334.正義なき義憤
「いらっしゃいませー!」
「"ファウスティン公爵のオススメセット"、お待たせしました!」
今宵も、居酒屋領主館には、弾けるような活気が満ちていた。店員として働く孤児たちが、元気いっぱいな声でオーダーを捌き、店内を所狭しと駆けまわっている。
「へぇ……これ、最高に美味いな! 甘いものと黒ビールが、こんなに合うなんて」
「この『カスタードクリーム』とかいう代物、重厚な甘みがたまらない。それを黒ビールの芳醇な苦みが鮮やかに洗い流してくれる。このマリアージュ、……悪魔的だ」
隣領の主、ファウスティン・ド・ノアレイン公爵の名を冠した「エクレアと黒ビールのセット」は、またたく間に客たちの心を掴んでいた。
甘味と酒という未知の邂逅は、新鮮な驚きと歓声をもって受け入れられ、厨房のオーブンからは常に甘く香ばしい、幸福な香りが漂っている。
店主のラルフ・ドーソン公爵は、忙しなく野菜を刻みながら、額に滲んだ汗を拭った。ふと視線をやり、焼き上がったエクレアのトレーを運ぶ少女に労いの声をかける。
「すまんな、ヘンリエッタ。執筆で忙しい身だろうに、手伝わせてしまって」
「いいえ! お気になさらず。私、今、最高に楽しいですから!」
ヘンリエッタは、陽だまりのような満面の笑みを返した。
自身が生み出した未知のスイーツが称賛を浴びている悦び。
そして、物語の中の英雄――ファウスティンとの「コラボメニュー」の一翼を担っているという充実感が、彼女の瞳をキラキラと輝かせていた。
だが、その幸福な喧騒は、暴力的な音によって切り裂かれた。
カランカランッ!
と、ドアベルが悲鳴を上げる。
踏み込んできたのは、威圧的な気配を纏った集団だった。
その中心に立つ男が、侮蔑を隠そうともせずに唇を歪める。
「ほう……。ここがラルフ・ドーソンの酒場か。思ったとおり、……薄汚い掃き溜めだな」
浅黒い肌に、夜の闇を練り込んだようなカールの長い黒髪。
その姿を認めた瞬間、ラルフの胸中に重苦しい溜息が漏れた。
(うわ……面倒な男が来てしまった。確かに、いつでも来いとは言ったが、まさか今夜とは……)
男の名は、コール・ディッキンソン。
かつて王都魔導学園で机を並べた同級生であり、先の共和国との大戦においては"刃を交えた宿敵"でもある。
その不遜な物言いに、店内の空気は瞬時に凍りついた。
そして、コールの背後に控える取り巻きたちは、騎士とも冒険者とも違う、血の臭いを色濃く漂わせる野蛮な戦士の風貌をしていた。
緊迫する空気の中、純粋無垢な従業員の一人、獣人のハルが屈託のない笑みで歩み寄る。
「いらっしゃいませ! 何名様ですか?」
しかし、答えの代わりに飛んできたのは、粗野な暴力だった。
「うるせぇ! 気安く近づくな、この獣人風情が!」
眼帯をした大男が、ハルの小さな肩を乱暴に突き飛ばした。
「きゃっ!」
無防備に放り出されたハルは床に尻餅をつき、何が起きたのか理解できぬまま、潤んだ瞳で呆然とする。
その瞬間、ラルフは本能的に悟った。
マズい。……これは、絶対にマズい!!!
「よせっ! なんてことを……っ!」
ラルフが上げた叫びは、ハルの安否を案じたもの"だけ"ではない。
それは、「常連達」の逆鱗に触れたことへの、恐怖に似た警告だった。
刹那、ハルを突き飛ばした男の耳朶を打ったのは、空気を鋭く引き裂く「ヒュン」という風切り音。
「へっ……?」
男が呆けた声を上げた時には、すでに命運は決していた。
男の首元には、冷徹な刃が添えられている。それを握るのは、優雅な微笑を湛えた、
一人の貴婦人。
しかし、その全身からは、聖魔法の加護と、身を焦がすほどの憤怒がオーラとなって立ち昇っていた。
「どこのどなたか存じませんが……。貴方、今、自分が何をしたのか、理解できていらして?」
それは、クレア王妃であった。
男の頬を、冷たい汗が伝う。
そして、
「あぁ、でも。理解するための頭は、今すぐ胴体とお別れしますものね! 是非、地獄でじっくりと懺悔なさることですわ……」
誰の目にも留まらぬ、神速の剣閃と、寸止め。
王家に伝わる聖剣『タイコンデロガ』の刃は、肉を断つ寸前で男の喉元に食い込んでいる。
彼女の一挙動ひとつで、男の命は露と消える。まさに生殺与奪の権を握った、慈悲なき女神の如き姿だった。
「ちょ、ちょっと待て! な、何だお前は? たかが獣人の給仕如きで……」
別の取り巻きが震える声で放った言葉が、さらに油を注ぐ。
「……はぁ? お前、今、何と言ったぁぁ? "たかがお前如き"が、何と言ったか。もう一度お聞かせ願いたいわねぇぇぇぇぇぇ!!!」
それは、狂気――ギロリと射抜くような王妃の視線。
戦場を幾度も潜り抜けた猛者ですら経験したことのない、圧倒的な殺気が、男たちを貫く。
無類の「モフモフ好き」であるクレア王妃にとって、愛らしいハルへの差別的発言は、万死に値する大罪に他ならなかった。
だが、不幸はそれだけでは終わらない。
この店に集う客たちの正体を、彼らは知らなさすぎた。
荒くれ者の冒険者。
王都騎士団の精鋭。
高貴なる貴族。
そして、列強諸国の有力者たち。
居酒屋領主館には、この王国で最も「武力」と「権力」が濃縮された魔窟なのだ。
そして何より、彼らは全員、ハルの純真さに癒やされてきた面々だったのである。
その結果……。
「よし! いつもなら穏便に済ませるのが俺の役割なんだが……。すまん、無理だ!!」
と、大剣を手に立ち上がる、冒険者ギルマスのヒューズ。
まさにそれが開戦の号砲かの如く、
「よ、よ、よ……、よくもハルたんをぉぉぉぉぉ! ……こ、こ、こ、殺せぇぇぇぇぇ!!」
「おう! こいつら全員、レッドフォードさんに食わせちまえ!」
「楽に死ねると思うんじゃねーぞっ!!!」
店内にいた全冒険者達が、一気呵成に吠える。
「騎士団、全員抜剣!」
と、ミラ・カーライルが凛冽な声を上げる。
「皮肉なものだな。女神様への愛よりも、個人的な義憤の方が、よほど魔力が昂るとは。……これより、救済なき聖魔法を行使する。あの愚かな差別主義者共を掃討するぞ! 聖教魔導士諸君、私に続けぇ!!」
と。オルティ・イル。
「私の火魔法にかかれば、あんたらみたいな生ゴミも、可燃ゴミになるのよねぇ〜。サラちゃん、お願い。また力を貸してね……」
と。炎の精霊を腕に乗せたパトリツィア・スーノ。
「弱いモノいじめは、私が……この私が、絶対に許さない!」
と、スズが拳を握り、無数のビット兵器を周囲に展開する。
「いるんだよなぁ、時々。……悪魔よりも救いようのない、憐れな人間が……」
と、ファウスティンが冷笑を浮かべ、立ち上がる。
怒号と殺気が荒れ狂い、店内は一瞬にして修羅場へと変貌した。
乱闘などという生易しいものではない。それは一方的な私刑だった。
「な、な、なんだぁ?! やろうってのかぁ? お前ら、どうなっても、ブゴォォォォォォ!」
「ちょ、ま、待て、こんなの、聞いてねぇ! ブベラッ!!!」
「な、なんだ?! なんなんだコイツら!! ヘブっ!!!」
彼らは、"何者"に喧嘩を売ってしまったのか理解できぬまま、極めて順調に無力化されていく。
さらに、ラルフが止める間もなく、常連客たちは怒涛の勢いでコール一行を外へと引きずり出し、文字通り「ボコボコ」に叩きのめした。
「……ちょ、ちょっと待て! 待てって!! 何もそこまでしなくていいだろ?!」
ラルフが慌てて店外へ飛び出すと、そこには見るも無惨な光景が広がっていた。
身ぐるみを剥がされ、下着姿で転がされる男たち。
その眼前には、真っ赤な鱗を持つ巨躯のワイバーン、レッドフォードが、涎を垂らしながら「グッグッグッ」と喉を鳴らして、凶悪に笑っている。
あれほど不遜な態度だったコール・ディッキンソンですら、もはや最後の審判を待つ罪人のように、ガチガチと歯を鳴らして震えていた。
あまりの惨状に、ラルフの心に奇妙な同情が芽生える。
かつての因縁も、この凄惨な公開処刑を前にしては霞んでしまった。
「……はぁ。いくらなんでも。明らかにこれは、やり過ぎだろ……」
ラルフは深い罪悪感に苛まれながら、死の間際に立たされた彼らを、渋々ながらも領主館で介抱することに決めたのだった。




