384.思い出の味
毎夜の恒例行事とも言える、喧騒と熱気に満ちた夜が幕を開ける。
「いらっしゃーい!」
暖簾を潜り、期待に胸を膨らませてやってくる客たちを、オーナーのラルフ・ドーソンは柔らかな笑みで迎え入れていく。酒精と出汁の香りが混じり合い、浮き足立った笑い声が店内の空気を華やかに震わせる居酒屋領主館。
だが、今夜のラルフが吐き出した溜息は、いつもの忙殺される予感とは少し色の違う、複雑な重みを孕んでいた。
店内の至る所で、奇妙な光景が繰り広げられていたのだ。
「おお、トム君! 探したぞ。どうだね? 我が領地に建設予定の最新鋭製麺工場の責任者として、極秘裏に私と契約を結ばんか? なんなら、そのまま私の養子として迎え入れてもいい!」
「え、ええぇ……っ!?」
ロートシュタイン製麺所の若き長、トムが、辺境伯からの猛烈なスカウトに目を白黒させている。
別のテーブルでは、気品溢れる王都在住の男爵夫人が、給仕に奔走する少女の腕を掴んで離さない。
「あぁ、ベルちゃん! あなた、私の専属にならない? 給金はここの二倍……いえ、三倍約束するわ! その代わり、毎日その美しい感性を見せてちょうだい」
「あ……あの。その、私、お金が貯まったら王都の美術学園に行きたくて……」
「まあ! ちょうどいいじゃない! 私も絵画には造詣が深いのよ! そういえば、このメニューにある料理の挿絵も、ベルちゃんが描いたのでしょう? 決めたわ! 私があなたのパトロンになる!」
「えええぇぇっ!?」
まだ幼いベルの瞳が、驚愕で零れ落ちそうに大きく見開かれる。
一体、この店で何が起きているのか?
事の端緒は、昨夜この場所で多くの人々が目撃した「奇跡」にあった。
ファウスティン・ド・ノアレイン公爵による、孤独な少年エドへの劇的なスカウト。
エドは新たな運命の糸を紡ぐため、誇らしげにノアルディア領へと旅立っていった。
もっとも、魔導車を飛ばせば一時間ほどの距離であり、主であるファウスティン自身が毎夜のようにここを訪れるため、感傷に浸る暇もないのだが。
しかし、居酒屋領主館を愛顧する貴族たちは、ある決定的な事実に気づいてしまったのだ。
この店で働く孤児たちの――「ポテンシャル」に。
ラルフという、未知の知恵を操る、美食の伝道者の傍らで技術を磨き、連合国の重鎮たちが顔を並べるこの特殊な空間で、物怖じせず立ち回る子供たち。
彼ら、はただの労働者ではない!
磨けば光る、いやもう光り輝いてる、「逸材の原石」だったのである。
いわゆる「青田買い」。
将来、どこか目の届かない場所に旅立つには惜しく、味方につければこれほど心強い存在はない。
貴族たちは、その有用性にようやく気づいた、そして一斉に牙を剥いたのである。
そんな狂乱の先駆者とも言えるグレン子爵が、米酒のロックを転がしながら、悦に入った様子で笑っている。
「さあ、カイリー。お前が今執筆している最新作の内容を、この者たちに聞かせてやりなさい」
「はい! 実は……共和国における郷土料理の変遷史を、一冊の書物に纏めてみたいと考えておりまして……」
ロートシュタイン出版の記者であり、グレン子爵と養子縁組を結んだ少女カイリーが、その知的な瞳を輝かせて語り出す。
「なるほど、グレン子爵。お目が高い。カイリー女史の類まれなる才能を、独り占めしようという魂胆でしたか?」
デューゼンバーグ伯爵が、ビールジョッキを片手に感心したように頷く。
「フフ、まあ、そうなる。かな? あの子の美食に対する嗅覚と、それを言葉に紡ぐ力は凄まじいのだよ。それに、我が家内も彼女のような娘が欲しかったと、実の子以上に慈しんでいてね」
夢中で語るカイリーを、本当の娘を見守るような慈愛に満ちた目で見つめる子爵。そこには貴族としての打算を超えた、確かな絆が芽生えつつあった。
そして、この熱狂の渦中で最も厄介な一団――。
クレア王妃の熱烈なターゲットは、看板娘のミンネとハルだった。
「ふんすっ! この二人は、今日からバランタイン家の養子とします! 異議は一切認めません!!」
鼻息荒く、圧倒的な王族の権能を振りかざして宣言する。
「あ、あのー。その、私たちはここで皆と暮らしたいというか……」
「そ、その……王城に入るのは、ちょっと心の準備が……」
たじろぐ二人を見かねて、ラルフがやれやれと助太刀に入った。
「クレア様……。王家が孤児を養子にするなんて、手続きが煩雑すぎて前代未聞ですよ。それに、どうか二人の自由な意志を尊重してあげてもらえませんか?」
極めて穏当に、角が立たないように説得したつもりだったが――。
「嫌です! 私はこの二人が欲しいのォォォォォォォォ!」
それはもはや、駄々をこねる幼児そのものの叫びだった。
「……はぁ」
ラルフは呆れを通り越し、白目を剥いて天を仰いだ。
だが、ラルフとしても彼女らの将来を案じていないわけではない。
貴族の庇護下に入り、教育を受け、家柄という盾を手に入れる。それはこの過酷な異世界において、彼らにとっての「下剋上」であり、人生の大逆転に他ならない。
ただ、何不自由なく、自分の足で自由に生きてほしい。
ラルフの願いは、どこまでもシンプルで、どこまでも切実だった。
その時、乾いたドアベルの音が新たな客の訪れを告げる。
「いらっしゃいませー!」
「居酒屋領主館へようこそ!」
クレア王妃の拘束から逃れるように、ミンネとハルが弾かれたように駆け出した。
「あーん! もう、つれないわねぇ!」
悔しげに地団駄を踏む王妃を横目に、入ってきたのは――。
「よう。ミンネちゃん、ハルちゃん。席は空いているか?」
漆黒の外套を揺らし、ファウスティンが姿を現した。
「はい! お二人様、カウンターへどうぞ!」
案内されたのは、公爵と――その後ろに隠れるように立つ、エドだった。
カウンターの向こう側で腕を組んだラルフが、不敵な笑みを浮かべる。
「ファウストさん……それに、エド。いらっしゃい」
「は、はい……。い、いらっしゃいました……」
昨夜の決意はどこへやら、エドは顔を真っ赤にして俯き、しどろもどろに応じる。
その様子を見たファウスティンが、愉しげにエドの背を小突いた。
「ほら、お前も食いたいものを頼め。今夜は何がいい?」
「……あ、あの。もしよければ、なんですけど……。俺、ここでまた、少しだけヤキトリを焼いてもいいですか?」
絞り出すようなその言葉に、ファウスティンとラルフは顔を見合わせ、同時にニヤリと口角を上げた。
「ふっ、好きにしろ」
「ほらエド! エプロンは用意してある。さっさと手を洗ってこい!」
「は、はいっ!」
物事は淀みなく、人々の思惑と願いを乗せて流れていく。
焼き場の熱気にエドが加わると、店内はさらなる興奮に包まれた。
「おっ! エドが焼くのか? なら、俺にモモを十本!」
「こっちはバラの塩だ! 至高の焼き加減で頼む!」
昨夜の熱狂を肌で知る常連客たちから、怒涛のオーダーが飛ぶ。
ラルフは、ファウスティンの前に音もなくビールを置いた。
「ファウストさん。今日一日、エドはどうでしたか?」
「ん? ああ……」
黄金の泡を喉に流し込み、公爵は満足げに吐息を漏らした。
「今日の昼食にヤキトリ丼を作らせてみたが……あれは魔性の味だな。我が家のメイドたちが美味さのあまり発狂していた。油揚げの味噌汁もな、……心を穏やかにさせる。ふん! 実に、"いい買い物"をしたぞ!」
ラルフは苦笑し、元気よく串を返すエドの背中を見つめた。
「はいよ! ぐるぐる鶏皮! こっちはツクネ!」
「パクッ……あぁ、美味しい……。ラルフ様の技量を超えた、この無垢で真っ直ぐな味わい。美しき親子愛すら感じるわ……」
聖女トーヴァ・レイヨンが、焼酎のストレートを呷りながら、その甘辛い串に涙を浮かべて絶賛している。
「ツクネ……甘いのに美味いだと? 辛くないのに、なぜこんなに心が満たされる!? おかしい、理屈に合わない!! 私の舌が、聖なる教義に背いてしまったのに対して、更に背いてしまったぁぁぁ!!」
と、もう何がなんだか、わけのわからないことを叫ぶ、聖教魔導士オルティ・イルは、未知の美味に邂逅し、自身のアイデンティティを揺るがされ半狂乱になっていた。
そんな愛すべき狂騒を背に、ラルフは厨房を信頼できるメイドと孤児たちに任せ、ビールを手に奥のテーブル席へと向かった。
そこには、赤ワインを静かに傾ける一人の男がいた。
ギルドマスターのヒューズだ。
「こんばんはー、飲んでます?」
ラルフがいつもの調子で声をかけると、ヒューズは薄く笑って応じた。
「まだ始まったばかりですよ、ラルフ様」
酒精が回るにつれ、会話はたわいもないバカ話へと転がっていく。
新米冒険者が掘り当てた珍しい鉱石の話。
領主館で飼っている五匹の子狼の名前をどうするか?
そして、到底公にはできないような、店内の女性陣の、豊満さについての品評……。
男二人の笑い声が、店の喧騒の中に静かに溶けていく。
不意に、ラルフが気になっていたことを口にした。
「……エドの父親。冒険者だったらしいけど、ヒューズの知っている奴か?」
その問いに、ヒューズのグラスを回す手が止まった。
「……ああ。"短槍のパウロ"……俺が駆け出しだった頃、少しだけ世話になった男だ」
どこか言い淀むような、歯切れの悪い響き。ラルフはさらに踏み込んだ。
「エドに串焼きの極意を教えるような、野営飯が得意な冒険者だったのか?」
エドが語った、薄っすらとした記憶。父が焼いてくれた、串焼きの思い出。
ヒューズは目を泳がせ、グラスに残ったワインを見つめた。
「……ここだけの話だぞ。……エドが言っていた、あの『水打ち』をした串焼きを食わせたの……。多分、俺なんだ」
「……は? ヒューズが、エドの親父?!」
「いや、俺が父親って意味じゃねえ! 相変わらずバカか!」
即座に否定したヒューズが、苦虫を噛み潰したような顔で続けた。
「まだ俺が、冒険者として、食えなかった頃、串焼き屋台の店番をしていたことがあってな……」
「あ! ま、まさか……」
「ああ……エドが四歳かそこらの時だ。通りで蹲っているのを見兼ねてな、俺が一本、あいつに串焼きを恵んでやったんだよ」
衝撃の告白に、ラルフは言葉を失った。
「じゃあ、エドの言っていた……あの記憶は……」
「パウロがダンジョンで死んだのは、エドがまだ赤ん坊の頃だ。……確かに面倒見は良かったが、稼げるような冒険者じゃなかった。俺たちルーキーに、なけなしの金で酒を奢ってくれるような、ただの『気のいい先輩』だったんだよ」
寂しげに笑うヒューズの横顔に、ラルフは残酷な真実を見た。
幼子を遺して死ぬ無責任。
それがこの世界の、冷徹で自己責任な理なのだ。
ヒューズが顔を上げ、真剣な眼差しをラルフにぶつけた。
「……エドには、言うなよ?」
「言わねーし、……知らん! エドが『親父さんの思い出』だと言っているなら、それでいいじゃないか」
人の記憶とは、かくも曖昧で、都合の良いものだ。特に、極限の空腹の中で与えられた一筋の救いなら。
だが。
たとえそれが偽りの、あるいは幻想の思い出であったとしても。
その記憶が、少年の心を救い、過酷な運命を切り開く力になったのであれば――そこに真実以上の価値があるのではないか?
エドが、不器用で優しかった父親の幻想を心に描き続け、そしていつか、彼自身が誰かの父親になった時……。
その時に初めて、記憶の正体など、別の意味を持つかもしれない。
幻想の中の父親。
その、勘違いは、もしかしたら、"この世界"をもう少しだけ、優しくしてくれる、そんな勘違いなら、別に、それはそれで。"真実"であって、欲しい……。
だから、
ラルフとヒューズは、静かに、頷き合う。
ふと視線を向ければ、カウンターの中では「一流の職人」の顔をした少年が、汗を光らせて笑っている。
「皮は時間がかかるんですよ! ちゃんとタレを焼き付けたいんです、もう少し待ってください!」
幸せそうに、誇らしげに働くその笑顔。
ラルフとヒューズは、何も言わずにグラスを重ねた。
偽りの記憶の上に咲いた、本物の笑顔を、ただ守るように。
だが、ヒューズは、言った。
「……でもよ、ラルフ様? ……ラルフ様の焼いたヤキトリより、エドの方が美味いのは。確かだぜ!」
ラルフは、最高に悔しそうに、最高に嬉しそうに、たまらずに笑いながら、軽く、ヒューズの肩を、ポンっ! と、殴りつけた。




