388.合理的な優しさ
「はぁ~、でっけぇ……」
抜けたような声を漏らし、ラルフはその圧倒的な質量を見上げた。
そこにあるのは、ログハウスという概念を物理的に拡張したかのような、巨大な木造建築物だ。
場所はロートシュタインの喧騒を離れた郊外。
せせらぎを刻む小川と、天を突く三本の巨木が並び立つ、静謐を絵に描いたような原野である。
「凄いでしょ! ユロゥウェルさんのツリーハウスに憧れて、わたくし、細部まで徹底的にこだわってみましたの!」
頬を薔薇色に染め、誇らしげに豊満な胸を張るのは、リネア・デューゼンバーグ夫人だ。その瞳には、まるで新しい玩具を前にした少女のような無邪気な熱が宿っている。
「あ、でも、さすがに樹上は諦めたんですか?」
ラルフが問いかけると、リネアは「ふふっ」と意味深に、そして勝ち誇ったように喉を鳴らした。
「いいえ! あちらの太い枝をご覧くださいな。さすがに領主館にあるユロゥウェルさんの邸宅ほどではございませんが、あそこには離れとしての『小さなツリーハウス』を建設予定なんですのよ!」
リネアはこらえきれないといった様子で、愛らしく、しかしどこか権力者特有の不敵さを孕んだ笑い声を上げた。
デューゼンバーグ伯爵家のロートシュタイン別邸計画は、今まさに佳境を迎えていた。
熟練のドワーフ大工や、かつてのカドス反乱に加担し期間限定の奴隷となった者たちが振るう金槌の音が、突き抜けるような青空に小気味よく響き渡っている。
「へぇー。……で、これ、母屋は何部屋くらいあるんですか?」
「全部で七部屋。……一階は広々としたキッチンと、ゆとりある客席を配置して……」
「なるほど」と頷きかけたラルフだったが、その言葉に含まれた違和感に思考が停止した。聞き捨てならない単語が交じっていなかったか。
「ん? 客席? 客間じゃなくてですか?」
「フッフッフ……気づいてしまったのね、ラルフ公爵。ええ、そうです。実はこの一階、わたくしの店――『スナック・リネア』になる予定なのよ!」
「え、えええぇ?! な、なんですとおぉっ!? す、スナック?! リネアさん、なぜその名を!?」
ラルフは文字通り、心臓が跳ね上がるほどの衝撃を受けた。
なぜ、この異世界の貴婦人が、自分の前世――日本という極東の島国に深く根ざした、ママとの対話と哀愁を肴にする「地域密着型アルコール提供施設」の概念を知っているのか。
「あら? 貴方が仰っていたのよ。それはもう、ひどく泥酔して、クダを巻いていた時に……」
リネアは意地悪そうに、しかし親愛の情を込めて微笑む。
ラルフは(……そうだったかなぁ?)と記憶の混濁した深淵を覗き込もうとしたが、すぐに諦めた。
酒の席での失言など、彼にとっては日常茶飯事のノイズに過ぎない。
だが、冷静に考えれば、これは僥倖とも言えた。
彼が経営する『居酒屋領主館』の殺人的な混雑が、このアットホームな店に分散されれば、現在直面しているオーバーワークの解消に繋がるかもしれない。
何より、ラルフ自身、騒がしすぎる自店を離れ、静かにグラスを傾けられる聖域を求めていたのだ。
しかし、ふと現実的な懸念が脳裏をよぎる。
「……でもこれ、建築費だけでも相当な額じゃないですか?」
「うっふっふ……ええ。結構、いたしましたわね」
優雅に口元を隠して笑うリネア。
ラルフが視線を隣にずらすと、そこにはデューゼンバーグ伯爵が立っていた。
その瞳は、すべてを悟り、すべてを諦め、彼方の銀河を見つめる賢者の如き静謐さを湛えている。
そして、その目尻には一滴の涙が、午後の陽光を反射してダイヤモンドのように輝いていた。
ラルフはその沈黙の重みを察し、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたが、かける言葉は見つからなかった。
もっとも、この伯爵も大概だ。
王都の自宅一階を勝手にワインバーに改装したり、趣味の魔導車を蒐集したりと、やりたい放題の趣味人実業家である。
(伴侶の暴走も、彼にとっては良い薬かもしれない)と、ラルフは強引に結論づけることにした。
伯爵家における"平和的だが恐るべきイニシアチブ"の所在を確認したところで、ラルフは以前から引っかかっていた懸念を口にする。
「あ、そういえば、エリカはここに住むんですよね? 七部屋もあるなら、あいつの部屋もしっかり確保されているんでしょ?」
すると、先ほどまでの優雅さはどこへやら。
「エリカはそのままで!」
「そうだ! 今のまま、ラルフ殿の領主館で世話してやってくれ!」
夫婦揃って、阿吽の呼吸で、食い気味に即答してきた。
「なんでだよっ!? もう奴隷契約とか建前はどうでもいいですから! 早くそちらで引き取ってくださいよ!!」
ラルフが捲し立てるが、
「あら? 貴方、そろそろ職人さんたちに昼食の用意が必要だわ」
「む? あ、ああ。そうだな。誰かに買い出しに行かせるか」
二人は露骨に、それこそ舞台上の大根役者のような不自然さで話を逸らした。
「なんでだよォォォォ!? どうしてだようォォォォ!?」
理解不能な拒絶に、ラルフは絶望と共に芝の上に倒れ込んだ。
二人の愛娘であるエリカは、形式上はラルフの奴隷だが、実態は「自由の擬人化」である。
居酒屋で給仕をしながらカレーを売り捌き、隙あらば屋台でカレーパンを量産し、競馬場へ通い詰める。
もはや「奴隷」という言葉の再定義が必要なレベルだ。
だが、ラルフも薄々は気づいていた。
この夫婦は、あわよくば娘をドーソン家に捩じ込み、公爵夫人の座を狙わせようと虎視眈々と策を練っているのだ。
ふと見れば、デューゼンバーグ伯爵が奴隷の一人と何やら深刻な面持ちで話し合っている。
「……この人数分を揃えるのは、やはり厳しいか?」
「あ、いえ、調達自体は可能なのですが……この時間の屋台街は、激しい混雑でして。往復するだけで作業時間が削られますし、その……」
「これまではどうしていたのだ?」
「交代で休憩を取り、街中へ向かっていましたが……何せ人が多すぎて。食事を諦め、空腹のままぶっ通しで金槌を振るう者も少なくありません」
その言葉を聞いた瞬間、ラルフの意識が、"前世の呪縛"に反応した。
彼はバネが弾けたように起き上がり、草の上に胡座をかいて言い放つ。
「ダメだダメだ! ……多重債務者が集まる地下強制労働施設じゃあるまいにっ! そんな過酷な労働環境が、僕の領地で放置されているなんて、絶対に見過ごせないね!」
「えっ? はっ? だがラルフ殿、彼らは奴隷なのだぞ?」
困惑する伯爵に、さらに奴隷自身も「あの、公爵様? 俺たち、一応、反乱を起こした、奴隷なんですけど……」と戸惑いの声を上げる。
だが、ラルフの瞳には冷徹なまでの「経済的合理性」が宿っていた。
彼が最も忌み嫌う言葉――それは、『ブラック労働』。
それが単なる道徳的な悪ではなく、いかに構造的な欠陥を抱えた「愚かな経営戦略」であるかを、彼は血の滲むような過労死社会で学んできたのだ。
「いいか、よく聞け! 奴隷だの非正規雇用だのという名称のハックに踊らされるな。人間というリソースは、メンテナンスを怠れば摩耗し、故障し、最終的な歩留まりを下げる。空腹での作業は集中力を欠き、事故のリスクを跳ね上げ、工期の遅延という形で結局は経営者の財布を直撃するんだよ!」
彼は止まらない。
「『自己責任』や『精神論』で栄養失調を誤魔化すのは、経営努力を放棄した無能の証だ。適切な給餌と休息は、労働力の再生産における必要経費なんだよ! そのコストをケチって労働力を使い潰すのは、資産を切り崩して延命しているだけのタコ足配当と同じだ。僕は、そんな三流の為政者に成り下がるつもりはない!」
ラルフはヤケクソ気味に、だが断固として宣言した。
しかし、
「あ、あ、あの、すまん……。何一つ、言っていることが、わからない……」
と、デューゼンバーグ伯爵。
すると、「ちっ!」と、小さく舌打ちしたラルフが、
「あー、もう! じゃあいいよ! 明日からウチが――居酒屋領主館が、特製の現場飯を用意してやる!」
「おおっ! 本当か!? それはありがたい!」
ドワーフの頭領が歓喜の声を上げると、現場に激震が走った。
「フォー! やったぜ! 明日から、昼も領主館のメシが食えるってよ!」
「最高じゃねーか!? なあ、割の良い現場過ぎるぞっ!」
奴隷や職人たちが小躍りし、現場の士気は一気に沸点を超えた。
しかし、現実的な金勘定が脳内を占めるデューゼンバーグ伯爵は、血走った目で叫ぶ。
「ラルフ公爵ぅ! その食費、まさかウチに請求する気じゃありませんよねぇ!?」
「はぁ~、もう……いいですよ! 僕が持ちます! めんどくせーってんですわっ! ……その代わりだ! 『スナック・リネア』がオープンしたら、僕の飲み代は極限まで安くしてくださいよ!」
「よしっ! さすがだ!」
「助かるわー!」
「いぇー! ラルフ様、最高!」
「ロートシュタイン、万歳っ!」
現場はさながら祭りのような熱狂に包まれ、ラルフは気恥ずかしそうに頬を掻いた。
しかし、ラルフ自身は自覚していない。
この領地に漂う、あまりにも自由で、それでいて強固な信頼に満ちた空気を創り出しているのが、他ならぬ自分自身の「合理性という名の優しさ」であることを。




