353.反撃の出撃
共和国の北端、峻厳な山々を削り出して築かれた天然の要塞。その湿り気を帯びた地下通路に、場違いなほど優雅な硬い足音が響き渡っていた。
コツコツと、一定のリズムで石床を叩くのは、最高級の鹿革で仕立てられたライディング・ブーツ。その主は、夜の帳を思わせる深い濃紺のドレスに、無骨な革のフライトジャケットを羽織った貴婦人、リネア・デューゼンバーグ伯爵夫人である。
「やっとね……。随分と待ちくたびれましたわ。ねぇ、ゲルテン・ベイレフェルトさん?」
隣を歩む大柄な男に、リネアは艶然とした微笑を投げかけた。かつて戦場を駆けた猛者の面影を持つその男は、緊張に背筋を伸ばし、直立不動に近い姿勢で応える。
「ハッ! 自分も、まさかこのように現役復帰が叶うとは……。それもこれも、リネア・デューゼンバーグ様のおかげです!」
その硬すぎる口調に、リネアは鈴を転がすような笑い声を漏らした。
「ふふっ。ホットドッグを売っている時とは、随分と口調が違うのね? それが本当の貴方かしら?」
「し、失礼しました。……どうも、この軍服に袖を通すと、古傷が疼くというか、つい……」
ゲルテンは決まり悪そうに、糊のきいた襟元を指で弄った。リネアはその様子を慈しむように見つめ、柔らかな声を出した。
「いいえ、謝らないで。からかうつもりはなかったのよ。……それで、ゲルテンさんはこの機会に、再び『竜騎兵』として生きてゆくおつもり?」
その問いに、ゲルテンは迷いなく首を振った。
「いいえ! これが終わったら、俺はロートシュタインに戻ります。またあそこで、最高のホットドッグを売るんです! ……ですが、今回はせっかくの『祭り』ですから。参加しないなんて、男が廃るというものですよ!」
「あら?! ……ふふ、私と同じね?」
二人が地上へ踏み出すと、そこには圧巻の光景が広がっていた。整列した共和国竜騎兵たちの傍らで、灰色の皮膚を持つ飛竜――"グレイスキン・ワイバーン"が、主の合図を待ちわびて獰猛な息を吐いている。
「皆様。私のような余所者を、一時的にせよ受け入れてくださったこと、心より感謝いたしますわ」
リネアが優雅にカーテシーを捧げると、隊長が裂けんばかりの声で号令をかけた。
「――敬礼ッ! 勇敢なる貴婦人殿に、最大級の敬意を!」
ガシャリ、と鎧の触れ合う音が一つに重なる。精鋭たちの敬意を背に受け、リネアの視線はその先に鎮座する「怪物」へと向けられた。
一際巨大な体躯、燃え盛る業火を固めたような真紅の鱗。
――レッドフォード。
その紅蓮の瞳には、世界を焼き尽くさんとする怨嗟が宿っている。
「レッドフォードさん。また、力を貸してくださるかしら?」
リネアが白く細い手を差し伸べると、周囲が息を呑む中、その巨大な竜は従順に首を垂れ、愛おしげに彼女の頬へその巨躯を寄せた。
「信じられん……あの大型種を、完全に手懐けているというのか?」
「それだけじゃない……俺は見た。あの御婦人の飛行技術は、控えめに言って狂気だ。……空の女神か、あるいは死神か……」
畏怖と尊敬の入り混じった視線の中、リネアはゲルテンを振り返った。
「ゲルテンさん、飛行計画に抜かりはないかしら?」
「はっ! 俺が先導します。この相棒――ドルトナコフと共に!」
彼の傍らには、老齢ながらも静かな闘志を瞳に宿したワイバーンが控えていた。
リネアは満足げに頷き、全軍に向けて宣言する。
「いいわ。皆様、今回の任務は至ってシンプル。……我々は『配達員』です。それも、歴史上もっとも速い超特急便。遅れなど、皆様のような精鋭には無縁の言葉でしょう? さあ、行きましょう。――ラルフ公爵に、最高のプレゼントを届けるために!」
曇天を突き破り、深紅の影を先頭に竜騎兵の群れが飛び立つ。それは後に「疾風の再征」と謳われる、未知なる速度への挑戦の始まりだった。
✢
その数刻後。
辺境の海辺の村エストルンド。
穏やかだった波音をかき消すように、次々と重厚なエンジン音を響かせて魔導車の列が流れ込んできた。
村人たちは戸惑い、呆然と立ち尽くす。
数日前、ラルフという風変わりな若者が酒場を開いたことから始まった奇妙な喧騒は、いまや一国の存亡を賭けた軍事行動のような様相を呈していた。
そこには、酒に溺れていたかつての「酔いどれ店主」の姿はなかった。
仕立ての良い貴族服に身を包んだラルフは、青空の下、不敵な笑みを浮かべて立っている。
その眼差しは鋭く、まるで盤上の駒を完璧に把握した名軍師のそれであった。
「やあ、ラルフ。久しぶりなような。そうでもないような。とにかく、この『祭り』、僕も一枚噛ませてもらうよ?」
停車した豪華魔導車:ネクサス2から降り立ったのは、第三王子ミハエル。
「けっ、お前もクレア王妃の企みに加担してやがったな? こっちは、騎士団や、気の短い冒険者たちが暴走しないか、ヒヤヒヤしたんだぞ」
「……さあ、何のことかな? ……"白き手は血を知らず、清き心は国を滅ぼす"。僕ら王族に伝わる格言さ。君には"白き心"のままでいて欲しかったっていうのは……僕のワガママかな?」
ミハエルのニヒルな微笑に、ラルフは鼻を鳴らした。
「ふん、最高に皮肉で、最悪に口の上手い同級生を、僕は持ったようだなっ!」
毒づきながらも、二人の間には確かな信頼と親愛が漂っていた。そこへ、盲目の白馬に跨ったエリカが声を上げる。
「ラルフ! レグが来たわよ!」
地響きと共に現れたのは、巨大輸送車:ファットローダー。
その助手席にいた人物が、窓から身を乗り出して叫ぶ。
「ラルフ様ぁ! 持ってきましたよ! マルデスト山の麓の土です! ……って、いったい、何に使うんですか、これ?!」
「おー、ジャンバティスタさん! ありがとう、助かるよ!」
さらに、場を制するように現れたのは、王冠を戴いた国王ウラデュウス・フォン・バランタインその人であった。
「ラルフよ……そろそろ全貌を話してはどうだ? 皆、お前の言葉を待っておるぞ」
「……ヴラドおじ。……あのねぇ、これから始めるのは、いわば"戦争"ですよ? なんで王様自ら来てるんですか?!」
「当たり前だ! こんな愉快な催し、儂を除け者にするつもりか?」
高笑いする国王に、ラルフは頭を抱えた。
「おい、誰か止めろよ! 家臣! 宰相! ……ったく、めんどくせーな!」
「だがラルフ、敵は百を超える反乱兵とあの魔導兵装だ。どう崩すつもりだ?」
国王の鋭い問いに、ラルフは抱えていた、謎に巨大な時計を確認し、空を見上げた。
「……ふむ。まあ、色々考えてますよ。おっと、時間だ」
その瞬間、空気が震えた。
「お、おい! 上を見ろ!」
「な、なんだあれは……ドラゴンの群れ?! ヤバい、逃げろっ!!!」
パニックに陥りかける群衆。
しかし、ラルフだけは確信を持ってその影を見据えていた。
「皆、落ち着け! 大丈夫だ ……ふぅ、さすがリネア様とゲルテン。一秒の狂いもないとは……」
雲を割り、超低空で滑空してきたワイバーンたちが、その鉤爪に下げていた「荷物」を次々と投下する。
ドォォォン! ドォォォォン! と大地を揺らして着地したのは、鈍い金属光沢を放つ鉄の塊達。
それは、堅牢な複合装甲と巨大な魔導主砲を備えた、あの『生魚事変』を、一瞬で鎮圧せしめた未知の兵器――『魔導戦車』の新型であった。
「な、なんだ、コレは……!」
「ラルフ様、これ、一体どこから……!?」
驚愕する一同に、ラルフは平然と言い放つ。
「ジョン・ポール商会との極秘プロジェクトさ! 聖教国に誘致した工場で、地元の雇用を守る名目でこっそり造らせていた試作品だ。……まあ、サプライズってやつ?」
一同、呆れを通り越して無表情になる。
この無茶苦茶な手際、この予測不能な展開。
(……ああ、これこそが俺たちの知っている。「大魔導士ラルフ・ドーソン」だ)
そう思わざるを得ない。
役者は揃った。
これから始まるのは、「美食の街」――ロートシュタインを奪還するための、一世一代の大勝負。
ラルフは魔導戦車の上に飛び乗り、集まった人々を見渡した。
「いやー、みんな、お待たせ! まー、なんだ。色々と言いたいことはあるだろうけどさ……。これ、パパッと終わらせようぜ! 終わったら、好きなだけ飲み食いしていいからさ!」
あまりに気の抜けた、出撃にそぐわない第一声。
しかし、その「軽さ」が人々の緊張を、爆発的な熱狂へと変えた。
「ラルフ様よぉぉぉ! "どこ"で飲み食いさせてくれるんだぁ?!」
斧を担いだドワーフの野太い声に、ラルフは最高の笑みで応えた。
「はっ! 決まってんだろ?!! 僕の……いや、みんなの、……『居酒屋領主館』でだよ!」
「――うおおぉぉぉぉぉぉッ!!!」
「いぇぇぇぇぇぇ!! 取り戻すぞ! 俺たちのロートシュタインを!」
「よっしゃあ! やってやる!! ラルフ様の奢りだぁぁぁ!」
怒号のような歓喜が、晴れ渡る青空を揺らす。
酒を愛し、美食を愛し、そして、かけがえのない日常を愛した人々の、不屈の進撃。
歴史の闇を照らし出す、最も騒がしく、最も輝かしい行軍が、今、始まった。




