363.誰も知らない
本日、二話連続投稿です。
お間違えなきように。
遠く、意識の境界線の外側から、絶え間なく繰り返される抱擁のような波音が聞こえていた。そのざわめきに交じって、誰かが自分を呼ぶ、ひどく切実な声が鼓膜を震わせる。
「陛下ッ! コール陛下っ!」
重い瞼を押し上げると、そこには網膜を焼くような、燦々と降り注ぐ暴力的なまでの陽射しがあった。逆光の中に浮かび上がる、数人の男たちのシルエット。見覚えのある、泥と汗にまみれた部下たちの姿だ。
「……お前……たちか? ……そうか。ここが、あの世という場所か……」
コール・ディッキンソンは、ひび割れた唇から、砂を噛むような嗄れ声で呟いた。
「おお! コール陛下、お目覚めになられましたか!」
「……ん? はぁぁぁっ?! えっ、は? なんだこれは!」
コールは弾かれたように上体を起こした。
まず肌を打ったのは、濃厚なまでの「熱」だ。肌を撫でる風は湿り気を帯び、季節を飛び越えたかのような、紛れもない夏の匂いがした。
視界に飛び込んできたのは、どこまでも続く純白の砂浜。
手元では、場違いなほど平穏な空気を纏った小さなカニが、コールの指先を避けて横歩きで通り過ぎていく。
死の静寂を覚悟していた意識に、あまりにも鮮烈な色彩と生命の躍動が叩きつけられ、ただ混乱だけが支配した。
「陛下ッ! 陛下ッ! よくぞ、よくぞご無事で……っ!」
隊長格の男が砂浜に膝をつき、子供のように号泣し始める。その涙が砂に吸い込まれていくのを、コールは呆然と見つめていた。
「いや、ちょっと待て……。なぜ、俺が生きている? 説明しろ」
記憶の最後にあるのは、虚無に染まった心で仰いだ、あの薄暗い処刑場の天井だ。毒杯を呷り、意識が闇に溶けていく確かな感覚があったはずだ。
四ヶ国の関係者が見守る中での非公開処刑。
その場に立ち会っていた、あの憎たらしいほど澄んだ瞳をした――ラルフ・ドーソンの、相変わらず悪戯が成功した子供のような、それでいて底知れない凶悪さを秘めた微笑。
「クソっ……。これも。また、アイツの仕業か……」
すべてを察した瞬間、脱力感と共に深い溜息が漏れた。生殺与奪の権利さえ、あいつにとってはいつもの"遊び"に過ぎなかったというのか……。
「陛下……ご覧ください。ここは地図にも載らぬ、未開の孤島です。絶望的な状況ではありますが……しかし、命がある限り、希望はあります!」
縋るような部下の言葉に、コールは周囲を見渡した。
そこには、自分たち元兵士だけでなく、茫然自失とした様子で砂浜に座り込む男女の姿があった。
「彼らは……? どうも、見覚えがある奴らだな」
「例の、"我々の協力者"たちです。共和国の議員連中も、一族郎党ことごとく、この島に追放されたようで……」
「……あんな子供たちまでもか?」
コールの目が驚愕に見開かれる。
砂浜の片隅では、親たちの絶望を余所に、幼い子供たちが興味深そうに小さなカニを追いかけ、歓声を上げていた。
「この島に流されたのは、連座した者すべてです。私の両親もです……。これは、あまりにも、あまりにも酷い仕打ちだ……」
「……すまんな。俺を恨め。すべては、俺の野心が招いたことだ」
コールはギラつく太陽を仰ぎ、天を呪うように目を細めた。
しかし、あまりにも暑い。
彼は王としての虚飾が刺繍された厚手のジャケットを、忌々しげに脱ぎ捨てた。
そこにはカドス国の紋章が誇らしげに刻まれていたが、今の彼には、肌を滑る不快な汗を拭う布切れ以上の価値もなかった。
「いいえ……陛下は我々の誇りのために戦ってくださいました! 誇りを捨てて生きるより、戦う道を選ばせてくれた。どうか、また我らを導いてください!」
「どうか! コール陛下!」
部下たちが一斉に頭を下げる。
だが、すべてを失った「仮初の王」に、何が残されているというのか。
この隔絶された孤島で待っているのは、飢えか、あるいは発狂の果ての殺し合いだろう。
その時だ。森の奥から一人の兵士が、砂を蹴立てて駆けてきた。
「おーい! 凄いぞ! 凄いのがあった! ちょっと来てくれー!」
福音とも取れる、場違いなほど明るい叫び。
促されるまま、一行は島の中央に広がる原生林へと分け入った。そして、そこで彼らを待ち受けていたのは、常識を覆す光景だった。
「こ、これは……まさかッ?!」
コールの言葉が凍りつく。
そこには、ロートシュタイン領主館の裏庭にそびえていた、あの謎の樹、『リグドラシル』と同種と思われる巨木が、圧倒的な生命力を放ちながら鎮座していた。
枝という枝には、バナナ、キウイ、パパイヤ、マンゴー……。多種多様な熱帯の果実が、重みに耐えかねるほどたわわに実り、甘やかな香りを漂わせている。
「これは……もしかして。なんとかなってしまうのか?」
「そうですよ! これだけの実りがあれば、ひとまず飢える心配はありません!」
隊長が目を輝かせ、木登りが得意な兵を呼び寄せ、収穫を開始する。
砂浜に戻ったコールは、もぎたてのバナナを手に、カニを追い回していた幼い少年と少女に差し出した。
「ほら……食べるか?」
「わー! ありがとう、お兄さん!」
「えっ、なにこれ?! 美味しい……っ、甘いよ!」
頬を膨らませて笑う子供たち。
その無垢な笑顔に、コールの胸の奥で何かが静かに音を立てて崩れた。
「コール陛下っ! これを! これをご覧ください! 浜辺に流れ着いた木箱から、こんなものが!」
別の兵士が興奮冷めやらぬ様子で持ってきたのは、数本の釣り竿だった。
「これは、釣り道具……か?」
「そうです! リールに、最新式の魔鉱テグス、さらには見たこともないほど精巧な擬似餌が大量に! 木箱には、これらすべてが新品で詰め込まれていました。神の思し召しに違いありません!」
神の思し召し、だと?
コールは冷笑を浮かべそうになった。
いや、これは神などではない。あの「元同級生」の贈り物だ。
さらに、別の場所でも歓声が上がる。
「こっちの木箱には、野菜の種が! それに、育て方のコツが記されたメモまで入っています!」
「えっ?! こっちは酒だ! 白ワインに、エール……ボトルが何本も!」
もう、笑うしかなかった。
コールはその中の二本、白ワインのボトルを手に取った。
ラベルの隅に目をやれば、そこには小さく、しかし確かな自己主張と共に、『ロートシュタイン産』の文字。
「ちっ……。わかりやす過ぎるんだよ」
吐き捨てながらも、コールは砂浜にうずくまるピエトロ・ガッリにボトルを差し出した。
「飲むか? 飲まなきゃ、やってられないだろ」
「あ、ああ……。感謝する」
虚ろな目で受け取ったピエトロは、栓を抜き、そのままボトルを呷った。
「ブハァ〜ッ! 美味っ! あー、もう……。なんか、どうでもよくなってきたわ……」
ドサリと砂浜に仰向けになるピエトロ。
かつての権威も傲慢さも、南国の風に吹き飛ばされたようだ。
見れば、兵士たちの何人かは既に海に向かってルアーを投げ込み、どちらが先に釣るかを競い始めていた。
コールもまた、熱を帯びた砂の上に腰を下ろし、ボトルの口を直接含んだ。
芳醇な果実味と鋭い酸味、そして酒精が喉を焼く。
暴力的なまでの陽射しの下、この感覚は案外悪くない。
見れば、親の罪も、自らの数奇な運命も知らぬ子供たちは、波打ち際で水を掛け合い、歓喜の声を上げている。
「キャハッハッハ!」
「そーれ! そりゃあ!」
その光景を見て、コールの脳裏に遠い日の記憶が蘇った。
まだ「王」でも「反逆者」でもなかった頃。ラルフと共に、笑い転げていた幼い日々。
「どうして……こうなってしまったのか」
歴史はラルフを勝者とし、自分を敗者とした。
ずっと、そう思ってきた。
だが、それは違うのだと、酒精に浸食され始めた脳が囁く。
人は、自らの生きる道を選ぶ力を持っている。
どんな絶望の中にいても、どんな不毛の地に立たされても。
生き方を不自由に縛り付けていたのは、王という名に固執し続けた、自分自身の卑屈な心だったのではないか?
ワインを一口、また一口と喉へ流し込む。
心地よい酩酊が、重苦しい自責の念を優しく包み込んでいく。
酔いの回ったピエトロが、「えーい! 暑すぎるわ! 儂も泳ぐ!」と叫びながら、高級な上着を放り出して海へ駆け込んだ。
しかし、浅瀬で何かに足を取られ、
「ぶがっ! ガボガボ……」
と盛大に転倒する。
「ギャッハッハッハッハ!」
子供たちの爆笑が島に響き渡る。
ザバァ! と立ち上がったピエトロが、顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「痛いではないか! なんだコレは……えっ? でかッ! 貝だこれ! 凄まじい大きさだぞ!! えっ?! でかっ!!」
と、巨大な二枚貝を持ち上げる。
その滑稽な姿に、コールも堪えきれずに噴き出した。
そういえば、笑ったのは、一体いつ以来だろうか。
「陛下! 島の中心部に、奇妙な洞窟を発見しました! 偵察によれば……間違いありません、ダンジョンです!」
森から戻った兵士の報告に、兵たちはざわめき立った。
「ダンジョンだと? ならば食糧問題は解決だ!」
「オークでもいれば、肉が手に入るぞ! ダンジョンに吸い取られちまう前に、魔封じを施せばいい」
「しかし、どうやって狩る? 剣もないのに?」
「馬鹿野郎! 剣がなければ木を削って槍を作ればいい!」
「そうだ! 俺たちの祖先がやってきたことを、ここでやり直すだけだ!」
意気揚々とサバイバル計画を立てる部下たち。
その中の一人が、熱のこもった瞳でコールに詰め寄った。
「コール陛下! ひとまず力を蓄え、いつか舟を造って大陸へ帰還しましょう。今度こそ、カドス国の再興を……!」
しかし、
その言葉に、コールは薄く、どこか晴れやかな微笑を浮かべて答えた。
「そんな面倒なこと、やるわけねーだろ。バーカ!」
その乱暴な口調は、不思議と「誰か」に似ていた。
「えっ? ……あの、コール……陛下?」
「今日から、ここが、新生カドス国だ! ……いや。国なんて堅苦しいもんじゃない。俺たちの『新しい遊び場』だ! その方が、楽しそうじゃねーか?」
そう宣言し、ニヤリと不敵に笑う。その凶悪な笑みもまた、『誰か』にそっくりだった。
コールは振り返り、碧く澄み渡る水平線を見つめた。
故郷も、大陸も、かつての怨嗟も。
ちっぽけなプライドも、認められたいという渇望も、すべてはこの海の果てに置いてきた。
寄せては返す波と、ギラギラとした陽射しが、コールの心を透明に洗い流していく。
その上空、雲を裂いて飛翔する紅き巨躯のワイバーン。
その背に乗る二人の人影が、満足げに島を見下ろしながら彼方の空へと消えていくのを、この島で新しい生を始めた者たちは、誰も知らない。




