376.街角ホルモン
夜も更けたロートシュタインの中央街区。そこには、春先の冷たい夜気を焼き切らんとするほどの、祭りの余熱が濃密に淀んでいた。
宿屋の一階からは、琥珀色の温かな灯火が溢れ出し、中では終わりの見えない宴が地鳴りのような笑い声を引き連れている。
目抜き通りの自由広場に目を向ければ、そこには普段なら高尚な政治経済の主義主張を戦わせているはずの論客たちが、屋外テーブルを囲んで「究極の真理」に到達していた。
「……そんなこともわからんのかぁ〜、この、ば〜か。ヒョッヒョッヒョッヒョッ!」
「誰がバカだ! バカって言う方がバカなんだよ、ゲッハッハッハッハ! ……ひっくっ! ……うぇい」
知性は酒という名の溶剤に溶け、残ったのは純粋な幼児性と剥き出しの多幸感。
五臓六腑の頑強さに絶対の自信を持つ猛者たちは、どうやらこのまま朝の光を拝むまで飲み明かす気概のようだった。
そんな狂騒の海を分かつように、グレン・アストン子爵とリック・デューゼンバーグ伯爵が、肩を並べて千鳥足で歩いてゆく。
「クックック……いやはや、愉快、愉快。ラルフ公爵を見ているだけで、人生から退屈という言葉が消え去るわい!」
グレン子爵は上機嫌に赤ら顔を揺らし、少年のような笑みを浮かべる。
「ふんっ! まったくだ。今夜だけで、残りの一生分を笑い尽くした心地だ」
デューゼンバーグ伯爵も、皮肉めいた口調とは裏腹に、その瞳には隠しきれない充足感が宿っていた。
二人は新装開店した『居酒屋領主館』での激戦(?)を終え、宿泊先であるマリアンヌ・ホテルへと向かっている。
本来ならば護衛や従者を侍らせるべき高位貴族が、夜道で無防備に練り歩くなど狂気の沙汰だ。しかし、このロートシュタインにおいては「普通ではないことが普通」なのである。
治安の維持、などという野暮な概念は、今や美食と酒が織りなす圧倒的な経済力学の奔流に押し流され、霧散していた。
この街では、闇に紛れてゴロツキを働くより、適当に屋台を開いた方が、圧倒的に、かつ平和に稼げてしまうのだから。
「それにしてもだ、……あの『揚げ餃子』とやらは、まさに食の革命であったな!」
グレン子爵は、口内に残るあのサクサクとした快楽と、熱々の肉汁の記憶を反芻する。
「私としては『水餃子』に軍配を上げたい。あの絹のような喉越し、そこに薬味とスパイスがガツンと効いた官能的な味わい……!」
「あー、わかるぞ。わかる。それもまた捨て難い。だが、結局のところ、一周回って辿り着く結論は……」
二人の声が、魔法の共鳴のように重なった。
「「焼き!」」
直後、二人の貴族は顔を見合わせ、夜の街路に哄笑を響かせた。
「ハッハッハッハッ! やはりそうなるか!」
「左様! 結局は"焼き"なのだ!」
まるで数十年来の飲み友達のような親密さ。
領主館では、入店を待つ長蛇の列を慮り、粋な配慮で早々に席を立った二人だったが、そのおかげで今、彼らの前には魅力的な「ナイトマーケット」が広がっていた。
今夜限りの特例措置。
商人のみならず、冒険者や農民までが許諾なしに商売を許された路地は、雑多で、混沌としていて、そして何より刺激的だった。
地べたに敷物を敷き、ダンジョンの深淵から持ち帰った正体不明の鉱物を並べる冒険者。
どこでどんな魚が釣れるかを緻密に記した、手製の『ロートシュタイン・フィッシング・マップ』を誇らしげに売る貴族の少年。その地図は、酔客たちのマニア心を絶妙にくすぐり、釣り好き達に飛ぶように売れていた。
さらには、帝国の若き至尊――皇帝陛下に生き写しの若者が、朗らかな笑みを浮かべてボトルを差し出してきた。
「どうですか? 帝国の魔導技術者たちが、研究の合間に遊び半分で造り始めた蒸留酒です。まだ試作段階で数は極めて少ないですが、どうかお試しあれ!」
数が少ない、試作品、帝国製……。
その言葉の並びは、好事家にとって抗いがたい甘美な蜜に他ならない。
つまり、希少価値抜群。
二人は迷うことなく、金貨を惜しまずそのボトルを買い求めた。
(いや、しかし、この人……あまりにも、皇帝陛下に似すぎてね?)
という事実に確信に近い直感を抱きつつも、それを口にするのは野暮というもの。それもまた、この街を流れる「粋」な不文律であった。
「どうするか……。ホテルに戻ったら、どうしても一口だけ、味見をしてみたくなるよな……」
グレンがボトルを愛おしそうに抱えながら、独り言のように漏らす。
「む? ……むぅ、それは、その、誘惑が強すぎる。強すぎるが故に、一度封を切れば、朝まで止まらなくなる未来しか見えんぞ?」
高級で希少な酒は、静かに寝かせておくのが貴族の嗜み。
しかし。
「……それに、ホテルに戻っても、これに合わせる『ツマミ』がないからな」
「むむむっ、確かに。この未知の酒を迎えるための、"何か"が足りん……」
二人は歩みを止め、野生の獣のような鋭さで周囲の屋台を見渡した。
香ばしい匂いを漂わせる焼き鳥。
異国情緒溢れるトルティーヤ。
肉汁を炭酸で流し込みたくなるホットドッグ。
どれも悪くはない。
だが、この「希少価値抜群の蒸留酒」に釣り合うだけの、インパクトが欲しい。
「むぅ……」
「むむむっ?」
その時、雑踏の端で、異彩を放つ三人組が目に留まった。
街の肉屋アントニオから譲り受けたという、見たこともないほど巨大なレバーと、奇妙な肉の塊を七輪で焼いているリザードマンの戦士たちだ。
「見ろ、このデカいレバー! 肉屋が言ってたぞ、『シサクヒン』だって!」
「レバー、血が滾る。なのに、美味い」
「この『マルチョウ』とか言ったか……ムチムチ、コリコリ、ジュワ!」
通り過ぎようとした二人の貴族は、その拙いが本質を突いた食レポに、魂を射抜かれた。
二人は、首だけをリザードマンたちの手元に固定したまま、吸い寄せられるように足を止める。
その不可解なパントマイムのような動きに、リーダー格のリザードマン、ムヴォスが気づいた。
「ん? あんたらも、レバーとマルチョウが食いたいのか? 酒か、金貨をくれるなら、分けてやってもいいぞ」
その提案が終わるか終わらないかのうちに、二人の貴族は高級な外套の汚れも気にせず、その場にドカリと座り込んだ。
「これでどうだ!」
「こいつも付けるぞっ?!」
ドン!
ドン!
と、先ほど手に入れたばかりのボトルを見せびらかす。
「ムッ? これ、知らないボトル……。オレ、そういう勘は鋭い……。ぜったい、美味い気がする……。よし、お前らも、食え」
もはや階級も、種族も、積み上げてきた教養も。
炭火の上で弾ける脂の音にかき消されてゆく。
貴族と亜人が、路上で膝を突き合わせ、ホルモンを突き、希少な酒を酌み交わす。
ロートシュタインの混沌の夜は、まだ始まったばかりであった。




