332.夜の公爵は食べ方を知らない?
ロートシュタインの目抜き通り、その地下に広がる大空間、地下街。
行き交う人々の頭上を、不揃いな羽音を立てて横切る影があった。
紫色の、蝙蝠を思わせる翼。二頭身の、まるで愛くるしいぬいぐるみのような姿――。
それは、かつて人に化けて教皇の座を奪い、聖教国をその手中に収めて支配したサキュバスの成れの果てであった。
先の「聖女解放運動」において、王国の公爵ラルフ・ドーソン率いる革命派に敗れ、魔力の全てを失った彼女は、女神の慈悲という名の"赦し"によって、この矮小な姿へと変えられてしまったのだ。
パタパタと懸命に翼をはためかせ、彼女が降り立ったのは中央エントランス広場。
そこには「シャロン様」と人々が拝む、一体のガーゴイル像が鎮座していた。
「あれっ? シャロン様の隣に、なんかいるんだけど……」
「ん? ああ、あれか! あれは『黒の公爵』、ファウスティン公の使い魔さ!」
観光客が上げる奇異の声に、地元の住人が得意げに応じる。
その通り。
今の彼女は、王国最強の退魔師・ファウスティン公爵に仕える――否、厳重な監視下に置かれた身なのだ。
存在を滅せられず、永き封印に処されもしなかっただけ幸せなのだと自分に言い聞かせるが、かつての支配者としての矜持が、胸の奥で謎の焦燥となって湧き上がるのを禁じ得ない。
サキュバスは、魔のモノとしての本能で、この石像の中に自分と同質の存在が潜んでいることを察知していた。
(もしもーし、そこに誰かいるわよねー?)
魔のモノ同士にしか伝わらぬ念話で問いかける。すると、石像に封じられた何者かが、不機嫌そうに声を返した。
(……うるせぇ、邪魔するな小悪魔如きが。今、俺様は、あのパン屋の倅の淡き恋を叶えるため、障壁となる継母をいかにして洗脳の呪いに掛けてやろうかという、崇高なる思慮の真っ最中なのだ……)
と、取り付く島もない。
気配から察するに、この像に封印されているのは地獄の深淵で数千年を過ごしたであろう、自分より遥かに高位の悪魔。それほどの存在が、人間一人の恋路を助けるために心血を注いでいるという酔狂さに、サキュバスは驚きを隠せなかった。
(悪魔にも、色々いるんだな~……)
世界の広さを知った心地であった。しかし、人の情や恋慕を糧とするその特性は、自分と似ているのかもしれない。いつかゆっくり語らってみたい、そんな風に思っていると――。
「おーい! サキュぅ! どこだぁ? 勝手に飛び回るなって言ったよな~。滅するぞ、コラァー!!」
現主である、あの恐ろしい退魔師の苛立つ声が響き渡った。
「ヤバっ! じゃーねー、シャロン様ぁ!!」
慌てふためき、サキュバスは飛び立つ。
その背中に、シャロンと呼ばれた悪魔が憐れみの呟きを漏らした。
(ふんっ。オメェも、厄介な連中に関わっちまったようだなぁ……)
その声は、広大な地下空洞を満たす人々のざわめきに吸い込まれ、誰にも届くことなく消えていった。
✢
夕刻。場所を変え、ここは活気溢れる居酒屋領主館。
カウンターの中で、エプロン姿の少女・ヘンリエッタが感動の声を上げていた。
「う、う、うわぁぁぁぁぁ~! あ、あのぅ~、ファウスティン・ド・ノアレイン公爵様ですよね! す、すみません、私、大ファンです! その、サイン下さい!!!」
彼女が捧げ持つのは、ロートシュタイン出版の同僚・ヨハンが執筆した『夜の公爵は悪魔を憐れむ』の第一巻。物語の英雄を前に、ヘンリエッタの顔は真っ赤に上気している。
「んん~? ふむ……。まあ、いいぜ!」
快く応じるファウスティン。
「ふわぁぁぁぁぁぁ!!!」
サインを返されたヘンリエッタの胸は、ニヒルな笑みを浮かべる公爵の姿にドクリと脈打つ。
その光景を、ラルフとエリカが冷ややかで、尚且つ心底面白そうな目で、成り行きを見つめていた。
「なに、あの子。オッサン趣味なの?」
「いや~、でもファウストさん、イケメンだしぃ。無理もないのはわかるけど~」
「というか、犯罪じゃない? 歳の差、いくつよ?」
「ウ~ン? 確か十五歳差くらいだった気が……」
「あれ? それなら、なんかアリなのかしら?」
この二人も、巷では"恋仲"を噂される間柄であるが、それを棚に上げた、あまりに下世話な囁き。
それが耳に入ったファウスティンは、額に青筋を浮かべ、ついに我慢の限界を超えた。
「うるせぇぞ! テメェらぁぁぁ!!!」
投げつけられた焼き鳥の串を間一髪で避け、ラルフとエリカはそそくさと厨房の奥へ退散する。
気を取り直したヘンリエッタが、キラキラと目を輝かせて自信作を差し出した。
「あ、あのぅ! これ、私の自信作なんです! カスタードクリームを使ったスイーツ、『シュークリーム』です! 是非、ファウスティン様にも食べて頂きたいのですが!!!」
この度、ラルフからもたらされた、未知の食材を用いた、ヘンリエッタ渾身の、今宵の最高傑作。
しかし、ファウスティンの反応は予想外のものだった。
「うっ? あ、……し、シュークリームか……。そうか……。その、なんだ……。ああ、ウチのメイド達にも食べさせてやりたいなぁ! なんて……だからその、包んで貰うことは、できるか?」
何故か、しどろもどろな言葉。
ヘンリエッタは目を見開き、無表情で固まった。
彼女は、憧れの人である、ファウスティンの感情の機微を、察してしまった。残酷なほどに……。
その瞳の奥で、確かな絶望が揺らぐ。
(ファウスティン様は……、スイーツが、嫌いなんだ……)
それは、スイーツの伝道師としての自己否定に他ならなかった。彼女の両目から、ハラリと涙がこぼれ落ちる。
「あーあー!! ちょっとぉ! ファウストさん、ひどいっ! ヘンリエッタの気持ち、考えられないんですか!?」
「そうよ! 女の子泣かせたのよ! 責任取りなさいよ!!」
盛り上がるラルフたちの野次に、ファウスティンは慌てふためく。
「す、すまない……。甘い物が嫌いなわけではないんだ……。嘘ではない、決して……」
「いえ……すみません、本当に……。私も、無理を言ってしまって……ウウゥ……」
「あいや、謝るな! 泣くなぁ! 本当に違うんだぁ!!!」
パニックに陥る公爵。
すると、ラルフとエリカは、
「あ~あ〜! 泣〜かせた〜! 泣~かせた〜!」
「ワガママは男の罪って言うわよぉ! それを許せないのが……」
その時、厨房から無表情なメイド・アンナが現れ、
スパコーン!
スパコーン!!
巨大なハリセンによる鮮やかな二連撃がラルフとエリカに振り下ろされた。
あまりにも、"おふざけ"が度を超えた、二人へのお仕置きという一仕事を終え、何事も無かったかのように、無表情でツカツカと去っていった。
やがて、目を回しながら起き上がったラルフが、ようやく根本的な解決を試みる。
「で? ファウストさん。甘い物が嫌いじゃないなら、何なんすか?」
「あ、ああ……本当に、そういうわけではないんだが……」
まだ奥歯に物の挟まったような言い方の公爵に、ラルフがさらに促す。
「なんか、煮え切らないっすねぇ。ヘンリエッタの為にも、正直に言って下さいよ〜」
ファウスティンは暫く沈黙し、意を決したように真実を白状した。
「そ、それがだなぁ……。俺ぁ、その……シュークリームが、上手く、食べられないんだ……」
そんな、あまりにも予想外な言葉に、
全員がポカーンと目を白黒させた。
「はぁ? 上手く食べられないって? どゆこと??」
「むぅ……、わからんか?! そうだろうなぁ! お前らには、わからんだろうなぁ! アレ、どうやって食うのが正解なんだ!? 口とか手とか、クリームが溢れてベチャベチャになるんだよ! そんなみっともない姿、いい歳した男が、見せられるか?!!!」
ついに本音を吐き出したファウスティン。
ラルフは唇を噛み締め、必死に笑いを堪えたが、その結果、顔面が凄まじく歪んでしまった。
それを見たファウスティンは、
「なんだその顔はぁ?! バカにしてるだろ?! だから言いたくなかったんだー!!!」
ナイスミドルな公爵の、あまりに小さなプライドと不器用な叫びが、この夜に虚しく響き渡るのだった。




