385.タレとタレとタレ
冒険者の街としてロートシュタインがその名を馳せてから、幾星霜。
かつては血気盛んな荒くれ者たちがダンジョンの深淵を目指したこの地も、今や王国随一の「美食の聖地」として、全土から食い道楽たちが集う観光名所へと変貌を遂げていた。
その喧騒の中心、毎度お馴染み居酒屋領主館では、今宵もまた、魔物との死闘を凌駕するほどに熱い「お宝探し」が繰り広げられている。ただし、彼らが追い求めているのは金銀財宝ではなく、胃袋を震わせる未知の美味だ。
今宵の熱狂のテーマ。
それは『タレ』。
あるいは『ソース』、はたまた『合わせ調味料』。
若き領主ラルフ・ドーソンが生み出す異次元の料理の傍らで、主役を鮮やかに引き立てる「名脇役」――その底知れぬポテンシャルに、ここに集う美食家たちが気づいてしまうのは、もはや必然の運命であった。
「このオーク(豚)バラの重厚な脂を、ピリリと刺すような辛味噌が蹂躙する……これだ、これこそが至高の極致ッ!」
両手に握った串焼きを交互に頬張り、恍惚の表情を浮かべるのは女騎士ミラ・カーライルだ。
彼女の瞳には、戦場での猛々しさは微塵もなく、ただ食の悦楽に身を委ねる乙女の輝きがあった。
「ふむ、それはどうかな? やはりヤキトリの真髄は、ロックバードのモモ肉! そこに醤油と砂糖が炭火の香りを纏って絡みつく『秘伝のタレ』こそが、究極の串焼きと呼ぶに相応しい!」
ラルフの同級生であるアルフレッドが、醤油の焦げる香ばしさを熱烈に弁護し、対立の火花を散らす。
カウンターの中からその様子を眺めていたラルフは、そっと遠い目をした。
(……出たよ。異世界版の『究極』対『至高』の対決……)
そこへ、ミラに加勢するように一人の少女が客席から躍り出た。
眩いばかりの金髪ドリルツインテールを揺らし、傲岸不遜な態度で胸を張るエリカである。
「ちょっとアンタたち、視野が狭いわよ! カレーにあの辛味噌をトッピングしてみなさい。脳が弾け飛ぶような衝撃が走るんだから!」
「な、なんだって……? カレーに味噌だと!? 新しすぎるだろう!」
「あ、はいっ! 私、それ試したいです! むしろ義務です! はい」
新感覚の提案に、聖教魔導士のオルティ・イルが目を血走らせて身を乗り出す。
「辛味噌トッピングならば味噌ラーメンも良き! あれは、もはや合法なのかすら疑わしいぞ!」
腹ペコ女騎士ミラは、いつの間にか中身のなくなった串を両手に握りしめたまま豪快に笑う。
喧騒の中、エリカがふと思い出したようにカウンターへ視線を向けた。
「ところでヴラドさんは、甘いタレと辛いタレ、高貴なる舌としては、どちらに軍配を上げるのかしら?」
気さくに……というよりはあまりにも不敬に近い気軽さで声をかけられたウラデュウス国王は、米酒を嗜みながら、泰然自若とした態度で応じた。
「ふむ……串焼きに合うかは別として、儂の今の『推し』はこれだな。……酢味噌だ」
王が掲げたのは、小皿に満たされた玲瓏たる黄色の合わせ調味料。
「鯉の洗いに合わせるのが、今の儂の至福でな。淡白ながらも力強い鯉の身に、味噌のコクが寄り添い、酢の後味が脂の重みを清らかな風のように洗い流してくれる……。これこそが、運命」
「酢味噌でしたら、少量のカラシを加えて、茹でたアスパラや菜の花をディップするのもまた一興ですよ」
遠くの席から、聖女トーヴァ・レイヨンが癒やしの微笑みとともに優雅な援護射撃を飛ばす。
「そうそう! 以前ラルフ様が作ってくださった『カマボコとブロッコリーの酢味噌サラダ』も絶品でしたわよね。あぁ、今夜の賄いにまたリクエストしちゃおうかしら……」
メイド服の裾を翻しながら皿を運ぶのは、リネア・デューゼンバーグ伯爵夫人だ。この謎の「高貴なバイト」は、どうやらまだ継続中らしい。
ラルフは特に議論に加わることもなく、ただ平和な居酒屋の曼荼羅を眺めていた。
味の趣味趣向を語り合い、それがまた酒を呼び、酒がさらに言葉を弾ませる。これこそが健全であり、正しき居酒屋の形だ。
しかし、あまりに議論が白熱して火傷をしそうなら、先に「楔」を打っておくのが有能な経営者の嗜みというもの。
ラルフは手際よく肉を串打ちすると、焼台に宿る炎の精霊、サラちゃんをそっと宥めるように火力を調整した。
やがて、脂の弾ける小気味よい音とともに、三つの異なる輝きを放つ皿が差し出された。
「議論もいいが、"百聞は一口にしかず"。僕のオススメ、『食べ比べ串焼き三種のタレ神器』だ!」
「ん? おお……! 豚バラの辛味噌に、モモ肉の甘ダレ……そしてこの最後の一本は……」
ドワーフの頭領が、鑑定士のような鋭い眼差しで覗き込む。
「ササミの串焼きだ。ただし、タレは――酢味噌だ」
「た、食べたい! マスター、その三種盛り、こっちにも三セット!」
「俺もだ!」
「一度に三つの味、なんか、得した気分っ……!」
火をつけられた導火線のように、客席は爆発的な注文の嵐に包まれた。
ラルフは不敵な笑みを浮かべ、カウンター越しに言い放つ。
「まあ、そういうこった。味に絶対的な優劣なんてない。あるのは、素材を最大限に輝かせるための『適材適所の配役』だけだと、僕は思うぞ!」
本日何本目かも定かではない串を頬張っていたミラが、力強く咀嚼し、嚥下した。
そして、
「……マスター。もしや、……他にもまだ、我々の知らない『秘蔵のタレ』を隠し持っているのではないか?」
ミラの問いに、騒いでいた客たちが一斉に動きを止め、静寂が訪れる。全員の視線が、ラルフという名の美食の深淵へと向けられた。
「ん? そうだなぁ……。ポン酢におろしポン酢、ゴマダレにネギ塩ダレ、肝醤油に蟹酢、梅肉醤油に田楽味噌……。あとはバルサミコベースの……」
「ちょ、ちょっと待ちなさい! アンタ、それは本当にあるの!? 適当なハッタリを並べてるんじゃないでしょうね!?」
エリカが驚愕のあまり椅子から転げ落ちそうになりながら叫ぶ。
たった一人の人間の脳内に、どれほどの味覚のバリエーションが圧縮されているというのか。
「失礼な! ちゃんと、形にしてあるさ。……これにな」
ラルフがカウンターの下から取り出したのは、重厚な装丁の『ラルフのレシピ集 第四巻』。
多忙な領主業務の合間を縫って、彼がちまちまと書き溜めてきたそれは、先日ロートシュタイン出版から満を持して解禁された、美食の黙示録であった。
客たちは頬を伝う汗を拭うことも忘れ、周囲の者たちと無言で視線を交わした。
薄々は感じていた。
だが、確信した。
ラルフ・ドーソンという男が作り出す美食の迷宮は、底が知れないのではない。
入り口こそ魅力的だが、一度足を踏み入れたら二度と抜け出せない、至福の「底なし沼」なのだと。
そして、彼らは同時に、ある種の絶望に近い感動を覚えた。
(この店にあるすべてのタレ、すべての美食を味わい尽くすには……ヒトの人生という時間は、あまりに短すぎるのではないか――?)
今宵も、絶望と感動を伴い、タレの香りと、ちょっと間抜けな人々が織りなす喧騒が、ロートシュタインの夜に染み渡っていった。




