382.串焼きを巡る出会い⑤
ファウスティン・ド・ノアレイン公爵。
王国最強の退魔師。
その男がカウンター席に腰を下ろした瞬間、場に流れていた空気の分子が、物理的な質量を伴って凝固したかのようだった。
そこは安価な木の椅子などではなく、最初から彼の帰還を待っていた玉座であるかのような、あまりにも自然で傲岸な着座。
隣で喉を鳴らしてビールを啄んでいた国王が、グラスの縁越しに、値踏みするような鋭い視線をファウスティンへと投げかけた。
しかし、その重圧を真っ向から受け止めたのは、この居酒屋領主館の主、ラルフ・ドーソンである。
彼は細い腕を組み、不敵な笑みを口端に湛えながら、挑戦的な光を宿した瞳を、ファウスティン公爵へと向けた。
「いらっしゃい! ファウストさん。本日のヤキトリは……種類を絞らせて頂きました。ロックバードのモモ、そしてオークのバラ肉。この二種類のみで勝負させてもらいます!」
叩きつけるような宣言。
ファウスティンの切れ長の目が、獲物を定めた猛禽のように怪しく光る。
その傍ら、気丈に振る舞いながらも焼き場に立つ少年、エドの膝は、生まれたての小鹿のように細かく震えていた。
(ヤキトリという約束をしていながら、鳥ではない『オークの肉』を出すなんて……。これは不敬ではないのか? いや、それどころか公爵様を騙したと取られかねない……!)
拭いきれない不安が、エドの背中に冷たい汗を走らせる。
だが。
「ほう……そうか」
意外にも、ファウスティンから漏れたのは短く、どこか感慨深げな納得だった。
ラルフとファウスティンが、前世の日本という地で「焼き鳥」という食文化が辿った――「焼き鳥屋には、なぜか豚バラやカシラが存在する」という歪で愛おしい歴史的文脈を共有していることなど、エドには知る由もない。
(ひ、ひとまず、大丈夫みたいだけどっ……?)
エドは意味を飲み込めぬまま、震える胸を撫で下ろした。
「では、本日は、"エドのヤキトリ"をご所望とのことで。……早速、何を焼きますか? やっぱり、いつもの『モモのタレ』から行きますか?」
ラルフの問いかけには確信があった。
己と同じく公爵の地位にあるこの男は、ことヤキトリに関してはツクネ、レバー、皮……といった、濃厚なタレで素材を包み込む「漆黒の悦楽」を好む。これまでも、タレの串をビールで流し込むのが彼の定番の流儀だったはずだ。
しかし、ファウスティンはゆっくりと顔を上げると、ラルフの予想を鮮やかに裏切った。
「ふん……ならば、バラの『塩』だ!」
「は、えっ……!?」
「え? あ、あの……。ファウスト様、僕のタレをあんなに褒めてくださったのに……?」
ラルフとエドは、揃って呆然と立ち尽くした。
エドが心血を注いで守り抜いた秘伝のタレ。
それに最適化して仕込んだ最高品質の肉。
その「急造ではあるが至高の組み合わせ」こそが、公爵を沈黙させる唯一の必勝策だと信じていたのに……。
「何度も言わせるな。バラの塩だ! タマネギもいらんからな! 肉そのものの味、塩のみで食わせろ!」
冷徹なまでの断言。
ラルフとエドは視線を交わす。
これは、あまりにも……想定外の難題だ。
いや、もはやファウスティンの「意地悪」を疑いたくなるほどの所業である。
『塩』という最低限の調味料。
それは、タレという圧倒的な風味の外套を脱ぎ捨て、裸の真実を晒すことに他ならない。肉のポテンシャル、下処理の精度、そして焼き手の魂……そのすべてが露わになる、それはまさに、「丸腰の決闘」である。
「お、おい……エド……」
ラルフの額を、一筋の脂汗が伝う。
「どうした? 出せないのか? ……おい、ミンネちゃん! ビールをくれ! ビールにはよぉ、美味いヤキトリを、頼むぜおい……」
「はーい! ただいまぁ!」
ミンネが、その緊張感を知ってか知らずか、朗らかな声を上げる。
ファウスティンは不敵な笑みを浮かべ、戦の前の杯を楽しむことに決めたらしい。
その時だった。
エドが、震えながら強く拳を握りしめ、弾かれたように顔を上げた。その瞳には、恐怖を焼き尽くすほどの覚悟が宿っている。
「やります……俺、やりますよ! ラルフ様……焼かせてください!」
「……本当に、大丈夫か?」
「はい。それに、ちょっと試してみたいことがあるんです……」
二人は焼き場の熱気の影で、囁くような作戦会議を始めた。
その様子を横目に、「おっとっとっと〜!」とおどけながら看板娘のミンネに酌をしてもらうファウスティン。彼の相貌は、ビールの黄金色の泡を前にしてわずかに崩れたが、一口その冷気を呷ると、再び冷厳な美食家の顔に戻った。
「あー、そうだ! ……なんなら、ラルフ。お前も焼け」
「え? なして僕まで?」
「エドとラルフ、どちらが美味いヤキトリを焼けるか。……要するに、勝負だ! その方が楽しそうだしなっ!」
思いつきのような、しかし抗い難い覇気。
趣旨がいつの間にか料理対決へと変質していることに、ラルフは深い溜息を禁じ得ない。
だが、その一言で店内の熱狂は沸点に達した。
「ほう! エドとラルフ様の焼き比べだってよ! 賭けるか?」
「そりゃあ、ラルフ様に決まってんだろ! あの領主様の料理は魔法だぜ!」
「でも、あの少年、エドの目付きを見てみろよ。ただ者じゃねえぞ……?」
好奇心という名の薪をくべられた客たちが、カウンターを包む異様な熱気に身を乗り出す。
「……まあ、なんかよくわからんことになったが……やってみるか、エド?」
「はい!」
ファウスティンとの一騎打ちという孤独な緊張。
それが「隣にラルフが並び立つ」という事実だけで、エドの肩から余計な力が抜けていった。
二人は手際よく、下拵え済みのオークバラ串を二本ずつ手に取った。
炭の赤熱の上、肉が並ぶ。
エドは、祈るような手つきで塩を指に摘まみ、パラパラと、だが緻密に振っていく。
一粒一粒が肉の繊維に寄り添うように。
一方、ラルフはと言えば、異様なまでの「様式美」を追求していた。
親指と人差し指で塩を摘み上げると、それを自身の額の高さまで昂然と持ち上げる。
肘を鋭角に突き出し、眼光は獲物を射抜く狙撃手のごとき鋭さ。
しかし、解き放たれた塩の結晶は、重力と物理法則へのささやかな反逆を試みるかのような奔放な放物線を描き――狙い通り(?)突き出した自身の肘の先端を直撃。そこから弾け飛ぶようにして肉へと降り注いだ。
かつて前世のネットミームを席巻したトルコのステーキハウスのオーナーシェフ、――ヌスレット・ギョクチェ氏への熱烈なオマージュ。
その通り名を、"塩振りおじさん"の伝説を異世界の厨房に再臨させたつもりだったが、まことに残念なことに、周囲の視線は(……まーた、領主様が変な動きをしてるぞ)という北極圏並みの冷たさであった。
ラルフは、ほんの少しだけ耳を赤くして、そっと姿勢を戻した。
その時、エドが静かに口を開いた。
「ラルフ様。刷毛か、あるいはブラシのような物はありませんか?」
「ん? 何に使うんだ?」
「水です。焦げが芯に届かないよう、そして肉の水分を閉じ込めるために、水を打ちたいんです」
その言葉に、ラルフだけでなく、酒杯を運んでいたファウスティンの手すら止まった。
それは、前世の、焼き鳥職人が極限の状況で繰り出す高等技術、『水打ち』ではないか?
「そ、そうか……。実は、こんなモノを用意してあった。……今度『ジョン・ポール商会』から新商品として売り出す予定の、香水用の試作品なんだが――これは、そう……『霧吹き』だ!」
ラルフが戸棚から取り出したのは、繊細な意匠の小瓶。
エドはその押し頭を数回押し、細やかな霧が舞うのを確認すると、その革新的な利便性に目を見開いた。
「ありがとうございます! これなら、指で弾くより便利ですね!」
すると、たまらずファウスティンが席を立った。
「おい……エド! お前、なぜその手法を知っているんだっ!?」
声を荒らげる公爵。
しかしエドは、舞い上がる煙の中で、バラ串の焼き色を真剣に見定め、焦げが侵食しそうな部分にピンポイントで霧を吹きかけながら、静かに呟いた。
「……俺、婆ちゃんに育てられたんです」
刹那、居酒屋を支配していた喧騒が、まるで潮が引くように消えた。
孤児としての独白。
その重みに、酔客たちも息を呑む。
「その婆ちゃんも、とっくに死んじゃって……。はっきりと覚えているのは、孤児院からのことなんですけど……。……でも、少しだけ、本当に薄っすらと、俺、親父のことを覚えてるんです」
エドは二本目の串を持ち上げ、炎の照り返しの中で、遠い日の記憶を追うように瞳を細めた。
「親父は冒険者で、ダンジョンで死んじまったらしいんですけど……。俺がまだ、ほんの小さかった頃、串焼きを焼いてくれたこと、覚えてるんです。……その時、親父がやってたんです。こうして、水を刷毛で弾いて、焼きを調整してて。……なんか、……まあ、それが美味かったかどうかなんて、もう覚えてないんですけどね」
寂しげに、けれど誇らしげに、エドは薄く微笑んだ。
「そうか……」
ファウスティンは、それ以上何も追及しなかった。
ラルフもまた、言葉をかける代わりに、ひたすらに自分の焼く串の面倒を見る振りに徹した。
そして。
オークの脂が炭火に滴り、芳醇かつ暴力的な香りが店いっぱいに広がった頃、二人のバラ串が同時に焼き上がった。
銀の皿に載せられた四本の串が、ファウスティンの目前に差し出される。
「はいよ! お待たせ! オークバラの塩だ!」
「どうぞ! 僕の、今の全力です!」
二人の声が重なる。
ファウスティンは、眼前の串を凝視した。
「ふむ……。見た目は、どちらも悪くない。さて、まずは、ラルフの方から……」
ファウスティンが、まずはラルフの串へと手を伸ばす。
ラルフとエド、
そして店内に満ちたすべての客たちが、耳を澄ませる。
炭火が爆ぜる微かな音が、耳朶を舐める。
誰もが、固唾を呑み、血走った眼差しでその瞬間を注視していた。




