383.串焼きを巡る出会い⑥
ファウスティン公爵は、眼前の串を一本、儀式を執り行う司祭のような厳かさで手に取った。
焼き立ての肉が放つ、抗い難い脂の薫香。彼は目を閉じ、世界の真実を秤にかけるかのように、ゆっくりとその一切れを咀嚼した。
沈黙が、居酒屋の喧騒を塗りつぶしていく。
やがて公爵の瞼が静かに持ち上がった。
「……これは、美味い……」
それは、喉の奥から漏れ出た安堵にも似た、静謐なる感嘆だった。
「おおぉぉぉっ――!」
「さすがはラルフ様だぜ!」
「おう! そりゃあ、間違いないよなー!」
堰を切ったように、客席から地響きのような、どよめきが広がった。
当のラルフは、不敵な笑みを崩さぬまま、細いながらも逞しい腕を組んでどっしりと構えている。
焼台から立ち昇る熱気が、彼の相貌を陽炎のように揺らめかせ、その余裕がさらに彼を巨大に見せていた。
対照的に、エドは頬を伝う汗を拭うことも忘れ、硬直していた。
炭火の熱だけではない。
全身を駆け巡るのは、己の魂を俎上に載せられたかのような、真剣勝負特有の鮮烈な昂揚。
それが腹の底から、マグマのように湧き上がっていた。
「オーク肉の下拵えに、並々ならぬ一手間をかけたのがよく分かる。驚くほど柔らかく、歯を立てた瞬間に繊維が鮮やかに解け――その隙間から、堰を切ったように肉汁が溢れ出す。これは……格別だ」
ファウスティン公爵による至高の食レポに、店内のあちこちで「ゴクリ」「ゴクリ」「ゴクリ」「ジュルリ……」と喉を鳴らす音が重なった。客たちの視線は、もはや飢えた獣のそれだ。
「でしょ? いやあ、ファウストさんのあの無茶振りがなきゃ、『やきとん』を焼こうなんて思いもしませんでしたよ? これはこれで、うちの新たな看板メニューにしてもいいかもしれませんね!」
ラルフは満足げに、そしていつもの調子で軽快に頷く。
しかし、ファウスティンの眼光は、まだ一点を見つめたままだった。
「それは俺としても重畳だ。だが……ラルフ、忘れるな。これはお前とエドの勝負だったはずだ。……次は、エド。貴様のバラ串をいただこう」
公爵は、もう一つの皿へと手を伸ばした。
エドが魂を削り、霧吹きを駆使して焼き上げた一線。
見た目には、師であるラルフのものと大きな差異はない。公爵はそれを右指で摘み上げると、「ハグッ!」と小気味よい音を立てて、串の先端を前歯で抜き去った。
咀嚼は、わずかだった。
公爵の目が、ほんの一瞬、見開かれる。
そして再び、思考を深めるようにゆっくりと咀嚼を再開した。
ラルフは相変わらず腕を組んだまま、静かに結果を待っている。
エドは滝のような汗に濡れながらも、挑むような、けれど縋るような目をファウスティンへと向けていた。
店内は、誇りを懸けた剣士の決闘を見守る観衆のように、一滴の音も許さぬ緊張感に支配されている。
そして、それは……。
「……結論を言おう。……エド、お前の方が、美味い」
あまりにも、静かな決着、だった。
しかし、その一言がもたらした衝撃は、店を崩壊させんばかりの爆音となって弾けた。
「な、なんだって……っ!? ラルフ様が、負けただと!?」
「おいマジかよ! あの孤児の少年、一体何者だ……!?」
「あーもう、理屈はどうでもいい! 今夜、俺もアレを食えるんだよな!? えっ! どうなんだっ?!」
店内は混沌の坩堝と化した。
美食の王にも等しき、領主の敗北を信じられぬ者。
エドという少年の才能に畏怖を抱く者、そして、その芳醇な香りに理性を焼き切られた者。
そんな喧騒の中、敗者となったラルフは組んでいた腕を解くと、腰に手を当てて「ふぅ……」と一仕事終えたような吐息を漏らした。その横顔には、悔しさの欠片も、敗北の陰りもない。
エドは、信じられないものを見たというように目を見開き、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「……まあ、そういうことだ。エド!」
ファウスティン公爵の呼び声に、エドは「は、はいっ!」と上ずった声を上げた。そして、
「お前、俺の『料理番』として雇われないか?」
「…………へ?」
理解が追いつかず、エドの口が半開きになる。
その様子を見て、ラルフが低く笑い出した。
「クックック……。ファウストさん、もしかして最初からそのつもりだったんですか? つまり、エドを最初から品定めした上で、スカウトしたかったと?」
「いや、最初からというわけではないのだが……結果的に、そうなると言うか。……いやな、今、うちで雇っている料理人が高齢でな、隠居したいと相談を受けていたのだ。……どうだ、エド? お前さえ良ければ、俺の館に来ないか?」
ファウスティンが、カウンター越しに身を乗り出す。
「お、俺が……俺みたいな奴が、公爵様の、料理番……?」
エドの脳内で、言葉が意味をなさずに漂う。
泥にまみれて生きてきた孤児。
流行らない屋台で、世界を呪いながら不貞腐れていた自分。
そんな自分が、高貴なる貴族の専属料理人になる?
それはあまりにも唐突で、劇的な、お伽話のワンシーンのようだった。
「条件面の話は追々詰めるとして……。まずは、これが契約の前金だ」
ファウスティンが懐から取り出したのは、ずっしりと重そうな布袋だった。
カウンターに置かれた時、ガシャリ、と鈍く、重厚な音が響く。銅貨でも銀貨でもない。それは間違いなく、黄金の響きだった。
「俺は朝食を食べない。夜は、ほぼ毎日ここ、ロートシュタインの――居酒屋領主館で食うからな。……つまり、お前が作るのは昼飯だけでいい。自由時間は腐るほどあるぞ。空いた時間は、好きに屋台でも何でもやって構わん」
客たちが一斉にどよめく。
「おいおい! そりゃあ割のいい仕事だ。俺が代わりたいくらいだぜ!」
「馬鹿言え! お前にあの繊細な火加減ができるかよ?! あの少年の指先には、神が宿ってんだよ!」
ファウスティンはさらに続ける。
「俺の治めるノアルディア領と、このロートシュタインを往復する毎日になるだろうが……どうだ? 受けてくれるか?」
しかし、エドは答えを出せず、隣に立つラルフを見上げた。
その目は、これまでに一度も見たことがないほど、弱々しく、不安に揺れていた。
生来の負けん気の強さも、喧嘩っ早い性格も、どこかへ消え失せていた。
ラルフは、そんなエドの視線を真っ向から受け止めると、ニカッと、太陽のような、屈託のない笑みを浮かべた。
「お前が、自分で考えて決めればいいんだよ。僕のことなんて、微塵も気にする必要はない!」
そう言って、ラルフはエドの背中を力強く叩いた。
それは、未熟な弟子を広い空へと放り出す、師匠の優しさに満ちた掌だった。
それでも、エドの不安は消えない。
彼は絞り出すような声で、ファウスティンに問いかけた。
「ファウスト様……俺、串焼きしか作れませんよ……?」
公爵は、残ったビールを豪快に飲み干し、満足げに喉を鳴らした。
「今は、だろう? お前はまだ若い。……いや、若いどころか、幼いと言ってもいい。これから嫌というほど、色々な料理を覚える時間は残されている」
「で、でも……俺、そんなに器用じゃないし……その、バカだし……」
「ふん……。俺はな、お前の『誠実さ』を買いたくなったのだ。……よくぞ、たった一日で、あの無茶な約束をこれほどの形にした。偉いぞ、エド」
公爵は、エドが焼いた最後の一切れを口に運んだ。
その瞬間、エドの胸の奥底を、鮮烈な春風が吹き抜けた。
『誠実さ』。
そんな言葉は、自分とは無関係の、特別な才能を持った高潔な人間だけが持つ特権だと思っていた。
けれど、今、この強大な力を持つ男に、その一言を肯定された。
それは、エドにとっての「救い」そのものだった。
彼が喧嘩に明け暮れていたのは、誰かが己を「哀れみ」という名の蔑みで見た時だった。
孤児院の仲間が、幼さ故の無自覚な不義理で、仲間を裏切った時だった。
大人たちの甘い言葉の裏に潜む、得体の知れない悪意を察した時だった。
そして――、
幼い自分を遺して死んだ、不器用な父親を馬鹿にされた時だった。
彼はただ、守りたかったのだ。
自分と、自分と同じ場所にいる仲間たちを。
そのために、意地を張り、牙を剥き、
少なくとも……『誠実』であろうとしてきた……。
エドは、自分の中に澱のように溜まっていた、この世界への負の感情を、ようやく言葉として飲み込めた気がした。
と同時に、あまりにも重要で、残酷な事実に気づいてしまった。
彼は再び、隣に立つ領主、ラルフ・ドーソンを見上げる。
ラルフはとぼけた顔をして、鼻歌でも歌い出しそうな様子だ。
エドを襲ったのは、耐え難いほどの羞恥心だった。
自分は、なんて幼稚だったのか?
何も、考えてこなかったのか?
涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。
ラルフが、この若き領主が、自分に何をしてくれたのか?
自分が気づかぬうちに、彼がどれほどの配慮を重ね、あえて馬鹿のふりをして自分に寄り添ってくれていたのか?
どうして今まで、わからなかったのだ?
知ろうともしなかったのか?
貴族であれば、強者であれば、施しをするのが当たり前だと――そんな傲慢な甘えを抱いていた自分への怒りが、胸を焦がす。
「……ラルフ様……俺……俺……」
ぐしゃぐしゃになった心で、エドは助けを求めるように言葉を漏らした。
「また、……ここで働きたいです。ここが……居酒屋領主館が、いいです……」
それは、千載一遇の誘いを断るに等しい、あまりにも不器用な告白。
店内の客たちも息を呑んだ。
ファウスティン公爵は、射抜くような眼光で、この少年の魂の奥底を凝視している。
しかし、店の主であるラルフだけは、違った。
彼は大袈裟に、滑稽なほど身振り手振りを交え、芝居がかった声を張り上げた。
「いや〜っ! その方がいい! 賛成だね! こうなったら、僕がファウストさんよりも高い給料を払うって約束しちゃうもんね〜! ふふーん! うちの店は常に人手不足なんだ。エドが戻ってくれるなら、ヤキトリ担当は決定だな! ケーケッケッケッ! 残念でしたね、ファウストさん! これで僕の仕事が楽になるぞ〜!」
わざとらしく、他者の神経を逆撫でするようなラルフの大袈裟な宣言。
だがエドは、焼台の上に残された、一本の串に目が止まった。
それは、火加減を誤り、焦げ目が付きすぎてしまった失敗作。客には到底出せない代物。
もし、これを甘いタレに潜らせていたら、その黒さは誤魔化せたかもしれない。
けれど、ファウスティン公爵が求めたのは『塩』だった。
誤魔化しのきかない真実の世界で、その串は、もう手遅れなのだ。
エドの胸に、再び、冷たい風が吹き抜けた。気がした……。
このまま、この温かい場所に居座り続けて、自分はどうなるのだろうか。
「居酒屋領主館」の店員として、温かな庇護の下で大人になる。
その時、ラルフは、自分にどう接してくれるのか。
エドは、抗い難い宿命が目の前に立ちはだかったのを感じた。
自分はまだ子供だ。
だから、今は守ってもらえる。
けれど、それは裏を返せば、
――恐怖でしかなかった。
いつか、一人で生きなければならない。
今までも、一人で生きてきたつもりだった。
しかし、それは思い上がりだった。
もっと広い世界を知りたい。
この店から、己の居場所へと旅立っていった仲間たちを、これまでは嫉妬の目で見送ってきた。
けれど今、その順番が自分の元へ巡ってきたのだ。
情けなくも、また、ラルフを見上げた。
彼は、いたずらっ子のような笑みを湛えたまま、何かを察したように、エドに告げた。
「うん! いや、いいさっ! ……本当に、気にしなくていいんだぞ? ……エドがどれだけ頑張ってきたか、僕はちゃんと知ってるからさ! もしかしたら、嫌なこと言って来る奴はいるかもだが、気にすんなよ! なんか……みんな、必死に生きてるらしいけど、……正直、他人のことなんて知ったこっちゃねえよな!? 僕だって自分のことで精一杯なんだからさ! だからお前も――僕のことも、……他の誰のことも、気にしなくていい! ……思うままに、自由に、楽しく生きろよ!」
ラルフの、あまりにも破綻していて、最低で、摂理を真っ向から否定するようなその暴論こそが、
エドが、真に欲しかった、
言葉だった気がする……。
かつて、この世界はエドにとっての敵だった。
けれど今は、痛いほどに、何故か、
――温かい。
だから。
エドは、震える手で――。
ファウスティンが差し出した、金貨の詰まった袋を、しっかりと握りしめた。
「……行きます。……俺、ファウスト様のところで、もっと修行してきます! ……そして、いつかもっと凄い串を、……ラルフ様に、食わせてやりますから!」
そう宣言したエドの瞳には、もう迷いはなく、
ただ、ひたすらに、
とめどなく、
熱い涙が溢れ続けていた。




