375.ギョーザのスペック
突如としてロートシュタインを飲み込んだのは、理屈を超えた祭りの狂熱だった。
それは、領主ラルフ・ドーソンが意図して仕掛けたものではない。招待状も、公式の伝令も存在しない。ただ、まことしやかに流布された「今日が、居酒屋領主館の新装開店らしい」という噂が、大陸中や、海を渡った東大陸の重鎮や商人の好奇心に火をつけ、彼らを磁石に吸い寄せられる鉄屑のようにこの地へと駆り立てたのだ。
しかし、この未曾有の事態に対するラルフの初動は、驚くほど迅速かつ冷徹だった(実際はヤケクソだった)。
彼はパニックに陥る暇もなく(実際は大パニックだった……)、ロートシュタインの経済を支える様々な陣営に、電光石火の書状を叩きつけた。
地下街の一角に鎮座するグルメ・ギルド。
その主であるバルドルは、届けられた書状を一瞥し、不敵な笑みを漏らした。
「はんっ、"あの野郎"め……。窮地に陥った時だけは、見事なまでに腰が低いじゃねえかよ! ふぅ……まあいい、あの男に特大の貸しを作るのは吝かではないからな。……おい! 全オーナーに通達。祭りが始まった。客の財布を空にするまで、稼ぎたいだけ稼げとな!」
バルドルの号令一発、地下街は「獲物」を待つ獣たちの宴会場へと変貌した。
一方、冒険者ギルドでは、長であるヒューズが薄く笑みを浮かべ、書状を指先で弄んでいた。
「……"臨時交易特赦"、だとよ。ふっ、ラルフ様。相変わらず、……天才かよ……」
傍らに控える若き冒険者が、困惑した声を上げる。
「ギルマス、これは一体……? ラルフ様は何を企んでいるんですか!」
ヒューズは鋭い青い瞳をわずかに細め、静かに告げた。
「特例措置だよ。……お前も知っての通り、ここの冒険者は食い詰めた荒くれ者ばかりじゃない。干し肉作りの名人、野営飯を極めた者、珍しい染物や革細工を趣味にする手先の器用な奴らも多い。……そして、ダンジョンの奥底からくすねてきた『お宝』を溜め込んでいる連中もな」
「そ、それが、どう繋がるんです?」
「今夜、この街に限り、『冒険者は鑑札なしで露店を開いていい』という許可が下りた。利権や忖度を気にする必要はない。売った分だけ、お前の懐が潤うというわけだ」
「……っ!? こうしちゃいられねえ! 俺の屑宝石コレクション、全部叩き売ってきます!」
若者が風のように飛び出していくのを見送り、ヒューズは再び笑った。
ラルフの狙いは明快だ。「稼げる」という極上の餌を撒くことで、一時的に膨大な数の「即席商売人」を創出し、この制御不能な群衆を捌くためのインフラへと組み込んだのだ。自らが動かずして、欲望という名のエンジンを回し、祭りの裏方を完璧に構築してみせたのである。
そして今、熱狂の爆心地である『居酒屋領主館』は、まさに飽食と混沌の坩堝と化していた。
前庭では、吟遊詩人ソニアが魔導アンプを限界まで震わせ、魂を削るような弾き語りを披露している。乱れ飛ぶ銀貨や金貨、チップの雨を受けながら、彼女のボルテージは最高潮に達していた。
「そ、それじゃあ! 次は、新曲やりまーす!!」
「フォーーー!!」
地響きのような歓声が夜空を焦がす。
その喧騒を壁一枚隔てた厨房のカウンター内では、もはや幻想的なまでの光景が繰り広げられていた。
「えいしゃっ! えいしゃっ! えいしゃっコラッえいしゃっ!」
「えいしゃっ! えいしゃっ!!」
店主ラルフと、通称「チャーハン王子」ことフレデリック第八王子。
身分を超えた二人の男が、謎の掛け声と共に、一糸乱れぬ所作で巨大な中華鍋を振るっていた。
黄金色の米粒が重力を無視して宙を舞い、高熱の油と絡み合って香ばしい薫光を放つ。
「む? マスター! 今日は『ニンニクマシマシ・ラーメン』はないのか?!」
客席の最前線で、不名誉な「腹ペコ女騎士」の二つ名を背負うミラ・カーライルが、メニューを片手に叫んだ。
「えいしゃっ! えいしゃっ! 空気読めっ! えいしゃっ!!」
ラルフはリズムを崩さぬまま、毒づくように返した。
この非常事態において、ラルフはあえてメニューを極限まで絞り込んでいた。
オーダーの回転率こそが命。時間のかかる複雑な料理は切り捨て、スピードと中毒性を重視した「精鋭」のみを並べたのだ。
お通し: 止まらない中毒性、パリパリキャベツ。
米: 王族が魂を込めて振るう、伝説の黄金チャーハン。
看板娘の一品: エリカ特製、深淵なる香りのカレーライス。
魚介: シャークハンターズの差入れ、あり合わせの刺身盛り。
肉: 宮廷料理長が手掛ける、肉汁の暴力・煮込みオークハンバーグ。
そして、この夜の真打ち。
かつて、この居酒屋領主館オープンの際に、孤児たちと和気あいあいと包んだ、ラルフの原点とも言える一品。
――餃子。
しかし、その餃子は、今宵、多様性の翼を広げていた。
「……ほう。餃子が三種類あるのか?」
共和国参事会議員のティボーが目を剥く。
「焼き餃子、水餃子、そして揚げ餃子……。調理法を変えただけで、これほどまで印象が変わるものなのか?」
聖教国の司祭ジェイコブが、知的な眼差しで皿を分析する。
だが、その分析を嘲笑うかのように、カウンター席のファウスティン・ド・ノアレイン公爵が極上の「自由な選択肢」を突きつけた。
「おいラルフ! 水餃子に青ネギと生姜をトッピングだ。タレはポン酢と七味で頼む」
供されたのは、濡れた絹のようにしなやかな白き肌を持つ、艶麗な水餃子。
ファウスティンはそれを一口で頬張り、キンキンに冷えたビールを胃に流し込んだ。
「プハァ〜……たまらん! この喉越し、悪魔的だ!」
その官能的な音を聞き、周囲の客は生唾を飲み込んだ。
一方では、聖教魔道士のオルティ・イルが、揚げ餃子に特製チリソースをたっぷり絡め、正気を疑う勢いで貪り食っている。
「モグモグ……パクッ! モグモグ……。むう。このサクサクの皮と、甘辛いソースの背徳感……。堕落と愉悦の味がする。おのれ、おのれ〜、ラルフ・ドーソン……!(もっと寄越せ)」
さらに奥のテーブルでは、黒セーラー服を纏ったダンジョン・マスターのスズが、刀剣マニアたちを従えて異質な注文を飛ばしていた。
「ラルフ! 茹で五、焼き五! ソースとカラシで食べたい!」
ラルフは一瞬、前世の既視感に襲われ、ため息を吐きながら皿を運んだ。
「はいよ……。ソースとカラシな。……おい、お前も"あのドラマ"を見ていたのか?」
それは、特殊能力(SPEC)を持った犯人に、「変人の天才女刑事」と「肉体派の熱血刑事」のコンビが挑む、異色の警察ミステリードラマのことだ……。
スズは頬をリスのように膨らませたまま、真剣な眼差しで告白した。
「……いつか、やってみたかった……。モグモグ。戸田恵梨香の可愛さは……高まるっ!」
そんな狂乱の最中、ラルフにも短い休憩時間が訪れた。
彼の経営哲学に「ブラック労働」の文字はない。それは自分自身に対しても同じだ。
彼はカウンターの端にどっしりと腰を下ろし、目の前に三種の餃子を並べた。
「……さて、一人餃子パーティーといこうか」
目の前には、黄金色の上に真っ白な泡を戴くビール。
彼の前世には、拭いきれない未練があった。
仲間たちとレンタカーで巡った、宮城県のロックフェスの帰り道。
餃子の聖地、宇都宮の老舗『みんみん本店』の暖簾をくぐったあの日。彼は「運転手」という聖なる義務のために、ビールという名の"黄金のお供"を諦めざるを得なかったのだ。
その雪辱を、今、この異世界で果たす!
まずは焼き餃子をパクり。
皮の香ばしさとオーク肉の旨みが弾けた瞬間、ビールをグビり。
「ウンウン……! うまっ……! 次は、茹でだ!」
ハフハフと熱を逃がしながら、ファウスティンのオススメに従い、生姜トッピングの清涼感と皮の弾力を楽しむ。
そしてトドメは揚げ餃子。
「サクサク、ジュワッ……。脂と油なのに、軽い! これは無限にいける……!」
最後の一口をビールで一気飲みで流し込み、ラルフは至福の溜息を漏らした。
「プハァァァァァァァ! あー、これよ、これ! これこそが餃子の完成形だ!!」
満足げに目を細めたラルフだったが、ふと、ある異変に気づいた。
つい今までの、狂ったような喧騒が、嘘のように消え失せている。
「ん……? は?」
恐る恐る振り返ると。
そこには、数百人の客たちが一斉に動きを止め、あんぐりと口を開けてラルフを凝視する姿があった。誰もがその口角から、欲望の雫を零れ落としている。
一瞬の静寂の後、爆発が起きた。
「お、俺もギョーザ三種! それぞれ五皿、いや十皿だ!!」
「こっちは、ひたすら揚げで! あとビールだ、ビールを持ってこい!」
「スイギョーザに、ニンニク背脂トッピングなんてできないのかっ?! 頼む、死ぬ前に食わせてくれ!!」
暴風雨のようなオーダーが厨房を襲う。
ラルフ自身の「あまりに旨そうすぎる食レポ」が、多様な客たちの理性を粉砕し、最強の宣伝効果を発揮してしまったのだった。




