346.反逆の反逆
新生カドス国を自称する侵略者たちの軍靴に踏みにじられたロートシュタイン領には、さながら敗戦直後のような、虚ろな静寂が漂っていた。
かつて空気を震わせていた美食の街の喧騒は、今や遠い夢の跡だ。
街角には巨大な魔導兵装が威圧的に鎮座し、無機質な光学レンズで市民を睥睨している。その威容は、平和を享受していた街の風景にはあまりに不釣り合いで、暴力による統治を無言で誇示していた。
かつて溢れんばかりの活気に満ちていた大通りには、数えるほどの屋台が力なく並ぶのみ。行き交う人々は、その影さえも怯えているかのように細い。
多くの住人は、厚い帳を下ろした暗がりに身を潜め、互いの息遣いを感じながらヒソヒソと囁き合っていた。
ある者は、明日の糧さえ見えぬ霧のような不安に声を震わせ、
ある者は、己の庭のように闊歩する侵略者たちの軍靴を呪わしく揶揄し、
そしてまたある者は――戦う術を、その覚悟を許してくれなかった領主、ラルフ・ドーソンに対する痛切な失望と、やり場のない憤りを噛み締めていた。
ラルフの統治下で栄華の極致にあった美食の街は、一夜にして、その魂を抜き取られた抜け殻へと変わり果てていた。
そんな中、どんよりと垂れ込めた鈍色の空の下。
薄汚れた襤褸を纏った一人の少女が、カッポカッポと乾いた蹄の音を響かせるラバの手綱を引き、重い足取りで歩いていた。ラバが引くのは、古びた小さな荷車だ。
深く被った頭巾の隙間からのぞく少女の顔は、泥か炭か、あるいはその両方か、黒い汚れで塗り潰されている。その姿は、見る者に否応なく「底辺の身分」を想起させる、惨めなものだった。
少女とラバは、街の境界たる大門を目指す。
昨日までは、自由の象徴として明け放たれていた門。領主ラルフの特例措置により、入領税さえ免除されていた往来自由な商業都市の誇り――。だが今は、重々しく閉ざされた門の前に、冷たい輝きを放つ槍を手にしたカドス兵が二人、番犬のように立ちはだかっていた。
少女が歩みを進め、その影が門に落ちた瞬間。
「むっ? そこのお前、止まれ!」
鋭い制止の声と共に、一振りの槍が少女の喉元に突きつけられた。
もう一人の兵士が、獲物をいたぶるような卑屈な愉悦を瞳に宿し、低く問い詰める。
「こんな時間に、どこへ行くつもりだ? まさかとは思うが、この街を脱しようというわけではあるまいな?」
脅し付けるような軍靴の響きに、少女は僅かに、そして怯えたように顔を上げた。
気弱そうに揺れる青い瞳。頭巾からこぼれ落ちた金髪は、手入れもされず雑然としており、気品の欠片も見当たらない。
「わ、私は……主様のご命令で、王都にコレを運ぶようにと……」
「主だと? お前、まさか『奴隷』か?」
兵士の問いに、少女は深く俯き、消え入りそうな声で言葉を紡いだ。
「は、はい……。その、私は……私のような者は、ここでしか生きることができません。ですから、逃げようなんて、そんな恐ろしいこと、企むはずもございません……」
緊張に強張った面持ちで切々と語る少女。だが、兵士たちはその言葉を嘲笑混じりに遮った。
「おい、聞いたかよ。……奴隷だとよ」
「ああ、やはり王国というのは救いようのない野蛮な奴らだ。我がカドスには、奴隷などという忌まわしき身分は存在しないというのに!」
意外なことに、二人の兵士は少女を詰問する代わりに、彼女の身の上を過剰に案じ、王国への一方的な非難を熱っぽく語り始めた。
「あっ、いえ。その……。主様には、大変よくしていただいておりまして……」
辿々しく、そして困惑したように彼らの「お節介な哀れみ」を否定しようとする少女。だが、髭面の兵士は優越感に満ちた表情でしゃがみ込み、彼女の目線に合わせて声を和らげた。
「安心しな、お嬢ちゃん。我らが新王、コール陛下が、お前のような者を不当な身分から解放してくださる。……だが、まあ、なんだ。軍の決まりというものがあってな。ここを通るには通行税が必要だ。その主人から聞いていないか?」
「……はい。これを。それから、これも……。主様から、お二人への差し入れだそうです」
少女は震える手で懐を探り、銀貨二枚と、小ぶりなガラス瓶を取り出した。
「おっ? おお……?! これはまさか、酒か?!」
「はい……。非常に酒精の強い、蒸留酒というものだそうです。私の主様は、カドス国が歩んだ悲劇の歴史を、深く……本当に深く悲しんでおられました。ですから、せめてもの、王国民としての償いになればと……」
少女の声は、哀悼の意に震えているようにも聞こえた。
「おお……! そうか、そうかっ! お嬢ちゃんの主は、我らの悲哀を理解してくれる義人か? 素晴らしい御仁ではないか! コール陛下には、この殊勝な志を必ずやお伝えしておこう!」
感極まった髭面の兵士は、無造作に少女の頭を撫で回した。
そこへ、もう一人の若い兵士が、職務を思い出したように口を挟む。
「すまないが、積み荷を確認させてくれ。我々もまだ勝手がわからなくてね。煩わしいだろうが、協力してほしい」
「……はい……」
兵士たちが荷車に掛けられた分厚いシートを無造作に捲り上げた、その瞬間。
鼻腔を焼き、脳髄を直接突き刺すような、激烈な刺激臭が立ち昇った。
「うぶっ?! な、なんだ、これは……!」
あまりの異臭に、兵士たちは顔を背け、激しく咳き込んだ。
実は先ほどから、微かに、だが確実に、少女自身からも顔を顰めたくなるような臭いが漂っていた。しかし、彼女の不憫な境遇を前に、それを指摘するのはあまりに酷だという「温情」から、二人は口を噤んでいたのだ。
「それは、堆肥です。……ここロートシュタインは海に近く、家畜も多い。魚の食べられない部分や家畜の糞を混ぜ合わせれば、最高級の堆肥になるのです」
淡々と説明する少女に、髭の兵士は鼻を摘まんだまま、涙目で尋ねる。
「……そ、その取引先との、鑑札か証文はあるのか?」
「はい……。こちらを」
差し出された書面を、兵士は指先で摘まむようにして確認した。
「ふむ……。取引先は、ジャンバティスタ。王都、東三番通りの……花屋か」
「もういいんじゃねーか? 鼻が曲がっちまう!」
若い兵士が悲鳴を上げ、シートを投げ出すように戻した。
「あ、ああ……すまなかったな。通っていいぞ!」
「ありがとうございます。……行くわよ、ロシナンテ」
少女はラバを促し、重々しい門を潜り抜けた。
門番の二人は、その華奢な背中が遠ざかり、街道の彼方へ消えていくまで見送っていた。
「あんな小さな子が、過酷な労働を強いられているとはな……」
若い兵士は、胸に溢れる歪んだ正義感に声を震わせ、呟いた。
「俺の娘も、生きていればあの子と同じくらいの歳だったはずだ……」
髭の兵士は、非道な王国への憎しみを、一層深くその胸に刻み込んでいた。
✢
しばらくして……、少女は静かに振り返った。
ロートシュタインの街並みは、もはや地平の彼方に霞んでいる。
彼女は迷うことなく街道を逸れ、茂みの奥へと進んだ。
そこには、宝石のように澄んだ小川が、陽光を反射して流れていた。
透明な水面にその身を屈め、両手を差し入れる。彼女は何度も、何度も、丁寧に顔を洗った。
揺れる水鏡に映し出されたのは、先ほどまでの「汚れた奴隷」ではない。抜けるように白い陶器のような肌と、不屈の意志を宿した強く鋭い瞳――。
薄汚れた頭巾を脱ぎ捨て、濡れた顔を拭う。
そして仕上げと言わんばかりに、乱れた金髪の左右を両手で力強く掴んだ。ぐい、と力を込めて引っ張り、そして――パッと手を離す。
ミョンミョンミョ〜ン! と、
重力に抗うように、サイドの髪がバネの如き躍動感で跳ね回り、一瞬にして、彼女のトレードマークである完璧な、"ドリルツインテール"へと変貌を遂げた。
エリカは、心底面倒くさそうに、大きく鼻を鳴らした。
「ふんっ!」
✢
ロートシュタインと王都を結ぶ街道。その中間地点に位置する競馬場には、カーライル騎士爵率いる精鋭騎士団と、宮廷魔導士ヴィヴィアン・カスターが陣を敷いていた。
その一帯は、進軍直前の嵐の前の静けさと、張り詰めた緊張感に満ち満ちていた。
「……あっ! エリカ! エリカだっ! やっと来たっ!」
街道を歩んでくる小さな影を最初に見つけたのは、ヴィヴィアンだった。
カーライル騎士爵も、顔馴染みの騎士たちも、安堵と期待を隠さずに彼女の元へ駆け寄る。
「ハァ……。疲れたわよ! 遠すぎるっての!!」
エリカは開口一番、剥き出しの苛立ちと共に不満を爆発させた。
ヴィヴィアンは苦笑しながら水筒を差し出し、最も懸念していた問いを投げかける。
「やはり……。エリカのキャブも?」
「奴らに徴発されたわよ! ラルフのロードスターも、あのバカ王子が何処かへ運んでったわ! ……ああ、もう ムカつくったらありゃしない!!」
反乱を成就させ、王国の一部を簒奪したコール・ディッキンソンは、民間人が所有するすべての魔導機械の接収を命じていた。エリカが愛していた自由の象徴――小型魔導二輪車も、その例外ではなかったのだ。
「それで……例のモノは、運び出せたのか?」
カーライル騎士爵の低い声が、場の空気を引き締める。
「ふんっ! 奴ら、さすがに堆肥の中にまで手を突っ込む度胸はなかったわ。……持ってきたわよ!」
「よし! エリカ女史の比類なき献身に、全員敬礼! ……積み荷を降ろせ!!」
騎士爵の号令一閃。騎士たちが一斉に最敬礼を捧げ、その後、凄まじい異臭を放つ堆肥の山から、「それ」を慎重に引きずり出した。
それは、あの忌まわしき新型魔導機械化兵装――。
ファウスティン公爵の魔導銃によって破壊された、敵軍の技術の粋を集めた厄介な兵器の、残骸であった。
「っていうか! なんですぐに奪還作戦を開始しないのよ?! これだけの兵力を集結させたなら、今すぐロートシュタインに進軍しなさいな! 国王陛下は何をもたもたしてるのよ?!」
エリカの激情が周囲を圧する。
彼女にとって、生まれ故郷の王都よりも、あのロートシュタインこそが己の居場所なのだ。
だが、ヴィヴィアンは苦渋に満ちた表情で、理解しがたい現実を口にした。
「……エリカ。それは、できない。今、それをしたら……ラルフ・ドーソンを、正式に『罪人』として確定させることになる」
「なんでよっ?! 悪いのはあのコールとかいうバカ王子でしょ?! なんで、ラルフが罪に問われなきゃいけないのよ?!」
その理屈は、聡明なエリカにも分かっているはずだった。だが、極度の疲労と愛する場所を奪われた怒りが、彼女の冷静な判断力を曇らせていた。
「王国貴族として、あろうことか公爵として……。敵に頭を下げ、国土を割譲したのだ、あの男は! その行為が、何を意味するか……エリカ、君になら、理解できるはずだっ!」
ヴィヴィアンの叫びもまた、冷静さを欠いていた。彼女もまた、親友の窮地に心を千切らんばかりに痛めていたのだから。
エリカは鋭い眼光でヴィヴィアンを射抜いた。
そして、人々の思惑を透かし見るような冷徹な結論を吐き出す。
「……なるほど。だから、国王陛下もお父様も、おとなしく王都へ逃げ帰ったのね? 王国の正規軍がこの事態を鎮圧してしまったら、もはや貴族としてのラルフに立つ瀬はない。……そう言いたいんでしょ? だから、あの街の人達を、切り捨てることにした……」
エリカの鋭い分析。だが、ヴィヴィアンは泣き出しそうな、しかしどこか誇らしげな笑みを浮かべて首を振った。
「エリカ……。君はやはり、どこまでも高潔な貴族なのだな。だが、違うだろ? ラルフを……、私たちのロートシュタインを信じろ。あの男が、そして皆が、そんな政治的な屁理屈で動くものか?! 少なくとも、私は、一秒たりとも諦めていないっ! 諦めてたまるかっ!!」
エリカは一瞬、呆気にとられたようにキョトンとした。だが、すぐにふてぶてしい、不遜な笑みをその唇に刻む。
「ふんっ! なるほど……面白いじゃない。あたしたちは、"反逆者の反逆者"ってわけね? ……で? あたしは何をすればいいの?」
その瞳には、かつての活力が、そして凶悪なまでの闘志が宿っていた。
「……回収した新型魔導兵装の、魔導術式回路を解析し、その弱点をラルフに届けてほしい。あの兵装の脅威さえ排除できれば、人質はいないも同然。あの男なら……あの大魔導士なら、一瞬にして敵を無力化する術を、必ずや導き出すはずだ」
ラルフが屈辱的な降伏を受け入れた唯一の理由。それは街中に展開する未知の兵装が、非戦闘員を人質に取ったからだ。
ならば、その「枷」を外すこと。
それができるのは、ラルフ・ドーソン自身の頭脳をおいて他にない。
「……でも、ラルフたちは今どこにいるの? 追放された後の足取りなんて、あたしは聞いていないわよ」
ヴィヴィアンは深く息を吸い、覚悟を決めたように告げた。
「ラルフたちは今、"エストルンド"の港町にいる。共和国の諜報機関から、極秘の情報提供があった」
「エストルンド……?」
「王国と聖教国の国境沿いにある、何もない寂れた漁村だ」
「そう。でも、遠いわね……。あーもう! あたしのキャブさえあれば、ひとっ走りなのにぃ!!」
地団駄を踏むエリカ。
しかし、そこでカーライル騎士爵が不敵な笑みを浮かべて前に出た。
「心配は無用だ、エリカ嬢! ここに、『最速の脚』を用意してある! 我らがこれより術式回路を解析する。その秘匿情報が明らかになり次第、君にはそれをラルフの元へ届けてもらう。……おい! 連れてこい!」
「はっ!」
騎士爵の命を受け、部下たちが連れてきたのは――。
陽光を浴びてシルクのように艶やかに輝く白い毛並み。そして、白濁していながらも、消えることのない不屈の闘志を宿した瞳。
その圧倒的で、神々しいまでの、威風堂々たる出で立ちに、エリカは思わず後ずさり、驚愕の声を上げた。
「え、えええええっ?! う、ウソっ?!!
さ、……サイレントオラクルじゃない?!! ……まさか、……あたしが、この子に乗るっていうの?!!!」
あの、ロートシュタイン記念杯での。満員のスタンドを暴風さながらに湧かせた、最終コーナーの疾風の如き追い上げは、まさに優駿の称号に相応しい……。
それ以後のレースでも、数多の伝説を築き上げた、"王国最速の競走馬"。
誰が呼んだか、――盲目の覇者。
その名は、――サイレントオラクル。
その猛々しい嘶きが、夕闇を切り裂く。
エリカは思う……。
この馬に、どれほど稼がせてもらったことか――。
と。
そんな感慨と共に、エリカは、この名馬と共に、"風となって駆け抜ける"。という、あまりに重く、しかし彼女にしか成し得ない使命を、その小さな肩に背負った。
✢
その頃。
王国と聖教国の狭間に位置する、エストルンドの港町――。
潮騒と魚の臭いだけが支配する寂れた漁村の一角。その日、突如として奇妙な掘っ立て小屋が出現した。
漁師たちは、昨日まで空き地だった場所に建ったその建物に、怪訝な声を上げる。
「ん? なんだこれ、昨日までこんなのなかったよな?」
「ああ。なんでも、流民の若い親子連れが新しく開いた酒場らしいぞ」
「はあ?! 酒場? こんな寂れた村にか? しかも親子連れだと?」
「まあ、酒があるってんなら、試しに……入ってみるか?」
好奇心に駆られた漁師たちが、軋む扉を押し開けた。
すると――。
「いらっしゃ〜い……。"ラルフの酒場"へ、ようこそ〜……」
どこまでもやる気のない、なんとなくだらしない、それでいてどこか超然とした店主の声が、店内に力なく響き渡った。




