367.Where is that flower blooming? —and I love you.
かつて、その地は泥に塗れた。
ロートシュタインを揺るがした「ディッキンソンの乱」。鉄の装甲が闊歩し、亜竜が空を舞った戦場——。
ラルフ・ドーソンが戦術としてばら撒いた「泥団子弾」には、肥沃な土と共に、数多の花の種と球根が抱かれていた。
翌年、赤茶けた大地を覆ったのは、鮮やかな花々の、生命の輝きだった。
そして、その花園は、誰からともなく始まった保全活動により、いつしか祈りのように定着し、かつての凄惨な戦場は、王国随一の景勝地として語り継がれることとなる。
そよ風に揺れる花々は、まるで遠い異郷から訪れる旅人を慈しみ、迎え入れるかのようだった。
——そして。
月日が流れ、戦の記憶が歴史の片隅へと追いやられた、ある日の午後のこと。
「王歴……何年? ん〜? カドス……? えーっと、ディッキンソンの、乱……。うーん、……ダメだ! 読めないや」
蔦の這う古びた石碑を覗き込み、一人の少年が眉をひそめていた。
長年の風雨に晒され、角の丸まった石の表面は、刻まれた文字を拒むように滑らかだ。しかし、末尾に記された建立者の名だけは、陽光の加減で幽かに浮かび上がって見えた。
「……ラルフ……。え? 僕と……同じ名前?」
少年は、指先でその刻印をなぞる。
もっとも、この王国において「ラルフ」の名はさほど珍しいものではない。
数多の叙事詩に謳われる伝説の大魔導士と同じ名なのだ。魔導の深淵を志す親たちが、愛する息子にその英雄の加護を願って名付けるのは、一種の倣いのようなものだった。
「ラルフくーん! 何してるの、そんなところで?」
鈴を転がすような声が、花畑の向こうから響く。
駆けてきたのは、彼と同い年ほどの少女だった。弾む足取りに合わせて、頭上の可愛らしい猫耳がピクピクと楽しげに躍動する。獣人族という出自など、幼馴染であるラルフにとっては、隣に咲く花の色が違う程度の些細な事象に過ぎなかった。
「ん? ああ。これ、なんだろう? って思ってさ」
「あー、それね。むかーし昔、ここで大きな反乱があったんだってお父さんが言ってたよ」
「はんらん? 反乱って、なんだろう?」
純粋な問いに、少女は人差し指を顎に当て、少し背伸びをして答える。
「うーん……。人がいっぱい集まって、盛大に……喧嘩すること!」
「なにそれ。おかしいよ、変なの〜」
「ねー。変だよねー」
二人の無邪気な笑い声が、初夏の風に溶けていく。
少女が抱えたバスケットには、母親と共に腕によりをかけて作った特製のサンドイッチが詰まっていた。
歩き出しながら、ラルフは先ほど見た文字を反芻するように零す。
「でもさ。あの石に『カドス』って書いてあるように見えたんだ」
「カドス……それって、あの"カドス・アイランド"のこと?」
「うーん。……そんなはずないよね? あんなに遠い島なんだもん」
「ねー! でも、あそこ本当に綺麗だったよね。また行きたいなぁ!」
少女の頬が、幸福な記憶に緩む。
昨年の夏、両家合同で訪れた"カドス・アイランド"。
紺碧の海に抱かれ、牧歌的な静謐さと洗練された街並みが同居する、まさに地上の楽園。たわわに実る極彩色の果実、そして——。
「好き嫌いする悪い子は、コール大王が来るぞ〜!」
「バナナが嫌いなんて言うと、コール大王に怒られちゃうぞ〜!」
島に伝わる奇妙な伝承を真似て、二人は顔を見合わせる。
「あはははっ! おっかしい〜!」
「ハッハッハ! 本当、変なお話だよね!」
笑いながら進む二人の足先が、花園の中央に位置する、こんもりとした小さな丘に辿り着いた。
「今日は、この上で食べよう!」
「さんせい!」
ラルフがひょいと丘へ登り、下で待つ少女へ手を差し伸べる。
頂上に立ち並んだ二人の視界に、一面のフラワーカーペットが飛び込んできた。
「うわぁ……綺麗……っ」
少女は感嘆の声と共に、その瞳を輝かせる。
「こんな場所で、大勢の人が喧嘩をしたなんて、ちょっと信じられないねー」
「ねー。大昔の人たちは、みんな仲良しじゃなかったのかな?」
「うん。おかしいよね〜」
彼らはバスケットを広げ、穏やかなピクニックの時間を享受する。
語られるのは、世界の命運でも歴史の真実でもない、ごくありふれた日常の断片だ。
隣家のエルフのお婆さんがまた深酒をして道端で転寝をしていたこと。
"レイヨン・ヴァール・モータース"から発売された新型スーパーカーが、目抜き通りに駐められていて、とてつもなくカッコよかったということ。
へンネフェルト農場の牧羊狼が七匹もの可愛らしい子を産み落としたこと。
ドーソン家のご令嬢が、"また"謎の魔導実験で邸宅を木っ端微塵に吹き飛ばしたということ……。
近付く収穫祭で披露する歌の相談——そんな、愛おしくも他愛のない会話。
「あれっ、もうなくなっちゃった……」
空になったバスケットを覗き、ラルフが寂しげに肩を落とした。
その時、少女が勝ち誇ったような不敵な笑みを浮かべる。
「フッフッフ……。こんなこともあろうかと、"コレ"も用意してたの!」
彼女が魔法のように取り出したものを見て、ラルフの目が見開かれた。
「えっ?! そ、それは……"エリカのカップ麺、期間限定のグリーンカレー味"だぁぁぁぁ!!」
彼の瞳が、宝石のような光彩を放つ。
右目は深みのあるダークブラウン、左目は澄み渡るブルー。希少なオッドアイが、驚喜に揺れる。
「ど、どこで手に入れたの!? 今、超人気でどこも売り切れだって聞いたのにっ!」
「三番街の"バルドル・ストア"に、奇跡的に二つだけ残ってたの。凄いでしょ! ねっ、一緒に食べよう!」
「よし、任せて!」
ラルフは得意げに指先を躍らせ、空中に円を描いた。
「《水よ来い来い、お湯になーれっ♪》」
瞬時に魔力光が弾け、虚空に二つの熱い水球が具現化する。
「すごーい! ラルフ君、相変わらず魔法が上手だね!」
「ふふーん、これくらいお手の物だよ!」
称賛を浴び、少し照れくさそうに鼻を鳴らす。
制御された熱湯が、吸い込まれるようにカップの中へ。
三分という短い静寂の後、花園の甘い香りを塗り替えるように、刺激的でスパイシーな香りが立ち昇った。
「そろそろ、いいかな?」
「わーい! いただきまーす!」
二人は小さな丘に腰を下ろし、一斉に麺を啜り上げる。
「美味しいっ!」
少女が満面の笑みを咲かせる一方で。
「からっ! かっらっ!! え? ちょっと待って、これ辛すぎない!?」
ラルフは顔を真っ赤にし、必死に舌を転がしている。
「あははは! ラルフ君、相変わらず辛いのは苦手なんだから!」
また、弾けるような笑い声。
平和な午後の光の中、微かな風が草原を吹き抜けていく。
彼らが腰掛けている、その小さな丘。
色とりどりの花々に包まれ、優しく鎮座する――物。
それが、かつてこの草原を駆け抜け、今は錆びつき苔むして、原形すら失った「戦車」という名の鋼鉄の残骸であることなど、今の二人には知る由もなかった。
【大切なお知らせ】
「――皆様、日頃より『居酒屋領主館』を応援していただき、誠にありがとうございます。この度の『ラルフ追放編』をもちまして、物語は大きな一区切りを迎えることができました……」
作者・ヤマザキは、そこで一度タイピングの手を止めた。
画面に浮かぶ文字を見つめ、これまでの怒涛の日々を振り返る。
連載開始から、わずか十八日後。最終的には、まさか七社もの出版社から書籍化の打診が舞い込むなど、誰が予想できただろうか。
お断りせざるを得なかった出版社への申し訳なさ。そして、これから読者に伝えなければならない「苦渋の決断」――。
重い溜息をつき、キーボードの横に置いた缶ビールに手を伸ばした、その時だった。
――バガァァァンッ!
景気良く部屋の扉が蹴破られた。
「ちょっとちょっと! 待ちなさいよ! なに勝手に連載ペースを落とそうとしてんのよ! 最終回ムード出してんじゃないわよ、この作者!」
「ぶふっ……!? げほっ、ごほっ! え、エリカぁぁぁ!?」
ビールを盛大に吹き出したヤマザキの視線の先にいたのは、金髪ツインテールを振り乱したエリカだった。
見れば、彼女の背後にはロートシュタインの面々が勢揃いしている。
その人だかりを割って、不敵な笑みを浮かべた男が歩み出てきた。
「クックック……。"ヤマザキ先生"。まさか、これで『完結』なんて寂しいことは言いませんよね?」
「ら、ラルフ・ドーソン……!」
そこにいたのは、紛れもなくヤマザキが生み出した主人公、「最強の魔導士」だった。
ラルフは慇懃無礼な態度で、分厚い紙の束を机にドン!と叩きつける。
「……へ? なに、これ」
「校正から戻ってきた第一巻の『ゲラ』ですよ。編集さんから預かってきました。さあ、赤入れのお時間です。死ぬ気でやってくださいね?」
「いや、あの……こういう作業もありますし、コミカライズの打ち合わせも始まってますし……。自分、専業作家じゃないんで普通に仕事もしてるんですよ! 毎日投稿、ぶっちゃけ限界なんです! 命削ってるんです!」
血を吐くようなヤマザキの訴えに、エリカが呆れたように肩をすくめた。
「まあ、『ラルフ追放編』で批判コメントがかなり飛んできて、心がポッキリ折れたのは分からなくもないけどさー」
「あ、いや、それは……! 確かに『つまらなくなった』とか『読むのやめる』とか言われると胃に穴が空きそうになりますけど。でも、物語の構成上、主人公が"曇る"展開は必要じゃないですかぁぁ?!」
必死に作家としての矜持を叫ぶヤマザキ。しかし、ラルフは冷徹だった。
「そんなことより、先生。担当編集さんが笑顔で言ってましたよ。『明日からも、もちろん毎日投稿ですよね?』って」
「……えっ?」
「当たり前でしょ」とエリカが追い打ちをかける。
「これだけ読者様がついて、プロの現場も動き出してるのよ? もう、アンタ一人の意思でどうにかなる段階じゃないわよ。……ねえ、みんな?」
エリカの合図とともに、後ろに控えていたキャラたちが一斉に頷く。
すると、ラルフが代表して、
「はいっ! というわけで『居酒屋領主館』。明日からも――通常営業です!」
「「「イェェェェェイ!!」」」
パチパチパチパチ!
巻き起こる拍手喝采。
一人、蚊帳の外に置かれたヤマザキが絶叫する。
「ちょっと待って! 俺の意思は!? 働き方改革はどこに行ったんだよぉぉぉ!」
すると、ラルフがそっとヤマザキの肩に手を置いた。
「わかりますよ……その気持ち。……でも、書くんですよ。書くしかないんです」
慈愛に満ちた(しかし目は笑っていない)表情で、謎の共感を示してくるラルフ。
作者の悲痛な叫びが、片田舎の山々に虚しく響き渡るのだった。




