366.ラルフ・ドーソン
急に春の陽気がその気配を主張し始めたロートシュタイン領。
その中心地では、先の大騒動によって無惨に破壊された領主館の改修作業が、まさに佳境を迎えていた。
「おーい! 材木の搬入、まだかぁ!? 柱が足りねえぞ!」
「今日の分はなんとかなるが、明日からは目も当てられん! 製材所を脅しつけても急がせろ!」
現場を仕切るのは、頑固一徹なドワーフの大工たちだ。彼らの手にかかれば、石造りの残骸も瞬く間に新たな形を成していく。だが、その施主であり、この領地の主であるラルフ・ドーソンは、積み上げられた建材の端に腰を下ろし、気の抜けた声を上げた。
「……そんなに急がなくてもいいんだぞぉ。むしろ、ゆっくりでいい。丁寧さが一番だ」
本心だった。
居酒屋兼領主館の再開が遅れれば遅れるほど、彼には「正当な休暇」が舞い降りるからだ。しかし、ドワーフの棟梁は血走った眼を向けて一喝した。
「馬鹿を言うな! 酒と、ラルフさまのあの料理を、あと何日我慢させるつもりだ?! 儂らの命がかかっとるんだよ!」
どうやらこの領地では、ラルフの振る舞う美食に脳を焼かれた者たちが、職権乱用気味に再建を急いでいるらしい。
溜息をつきながら、ラルフは何気なく広げられた最新の図面に目を落とした。
「ん? ……んんんんん!? ちょっと待て、これ……前より一階部分が三倍くらい広くなってないか!? え、どういうこと!?」
絶叫するラルフに、大工の一人が鼻で笑って答える。
「そりゃあそうだろ! せっかくの機会だ。もっと客が入り、もっと酒が捌けるように設計し直したのさ。効率のいい厨房、広い客席……これぞ理想の酒場だ!」
「いやいや、誰だよ! 僕に無断でこんな魔改造を……!」
「――儂が命じた。何か不服でもあるか?」
背後から響いたのは、重厚で逆らいがたい「絶対者」の声だった。
振り返れば、そこにはいつの間にか作業着を羽織り、隠居した好々爺を装ったウラデュウス・フォン・バランタイン国王――通称・ヴラドおじさんが腕を組んで立っていた。
「あ……。いえ、ないっす……」
ラルフは瞬時に折れた。
この王国の最高権力者に言われれば、一介の公爵に拒否権などあるはずもない。
どうやら、領主としての意思も、一料理人としての平穏も、美食の権威の前では塵に等しいらしい。
やがて西の空が黄金色に染まり始めると、不思議な現象が起き始めた。
作業終了の鐘も鳴っていないというのに、工事現場に続々と「いつもの顔ぶれ」が集結し始めたのだ。
「ラルフさま~! 今日はとびきりのオーク肉を仕入れてきましたよぉ!」
「焼きましょう! 今すぐ、ここで焼きましょう!」
能天気な声を上げて現れたのは、もはやラルフの胃袋の奴隷と化しているポンコツ三人娘たちだ。
さらに、頭上から凄まじい風圧が吹き荒れる。
見上げれば、濃い灰色の鱗を持つ変異種のワイバーン、尻尾が途中から失われている――ゲータースキンが、その巨躯を翻して着陸するところだった。
「エリカ! 共和国の市場で、見たこともない激辛トウガラシを買い占めてきましたよ!」
叫んだのは、その背に跨る豪胆な貴婦人、リネア・デューゼンバーグ。
「お母様! グッジョブですわ!」
金髪のドリルツインテールを風になびかせ、娘のエリカが親指を立てる。
母娘揃ってワイバーンの鼻先を撫で、「ありがとう、ゲーターちゃん」と労う姿は、もはや竜騎士のそれである。
間髪入れず、今度は「ギャァァァァァ!」という悲鳴が空から降ってきた。
紅蓮のワイバーンが急降下し、その背から転げ落ちるように降りてきたのは、二人の聖女だった。
「ら、ら、ラルフさま……。聖教国から……特級品の小豆を……持って、来ました……ああ、死ぬかと思った……」
這いつくばりながら、トーヴァ・レイヨンが必死に袋を差し出す。
「お姉ちゃん、情けないから。ほら、ラルフ様が呆れてるし!」
そう言うマルシャ・ヴァールも、膝がガクガクと震えていた。
「お前らなぁ……。まだ店は跡すらないんだぞ。こんなところに食材を持ち込んでどうするんだ」
「えっ? だってラルフ様。そこで、もう始まってるじゃないですか」
マルシャが指差した先では、すでに本日の作業を終えたドワーフたちや、どこからか嗅ぎつけた冒険者たちが、領主館の庭で手際よく焚き火を囲んでいた。瓦礫の中から掘り出されたテーブルが並べられ、即席のバーベキュー会場が出来上がっている。
「……まあ、そうなるか」
ラルフは苦笑し、毒気を抜かれた。
店舗という箱があるかどうかなど、この連中には些細な問題なのだ。
美味い飯と、酒。そして、気の置けない仲間。
それさえあれば、空の下だろうが戦場だろうが、そこは「居酒屋」へと変貌する。
夜の帳が下り始めると、さらに雑多な人々が押し寄せてきた。
「ラルフ様! また私をここで雇ってください!」
と大荷物を抱えた共和国のスパイ、ヨランダが、なし崩し的に給仕の準備を始め、リザードマンの三人組は「寒い……けど、魚捕るの楽しい……」と、独自の潜水漁法で仕留めた大魚を誇らしげに掲げている。
「ほら見ろ! 王都の商人から分捕ってきた特級のボトルだ! お前ら冒険者が一生かかっても拝めないような代物だぞ!」
ふんぞり返る貴族に対し、冒険者が、
「はんっ! 俺だって『陽だまり食堂』に投資して配当を貰ってるんだ、それくらい買えるわ!」
と言い返す。
階級の壁すらも、酒の香りの中では曖昧に溶けていった。
宴の熱気が高まる中、剣聖ヴォルフガングの周りには、憧れの眼差しを向ける若手たちが群がっていた。
「ヴォルフガング様! ぜひ、ラルフ様の幼少期の秘話をお聞かせください!」
「ふん……。実はな、この領主館が壊れたのはこれが初めてではない。今回で、確か、五回目だな。最初はラルフが五歳の時……アイツがわけのわからん魔法実験をして、基礎ごと粉々に吹き飛ばしたのだ……」
「ぎゃはははは! さすがラルフ様だぜ! スケールが違う!」
遠い目をする父の暴露話に、ラルフは「やめろぉ!」と顔を真っ赤にする。
ふと横を見れば、母ジャニスの膝の上に、エリカがちゃっかりと陣取っていた。
「ママ~、大好き~!」
そう言って抱きついてくる愛らしさに、ジャニスの胸はキュンっ! と音を立てた。
「まぁ! なんて可愛らしいのかしら?! ラルフ、この子に決めてしまいなさい! 私、本当は娘が欲しかったのよ!」
「……それ、騙されてるからな?」
無表情で受け流すラルフだったが、背後でエリカの両親が「計画通り」とばかりに親指を立てているのを見て、ラルフは深いため息を吐いた。
「アオォォォォーーン!」
遠くから響く神聖な遠吠え。
「あっ、"お母さん"だ!」
エリカが呼ぶと、暗闇から巨大な狼の魔獣が現れ、その後ろから子狼たちがコロコロと転がるように駆けてくる。その愛くるしさに、ジャニスは「はわわわ……!」と卒倒せんばかりに悶絶していた。
「師匠! またぜひ稽古をつけてくださいませ!」
「おう! クレアか……。いや、今はビールが飲みたいのだが……」
王妃クレアの熱烈な誘いに、剣聖すらもタジタジとなっている。
混沌、狂騒、そして温もり。
ラルフは立ち上がり、ふと、ひび割れた窓枠に残った硝子の破片に目を向けた。
思いつきで、左目に宿る『名も無き神霊の涙』に魔力を通す。
網膜に紅い閃光が走り、世界が変質した。
硝子の中に映し出されたのは、今の自分とは似て非なる、一人の少年の姿だった。
漆黒の魔導士装束を纏い、気弱そうで、それでいて深い慈愛を湛えた瞳を持つ。
その両目には、あまりに強大すぎる紅き魔力が揺らめいている。
「そうか……。君が……」
ラルフはそっと、その幻影に語りかけた。
「……君こそが、本来、この世界で生を得るはずだった……。圧倒的な魔導の素質を持って生まれるはずだった……ラルフ・ドーソンなんだね?」
硝子の中の少年は、言葉を返さない。
ただ、どこか申し訳なさそうに、けれど優しく微笑むだけだ。
かつて、酒好きの女神が語っていた言葉が脳裏をよぎる。
『"――私たち神が、下界の物事に直接的に手を出すのは、極力避けるべきことなの。それはね、『ヒトの自由意志』を何よりも尊重しなきゃならないからよ――"』
ならば、自分の魂と記憶を、この世界へ呼び寄せ、この身体に融合させたのは誰か?
神ですら介入を躊躇う「自由意志」の領域で、誰がそれを望んだのか?
「そうか……。"僕を"ここに呼んだのは……君だったんだね? "ラルフ・ドーソン"」
問いかけに対し、ひび割れた硝子に映る少年は、手を持ち上げ、指差した。何かと思い、そちらに目線を向けると、
「ラルフー! 早く来なさいよ! カルビの焼き加減、アンタが一番うるさいんだから!」
エリカの突き抜けるような声が響く。
「あ、ああ! ……今行く!」
そう答えて再び硝子を見れば、そこにはただ、間抜けな顔をした「今」の自分が映っているだけだった。
「……ありがとう……。そう言っても、いいのかな……」
ラルフは小さく呟くと、自分を呼ぶ喧騒の中へと足を踏み出した。
屋根も壁もない。
けれど、この世界で一番賑やかな、
ラルフがこの世界で生み出した、
――『居酒屋領主館』へ。




