341.闇より来たりて
閉店時間を過ぎた居酒屋領主館の客席には、異様なほどの緊張感と静寂が澱のように溜まっていた。残っているのは、領主ラルフと浅からぬ縁を持つ常連客のみ。
椅子に深く腰掛けさせられたラルフと、正対するヴィヴィアン・カスター。
その光景は、酒場の喧騒の残滓の中で、どこか厳かな診療風景にも見えた。
「では、これは何本に見える?」
ヴィヴィアンが細い指を三本、ラルフの眼前で広げる。右目を掌で覆い、残された左目だけでそれを見つめるラルフは、眉根を寄せて呻いた。
「うーん……。三、かな?」
「ふむ。では、この手を視線で追いかけてみてくれ」
彼女の指先が、メトロノームのように左右に揺れる。それを追うラルフの虹彩が滑らかに動くのを確認すると、ヴィヴィアンは溜まった熱を吐き出すような、深い安堵の吐息を漏らした。
「……完全に光を失ったわけではなさそうだな。だが、呆れたものだ。部位欠損を無理やり治癒するほどの大魔法など、無茶にも程がある!」
かつての同級生へ向けられた言葉は、鋭い叱責でありながら、その銀色の瞳には隠しきれない不安と悲しみが細波のように揺れていた。
この事態を、店で働く孤児たちに見せるわけにはいかない。心優しき子供たちに、一切の懸念など抱かせまいとする大人たちの沈黙の配慮が、店内をいっそう静謐にさせていた。
「だから、本当に大丈夫だって。そのうち、ひょっこり治るかもしれないしね」
ラルフの声には、不自然なほどの楽観が混じっていた。
自らの代償を軽んじるその態度が、火種となった。
「ラルフ様! そんな、そんなことがあってたまるかっ! 俺のために、俺なんかの為に、あんたが……!」
静寂を切り裂いたのは、バウワーの悲痛な叫びだった。禿頭の巨漢が、子供のように顔をくしゃくしゃにして絶叫する。
失われた自らの目を再生させるために、この新たな主が支払ったあまりに重すぎる対価。その事実が、鉄の枷のように彼の心を締め付けていた。
「うるせーって。なんとかなるから、そう騒ぐなよ」
心底、心外だと言わんばかりにラルフが突き放すが、バウワーの激情は止まらない。
「頼む! 元に戻してくれ! 俺の目を抉り出して、ラルフ様にお返しする! 頼む、頼むよぉ、頼むから!!」
「無理だよ。魔法は万能の奇跡じゃないんだ」
縋り付くバウワーを、ラルフは淡々と、しかし決定的な拒絶を含んだ呟きで制した。そして、重苦しい空気を振り払うように声を張り上げる。
「さあ、湿っぽいのはおしまいだ! 僕も飲むぞ。アンナ、ビールをくれ!」
カウンターの隅、頬杖をつきながら事の成り行きを眺めていたエリカが、ビールジョッキに黄金の液体を注ぐアンナへ視線を投げた。
「ねぇ、本当に治す手段はないのかしら? 例えば、ラルフより優れた治癒魔導士が、どこかにいたりしない?」
アンナは慎重に、泡の層を三割に保ちながら答える。
「私は、旦那様を超える魔導士を他に存じません。……ただ、唯一、可能性があるとすれば……」
「誰よ? 出し惜しみしないで教えなさいな」
「先代の奥様――ジャニス・ドーソン様です」
「それって、……ラルフの母親、ってこと?」
アンナは満足げに樽の栓をキュッと締めると、静かに頷いた。
「はい。この王国で唯一『魔女』の称号を冠したあの方ならば、あるいは。……もっとも、先代様と共に気ままな放浪の旅に出られて久しく、今どこで何をされているのかは、風の噂すら届きませんが」
「こんな時に何してんのよ、その魔女様は!」
エリカの毒づきは、見知らぬ「魔女」への苛立ちというより、現状の行き止まりに対するもどかしさの表れだった。
客席では、相変わらずバウワーがラルフに縋り付こうと、熱苦しい抱擁を試みていた。
しかし、その執拗さにラルフの堪忍袋の緒がついに弾ける。
「やかましい! 抱きつくな! あーもう、……いっちゃうぞ、バカヤロー!!」
ラルフの全身に魔力が爆発的に駆け巡る。《身体強化》を纏った彼の手が、バウワーの巨体を軽々と逆さまに吊り上げた。かつて異世界のリングを沸かせたレジェンドレスラーの魂が、今、ここに降臨する。
「おおぉぉ!!」
観客たちのどよめきを背に、空を裂くような鮮烈なブレーンバスターが炸裂した。
「グハッ!!!」
ドガシャン! という轟音と共にテーブルが粉砕され、バウワーが沈む。
――何故か、プロレスにも詳しい、ラルフだった。
避難の速さだけは一流の客たちは、酒や皿を手に取って鮮やかに着地していた。
「はい、旦那様」
「んぐ、んぐ……。ぷはぁ!」
差し出された冷えたビールを一気に呷り、ラルフは爽快な吐息を漏らす。一仕事を終え、目を回して横たわるバウワーを見下ろしながら飲む一杯は、やはり格別だった。
そんな喧騒の最中、コツコツ、コツコツと、窓を叩く規則的な音をアンナが聞きつけた。
「あら?」
不審に思い窓を開けた刹那、夜の冷気と共に、奇怪な叫びが飛び込んできた。
「伝令! 伝令!! 同志ヨランダ・カームに、緊急の伝令!!」
その異様さに、客達も窓辺に引き寄せられ、口々に呟く。
「えっ、何それ? フクロウ? ミミズク……?」
「はぁ? それが喋ってるのか?」
「コレって、魔獣、なのかな?」
窓辺に止まっていたのは、知性を感じさせる鋭い眼光を放つ巨大な鳥だった。
すると、
「えっ?! うっわっ、ヤバっ! どうしよう、見つかっちゃった……」
メイド服のまま皿洗いをしていたヨランダが、濡れた手を拭きながら血相を変えて駆け寄る。
「おい、ヨランダ。こいつはお前の知り合いか? 明らかに、お前の名前を呼んでたよな?」
問い詰めるラルフの横で、魔獣生態学者としてのヴィヴィアンが鋭く観察眼を光らせた。
「これは《傀儡弄声》……。遠隔から獣を操り、声を媒介させる高度な術式だ。術者は別にいる」
すると、事態を静観していたスズが、どこか遠い目をしてポツリと呟いた。
「……R.B.ブッコローじゃないの?」
「いや、そのネタは、ここでは通じないからな」
まさか、横浜にある本屋さんから、あのキャラクターが飛んで来るなど、あるまいに……。
ラルフのツッコミを無視し、ミミズクは無機質な声を響かせ続ける。
「同志ヨランダ・カームへ、新たなフェーズへの移行を命ずる。ターゲットを切り替え、ロートシュタイン領主ラルフ・ドーソンを捕捉せよ。潜伏に専念し、別命あるまで定時報告は不要。――なお、任務中の不測の事態に対し、当局は一切関知しない」
「……なあ、これって僕らが聞いていい内容なのか?」
共和国の最高機密が、酒場のど真ん中で垂れ流される。ヨランダは母国のあまりの杜撰さと、自身の正体が明るみに出た気まずさに、顔を林檎のように赤らめていた。
「では、任務の成功を祈る……」
職務を終えたミミズクが、闇夜に向かい羽ばたこうとした、その瞬間。
「喋るミミズクちゃんだなんて! 素敵じゃない!」
ガシッ! と、逃げ場のない速度でその脚を掴んだのは、満面の笑みを浮かべたクレア王妃だった。
「なんだお前! 放せっ! おい、やめろっ!!」
翼をバタつかせ、必死に抗うミミズク。しかし、モフモフした存在を愛でることに関しては、王国の至宝たる彼女に勝てる者はいない。
「クレア様、そいつは共和国の暗部の"使い"ですよ。国際問題になりますって」
「あら? でも『当局は関知しない』って言ってたじゃない。なら、この子も同じではなくて?」
「え、えぇぇ……」
そのあまりにも完璧な論理に(?)、ラルフは二の句が継げなかった。
「や、やめろー! 助けてくれー!!」
絶叫は虚しく響き、ミミズクは王妃の不可抗力的な力によって店内へと引きずり込まれた。
バタン、と窓が閉ざされる。
領主館の庭には、何事もなかったかのように、ただ冷たい夜風が吹き抜けていくだけだった。




