389.無言の夜食
真夜中のロートシュタイン領主館は、静寂という名の支配下に置かれていた。
夕刻過ぎからの喧騒――居酒屋領主館の熱狂が嘘のように冷め切った領主私室で、シーツの山がモゾリと蠢く。
やがて、重い岩を持ち上げるような足取りで起き上がったのは、この地の主、ラルフ・ドーソンであった。
寝ぼけ眼のまま、彼は指先に小さな魔法の灯火を宿す。
丑三つ時。一階に鎮座する大時計の刻む音すら届かない深淵な静寂の中、ラルフの腹の虫が、抗いがたい主張を始めた。
ぐぅ~……
夜半過ぎまで馴染みの客とグラスを傾けていたものの、胃に収めたのは漬物やチャーシューの端切れといった、いわば"酒の付き添い"に過ぎない。主食という名の質量が、今の彼には決定的に欠けていた。
ラルフはよろよろとベッドを抜け出し、パジャマの上に魔導士のローブを羽織ると、空腹を抱えて自室を後にした。
廊下を照らす魔導灯の淡い光の中に、指先の火を溶け込ませるようにして消す。
二階の大階段に差し掛かったその時、前方から、その小さな人影は現れた。
ぼんやりとした表情、寝癖のついた金髪。
普段の象徴であるドリル状のツインテールを解き、背中まで流れるストレートのロングヘアを揺らしているのは、エリカだ。
二人は、踊り場でぴたりと足を止める。
視線が、無言のまま交差した。
「……」
「……」
一秒、二秒。
言葉など不要だった。
同じ時間、同じ空間で、同じ「空腹」という根源的渇望に突き動かされた同胞。
二人は何事もなかったかのように横に並び、連れ立って階段を降り始めた。
エリカもまた、限界だったのだ。
昼間、デューゼンバーグ伯爵家別邸に備え付ける、犬小屋ならぬ、"オオカミ小屋"を、ソニアの父である熟練職人と共に、あーでもない、こーでもない、と議論し、作り続けた代償。
極限まで集中した彼女は、居酒屋がオープンする頃には力尽き、夕食も摂らずに深い眠りに落ちていたのである。
一階の厨房を覗くと、そこには数人の孤児たちがいた。
彼らは、夜食ソサイエティ――ラルフが公に黙認している、夜のつまみ食い特権階級の面々だ。新メニューの開発という大義名分を掲げ、和気あいあいと試作に励む彼ら。
中心にいたトムが、領主の姿に気づき、慌てて声をかけようとした。
だが、ラルフは無言で掌をかざす。
(気にするな。僕らも、ただの空腹な亡霊だ……)
そんなオーラが、言葉以上に雄弁に場を制した。
「……」
「……」
エリカもまた、静かに頷く。
彼女もまた、この背徳のソサイエティに時折身を投じる常連だ。
王都の貴族令嬢であった頃には想像もつかなかった、"真夜中のつまみ食い"の悦楽を、彼女はここで教わった。
二人は厨房の深淵、保冷庫へと向かう。
同時に扉を開け、冷気の霧の中に視線を走らせる。
「……」
「……」
そこには、セスが納品したばかりの、新鮮なコロントロの卵が鎮座していた。
二人は一歩も動かず、首だけを同時に背後の魔導炊飯ジャーへと向ける。
そこには、夜勤のメイドや早起きの孤児たちのために用意された、炊き立ての白飯が眠っているはずだ。
「……」
「……」
もはや視線だけで作戦会議は完了した。
ラルフは棚から、愛用している黒い飯碗を取り出す。
漆黒の陶器は、魔導灯の光を吸い込み、これから盛り付けられる白の輝きを待っている。ラルフは迷わず、エリカの分として同じ造形の碗を彼女に手渡した。
エリカがシャモジを手に取り、ジャーの蓋を開ける。
溢れ出すのは、ふくよかな米の香りと、視界を白く染める極上の湯気。
彼女は丁寧に、茶碗へ飯を盛る。
(これくらいかしら? うーん、もう、ちょっと!)
そう自問自答しながら、彼女はさらに一口、いや一口半ほどの米をシャモジですくい、止まった。
この僅かな「一口半」が、明日の朝の体重に、あるいは乙女の矜持にどう響くのか?
シャモジは中空で、迷える小舟のように彷徨う。
ふと、背後の視線に気づき振り返る。
ラルフが、無言で顎をしゃくった。
(四の五の言わずに、盛れ!)
そう告げているようだった。
エリカは覚悟を決め、その一口半を碗に叩き込み、ペタペタと表面を成形した。
そして、無言でラルフにシャモジをパスする。
「……」
「…………」
二人は、一時、別行動に出た。
ラルフは保冷庫から、秘蔵の「魚粉」を取り出す。
エリカは流れるような手付きで、ペティナイフでピクルスを微塵切りにし始めた。
――数分後。
厨房の隅にあるテーブルに、二人は向かい合って座った。
どちらからともなく、深く深く、手を合わせる。
「いただきます……」
「いただきます」
発せられた声は、寝起きと乾燥、そして沈黙の沈殿によって、驚くほどカッサカサに枯れていた。
ラルフは箸を手に取り、白飯の中央に小さな穴を穿つ。
エリカも流儀に従い、同じように穴あけ工事を完遂した。
そして、ラルフは片手で卵を、
コチャ! カルワァっ!
と、鮮やかな手際で割り入れた。
一方、エリカは慎重だった。
以前、この"下拵え"を疎かにした結果、卵白が白飯の山を滑落し、ドゥルドゥルドゥル〜! と、黄金の黄身もろともテーブルにぶちまけるという大惨事を引き起こしている。
同じ過ちは繰り返さない。
彼女は両手で、
コンコン、コチっ! パクワァー!
と、祈るように卵を落とした。
成功だ。
オレンジ色の黄身が、白米の頂で神々しく鎮座している。
エリカは、不敵な笑みをラルフに向けた。
「……」
ラルフは無言で肩をすくめ、自分のお気に入りアレンジ卵かけご飯。
その上に魚粉とミュリエル特製の醤油を回し入れた。
一方のエリカは、さらなる狂気を見せる。
先程の、刻んだピクルスを躊躇なくぶちまけ、さらに、懐から取り出した自慢の配合のカレースパイスを、ふりかけのごとく豪快に振りかけたのだ。
「……?!」
ラルフの目が見開かれる。
それはもはや、彼の知る「卵かけご飯」の概念を逸脱していた。
だが、二人は再び無言に戻り、各々の聖域を口へと運ぶ。
……しかし、ラルフはどうしても気になった。
目の前で、エリカが至福の表情で咀嚼している、TKGアレンジが。
ラルフの疑わしき視線を受け、エリカはモグモグと口を動かしながら、スッと片目を開ける。
「……」
ラルフの気持ちを察した彼女は、無言のまま、刻みピクルスの残りと、カレースパイスを、テーブルの上でスィーとラルフの方へ押し出した。
ラルフは訝しげに、だが抗えない好奇心に負け、自分の茶碗に、それを少量乗せた。
そして、恐る恐る口に運ぶ。
「……?!」
衝撃が走った。
前世の記憶にすら存在しない、未知の味覚の爆発。
卵白とピクルスの酸味が合わさることで、まるで濃厚なタルタルソースのようなコクが生まれ、カレースパイスが卵特有の生臭さを完璧に消し去っている。
例えるなら、そう――「超速成・タルタルキーマカレー風TKG」。
驚愕に震えるラルフを、エリカは勝ち誇ったような笑みで眺める。
「……」
(や、やるじゃねーか……)
悔しそうに顔を歪めるラルフ。
「……」
(ふふん、カレーならね、アンタにも負けないわよ!)
胸を張るエリカ。
やがて、二人は一滴の米粒すら残さず完食した。
食器を流しに置く音だけが、カチャリカチャリと響く。
それらを、洗う気力すら、今の彼らには残っていない。
二人は再び、並んで階段を上る。
一度も振り返らず、言葉も交わさず、それぞれの部屋へと消えていくと、
――寝た。




