた。


 二人は一歩も動かず、首だけを同時に背後の魔導炊飯ジャーへと向ける。


 そこには、夜勤のメイドや早起きの孤児たちのために用意された、炊き立ての白飯が眠っているはずだ。


「……」

「……」


 もはや視線だけで作戦会議は完了した。

ラルフは棚から、愛用している黒い飯碗を取り出す。

 漆黒の陶器は、魔導灯の光を吸い込み、これから盛り付けられる白の輝きを待っている。ラルフは迷わず、エリカの分として同じ造形の碗を彼女に手渡した。


 エリカがシャモジを手に取り、ジャーの蓋を開ける。

溢れ出すのは、ふくよかな米の香りと、視界を白く染める極上の湯気。


 彼女は丁寧に、茶碗へ飯を盛る。


(これくらいかしら? うーん、もう、ちょっと!)


 そう自問自答しながら、彼女はさらに一口、いや一口半ほどの米をシャモジですくい、止まった。


 この僅かな「一口半」が、明日の朝の体重に、あるいは乙女の矜持にどう響くのか?

 シャモジは中空で、迷える小舟のように彷徨う。


 ふと、背後の視線に気づき振り返る。


 ラルフが、無言で顎をしゃくった。


(四の五の言わずに、盛れ!)


 そう告げているようだった。

 エリカは覚悟を決め、その一口半を碗に叩き込み、ペタペタと表面を成形した。


 そして、無言でラルフにシャモジをパスする。


「……」

「…………」


 二人は、一時、別行動に出た。


 ラルフは保冷庫から、秘蔵の「魚粉」を取り出す。


 エリカは流れるような手付きで、ペティナイフでピクルスを微塵切りにし始めた。


 ――数分後。


 厨房の隅にあるテーブルに、二人は向かい合って座った。


 どちらからともなく、深く深く、手を合わせる。


「いただきます……」

「いただきます」


 発せられた声は、寝起きと乾燥、そして沈黙の沈殿によって、驚くほどカッサカサに枯れていた。


 ラルフは箸を手に取り、白飯の中央に小さな穴を穿つ。

 エリカも流儀に従い、同じように穴あけ工事を完遂した。


 そして、ラルフは片手で卵を、

 コチャ! カルワァっ! 

 と、鮮やかな手際で割り入れた。


 一方、エリカは慎重だった。


 以前、この"下拵え"を疎かにした結果、卵白が白飯の山を滑落し、ドゥルドゥルドゥル〜! と、黄金の黄身もろともテーブルにぶちまけるという大惨事を引き起こしている。


 同じ過ちは繰り返さない。

 彼女は両手で、

 コンコン、コチっ! パクワァー! 

 と、祈るように卵を落とした。


 成功だ。

 オレンジ色の黄身が、白米の頂で神々しく鎮座している。


 エリカは、不敵な笑みをラルフに向けた。


「……」


 ラルフは無言で肩をすくめ、自分のお気に入りアレンジ卵かけご飯。

 その上に魚粉とミュリエル特製の醤油を回し入れた。


 一方のエリカは、さらなる狂気を見せる。


 先程の、刻んだピクルスを躊躇なくぶちまけ、さらに、懐から取り出した自慢の配合のカレースパイスを、ふりかけのごとく豪快に振りかけたのだ。


「……?!」


 ラルフの目が見開かれる。


 それはもはや、彼の知る「卵かけご飯」の概念を逸脱していた。


 だが、二人は再び無言に戻り、各々の聖域おきにいりを口へと運ぶ。


 ……しかし、ラルフはどうしても気になった。


 目の前で、エリカが至福の表情で咀嚼している、TKGアレンジが。


 ラルフの疑わしき視線を受け、エリカはモグモグと口を動かしながら、スッと片目を開ける。


「……」


 ラルフの気持ちを察した彼女は、無言のまま、刻みピクルスの残りと、カレースパイスを、テーブルの上でスィーとラルフの方へ押し出した。


 ラルフは訝しげに、だが抗えない好奇心に負け、自分の茶碗に、それを少量乗せた。


 そして、恐る恐る口に運ぶ。


「……?!」


 衝撃が走った。


 前世の記憶にすら存在しない、未知の味覚の爆発。


 卵白とピクルスの酸味が合わさることで、まるで濃厚なタルタルソースのようなコクが生まれ、カレースパイスが卵特有の生臭さを完璧に消し去っている。


 例えるなら、そう――「超速成・タルタルキーマカレー風TKG」。


 驚愕に震えるラルフを、エリカは勝ち誇ったような笑みで眺める。


「……」


(や、やるじゃねーか……)


 悔しそうに顔を歪めるラルフ。


「……」


(ふふん、カレーならね、アンタにも負けないわよ!)


 胸を張るエリカ。


 やがて、二人は一滴の米粒すら残さず完食した。


 食器を流しに置く音だけが、カチャリカチャリと響く。

 それらを、洗う気力すら、今の彼らには残っていない。


 二人は再び、並んで階段を上る。


 一度も振り返らず、言葉も交わさず、それぞれの部屋へと消えていくと、


 ――寝た。

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― 新着の感想 ―
何故寝る前に読んでしまったのか……美味そうだなオイ
………読んでいる時は同じく無言なのに最後の……寝た……で吹き出した
美味しいよね。カレーTKG。 珍しく家にカレールーじゃなくてカレー粉が有ったときにやってみた。危険だった。
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