347.ラルフの酒場
凪いだ水面に、一歩。
冬の海は、大気よりもわずかに温い。しかしそれは生身の人間にとっては、死神が差し出す微かな慈悲に過ぎない。この凍てつく深淵に身を投じるなど、正気の沙汰ではなかった。
だが、ティナは躊躇わない。
両手で掬い上げた海水を、自らの顔へ。
突き刺さるような冷気が神経を駆け抜け、鋭敏化された潜水反射が、高鳴る鼓動を緩やかに凪がせていく。思考を極限まで鈍化させ、彼女は境界線を越えた。冬の海へと、溶け出すように泳ぎ出す。
「うん……今日は、水が澄んでる」
どれほどの時間が過ぎただろうか。
経験則という名の生存本能が、これ以上の潜水は命の火を消すと告げた。
這い上がった岩場には、あらかじめ熾しておいた焚き火がパチパチと爆ぜている。尻餅をつくように座り込むと、それまで忘れていた猛烈な悪寒が襲ってきた。風に晒された肌が、悲鳴を上げるように震え出す。
ティナは背を丸め、厚手の布地に縋り付いた。ただ、揺らぐ炎の芯だけを見つめ、熱が芯まで戻るのをじっと待つ。
ティナには、過去がない。
気づけばこのエストルンドの港町にいた。この浜辺に打ち上げられた小舟に揺られ、赤子の彼女はやってきたのだという。
「共和国の生まれではないか?」
村長たちがそう推測するのは、彼女の浅い褐色の肌と、夜を溶かしたような黒髪ゆえだ。
親も知らず、故郷も知らぬ。十四年という月日を、彼女はこの寂れた漁村で、ただ静かに積み重ねてきた。
これからも、こうして生きていく。
そう思うたび、輪郭を持たない「世界」という巨大な影が、彼女の前に立ち塞がる気がした。
それは、見上げた夜空の果てしなさに、己という存在の矮小さを突きつけられるような、根源的な恐怖に似ていた。
日は傾き、海岸線は群青色に染まっていく。
網の中には、本日の収穫――冷たい岩場に潜んでいた根魚や貝たちが重みが、ティナの傷だらけの細指に下げられていた。
暫く歩くと、潮風に交じって陽気な笑い声が聞こえてきた。
そこにあるのは、奇妙な掘っ立て小屋。
つい先日、忽然と姿を現した謎の店――『ラルフの酒場』。
店主のラルフは、親子連れの流民だという噂だ。一部の村民は「没落した貴族ではないか」と勘繰っているが、ティナには縁のない話だった。
軋む戸を開ける。
そこには、まるで何十年も前からそこに根を張っていたかのような、熱気を孕んだ宴が広がっていた。
「ハッハッハー! そんじゃあ、僕がドラゴンを狩った時の話をしてやろうか? いやぁ、あれは本当に骨が折れたんだよ、マジで」
軽薄な響きを帯びた声の主は、店主のラルフだ。
「ハッハッハ! 店主、腹が痛ぇよ! そのヒョロい腕のどこにドラゴンを倒す力があるってんだよ?!」
「いや、本当、本当! 本当なんだって! アニメじゃない。……本当のことさ……ギャッハッハッハッハ!!!」
と、とても騒がしい。この村に新しい娯楽と憩いができたのは、なんだか嬉しくもあるが。
「失礼。そこの貴方、今私の臀部に触れようとしましたね? 危うくその腕が床に転がるところでしたよ」
冷徹な声と共に、ステーキナイフが閃く。
給仕係であり店主の妻とされる女性、アンナ。
彼女の背後に手を回そうとしていた村長が、冷や汗を流しながら石像のように硬直していた。
「お待たせしましたー! カキピーと自家製カマボコでーす!」
元気に駆け回る少女、ミンネ。
そして、彼女と瓜二つの少女がティナに気づき、頬を染めて駆け寄ってくる。
「いらっしゃいませ! 居酒屋領しゅ……あぅ、すみません……。『ラルフの酒場』へようこそ!」
何かを言い間違えた、ハルと呼ばれた少女の頭には、ピンと立った獣の耳。
彼女が獣人族であることは、この家族が血縁を超えた「何か」であることを示唆していたが、村人たちはその慈悲深さを好意的に受け止めていた。
「ああ、悪い。私は客じゃない。これを納品に来たんだ」
「わぁぁぁ! 貝と、お魚さん! こんなにたくさん!」
ハルの歓喜の声に、赤ら顔のラルフが振り返る。
「おー、ティナ! 助かるよ。さぁ、こっちへ。……おい、バウワー!」
「はっ、ラルフ様!」
厨房から顔を出したのは、岩のような体躯を持つ禿頭の大男。
「ティナに、何か馳走してやれ!」
「い、いえ、いつも悪いです。報酬は頂いてますし……」
「いいから、いいから!」
遠慮するティナの手に、ラルフは有無を言わさず金貨二枚を握らせ、カウンター席へと押しやった。
ずっしりとした黄金の重みに、ティナは呆然とする。この店主は、いつもそうだ。酔っているのか本気なのか判別不能なほどに寛大で、そして、底が知れない。
「……そ、それじゃあ、あの『カイセンゴモクチャーハン』を食べてみたいです」
昨日、冒険者と思わしき男が「チャーハンが……進化した……!」と号泣していた一品。
ティナのささやかな願いに、ラルフはニヤリと笑った。
「だってよ。バウワー。できるか?」
「う、うむむ……まずは油と卵を……火力は最大……」
バウワーが必死に捲っている本の背表紙には、『ロートシュタイン……レシピ……』という、およそ漁村には似つかわしくない文字が躍っていた。
その時、夜の静寂を切り裂いて、馬の嘶きが響いた。
バン! と、壊れんばかりに扉が開かれる。
「……なんで。ラルフ、なんでよ……!?」
現れたのは、この寒村には場違いなほど豪奢な、金髪縦ロールの少女、
「え、ええええぇ?! エリカ、お前、なんでここに?!!」
彼女は肩で息をしながら、ラルフに一枚の書状を叩きつけた。そして、人目を忍ぶように声を潜めて、しかし激昂を隠さずに囁く。
「例の魔導兵器の回路図よ! あんたなら、アレの弱点を解析できるんでしょ!?」
その瞬間、ラルフの瞳から酔いが消えた。
一字一句を走査するその眼差しには、知性の深淵が覗く。
しかし、彼はすぐにいつもの「酔っ払い」の仮面を被り直した。
「知ら〜ん! 知らんよそんなのぉ! 僕にはもう、関係ないねぇ〜」
ヒラヒラと宙に舞う重要書類。
「あんたねぇ! 全部投げ捨てるつもり!? なら、あたしにも考えがあるわよ!」
詰め寄るエリカ。だが、周囲の客たちの耳には、全く別のニュアンスで届いていた。
「……おい、あのお嬢様、店主の三人目の子供か?」
「いや、違う。今の書状……多分、『婚姻契約書』だぞ!」
「マジかよ、あんな幼い子とか?」
「あ~、あれだ。世間知らずの貴族令嬢を言葉巧みに、甘い言葉を囁き、騙したんだ……」
「はは〜ん。なるほど、とんでもねークズ野郎だったってわけか?」
「それで王都にいられなくなったのかなぁ?」
「詐欺師よ! 詐欺!! 女の敵ぃぃぃ!!!」
負の連鎖は止まらない。
再び扉が蹴破られる。
「マスター! 私は失望しました……。マスターは、男として、その責務から逃げたっ!」
凛々しき女騎士、ミラ。彼女の絶叫が、さらなる「誤解」という名の火に油を注ぐ。
「お、『男としての責務』だと……?」
「おい、つまり……その、なんだぁ……あの女騎士様の腹には、"新しい命"が宿ってるってことじゃねぇか?! あの店主の!!」
「なんてクズ野郎だ……! 羨ま……、あ、いや、許せんッ!」
村長の息子が血の涙を流して絶叫する。
だが、夜の狂宴は始まったばかりだった。
また、戸が開かれる。
「ラルフ・ドーソン! 貴様の"あの刺激"がなければ、私は生きていけない! 私をこんな身体にした責任を取れ!」
オルティ・イルの悲痛な叫びに、男たちの額に青筋が浮かぶ。
「ラルフさまぁ〜。オラ、ラルフ様がいねぇと生きていけねぇわ……」
なんと、エルフ族の少女までもがやって来て、店主にしがみつく。
そして、次々と現れる絶世の美女たちが、一人の「店主」を囲んでいく。
もはや、嫉妬を通り越して、男の目には、尊敬の念すら漂う店内。
そしてトドメを刺したのは、一人のナイスミドルの登場だ。
「ラルフ……何故だ。何故逃げ出した……?!」
「あ、あれぇ!? ファウストさんまで!?」
男たちの思考が凍結し、口をあんぐりと開き、冷たい汗が頬をつたう。
そして、女性客たちの顔面が超新星爆発を起こしたかのように朱に染まった。あらぬ妄想が鼻血となって溢れ出す。
ティナは、戦慄を覚えながら村長に耳打ちした。
「……あの人、本当に貴族様なんですかね?」
それは、村の女たちが噂していた『高貴な男は、百の花を侍らせる庭園を築く』という、お伽話染みた放蕩の特権を思い出していた。いわゆる、ハーレムというやつだ。
村長は、酒の力で辛うじて理性を保ちながら、
「ああ……。かもな……。またの名を『泥酔卿』。生の深淵に囚われた、筋金入りのクズさ……」
と吐き捨てた。
「アンタも……、大変だねぇ」
と、客の御婦人に、謎に同情されるアンナだけが、狂騒の中心で一人、絶対零度の無表情を保っていた。




