323.愛しき皮肉の歴史
「アーニャ、ピーナッツ好き〜」
静寂を切り裂き、居酒屋領主館の店内にその声は響いた。
現れたのは、またしても何かのキャラクターに扮したスズだ。淡いピンク色の髪を揺らし、虚空を見つめて佇むその姿に、カウンターの中からラルフ・ドーソンの鋭い怒号が飛ぶ。
「おい! 誰かそいつにモザイクかけろ!!」
それは、何者かに対する緊急指令のような叫びだった。
店内の客たちは、一瞬だけ視線を向けたものの、(ああ、またいつものことか……)と、呆れと諦めが混ざった溜息と共に、再び手元の酒杯へと意識を戻す。
だが、ラルフだけは理解していた。その台詞から察するに、彼女のコスプレは、仮初めまみれの日常を送るスパイ一家の、あのテレパス能力を持つ幼女だ。
そして、今宵この店で提供されている無料サービスの"お通し"がピーナッツであること。その文脈の繋がりを深く理解できてしまったが故に、彼はただただ呆れ果てた。
ラルフはカウンターを飛び出すと、スズの頭からピンク色のカツラを引ったくるようにして脱がした。
「ねぇ、カキピー作れないの?」
カツラの下から現れた黒髪のスズが、真っ直ぐにラルフを見上げる。
それは二人の前世において、新潟県が世界に発信する至高の米菓。醤油の香ばしさと唐辛子の刺激、そしてピーナッツの脂質が織りなす黄金比の結晶だ。
「まためんどくせーことを……。まあ、餅はあるから、作れないことはないのか?」
ラルフは腕を組み、記憶の棚を浚う。だが、あの完成された工業製品のクオリティを再現する自信は、今の彼にはない。
「ちょっと実験してみたいから、今日の所はバタピーで勘弁してくれ」
そう提案すると、スズは意外にも大人しくカウンター席に収まった。
早速、メイドのアンナがスズの前に水と温かいおしぼりを置く。するとスズは、無表情な彼女を指差して断言した。
「母!」
鉄壁の無表情で知られるアンナですら、その意図不明な呼びかけには戸惑いの色を隠せず、頭上にいくつもの疑問符を浮かべている。
(いや、わかるけど……。雰囲気は、それっぽいけどさぁ)
ラルフは心の中で鋭いツッコミを入れる。アンナは断じて殺し屋でも暗殺者でもないはずだ。……多分。……おそらく。多分……。
不意に湧き上がった一抹の不安を、ラルフは力強く振り払った。
彼は中断していた調理を再開する。
冒険者ギルドから卸された新鮮な森の野草やハーブ。そして豆腐職人のゴブリン、ブンタ特製の木綿豆腐。まな板の上で、ピーナッツを慎重に、細長く刻んでいく。
「リネアさん。お待たせしました! 領主館特製、ピーナッツソースのサラダです!」
差し出されたのは、リネア・デューゼンバーグ伯爵夫人のための特製サラダだ。それは、ラルフの前世、インドネシアの"ガドガドサラダ"に着想を得た一品。
近頃、お腹の贅肉を気にする彼女は、頻繁に野菜を注文するようになっていた。
彼女は気づいているのだ。メニューにはないが、領主ラルフの頭の中には、目も眩むほどバリエーション豊かなサラダのレシピが眠っていることに。シーザー、ポテト、コブサラダ。
カロリーという罪悪感から解放してくれるその未知の料理は、リネアに欲望の解放と安寧をもたらしていた。そして、今宵のサラダを一口。
「あら! これも、美味しい!!」
リネアは感動に目を見開く。
豆腐の柔らかな食感が満足感を底上げし、葉野菜の隙間から時折カリッと顔を覗かせるピーナッツの食感が小気味良い。甘味と香ばしさ、そして僅かな酸味を湛えたドレッシングが全体を完璧に纏め上げている。
これこそが、美食の伝道者、天才料理人ラルフの真骨頂であった。
(全然、もう一皿くらい食べられそうですわねぇ)
リネアの頭を過ぎる甘い誘惑。だが、彼女は知らない。
美味いサラダほど、ドレッシングやクルトン、ナッツ、チーズといったトッピングによって、案外、脂質と糖質に満ちているという事実を。
「知らぬが仏」という言葉に従い、ラルフは沈黙を守ることにした。
ふとテーブル席に目をやれば。
「ポリポリポリポリ……。あれ? バタピー、もうなくなっちゃった……」
お通しを啄んでいた聖女トーヴァが、キョトンと呟く。
「ちょっとぉ! お姉ちゃん! お姉ちゃんがバカみたいに食べるから、私全然食べてないんだけど!!」
妹のマルシャが抗議の声を上げた。
「ええええぇ?! マルシャが食べたんじゃなーい?! だって、あっという間に消えたわよ!」
「お姉ちゃんがげっ歯類みたいに、ムシャムシャムシャムシャ食べてたけど!!」
「ハァ? そんなこと、してないしー!!」
いつものように騒がしくも、どこか平和な姉妹喧嘩。
ラルフは深い溜息と共に、心からの叫びを飲み込んだ。
(やっぱり、お前ら豆好きだなぁ!!!!)
聖教国で豆食を食べ飽きたと公言している彼女たちだが、なんやかんやでこの街でも豆を食っているイメージがある。
案外、慣れ親しんだ故郷の味への回帰願望が、心の奥底にはあるのかもしれない。そう分析すると、ラルフの呆れも少しだけ緩和されるのだった。
そしてラルフもまた、スズと同じく「カキピー」への渇望を抱き始めていた。
あの味をどう再現するか――。
醤油、砂糖、味醂、唐辛子。それだけであの「正解」に辿り着けるのか。
ラルフの脳裏に、かつて学んだ米菓の歴史が去来する。
それは大正12年(1923年)、新潟県長岡市での出来事だ。「浪花屋製菓」の創業者、今井與三郎。彼が煎餅を売っていたある日のこと、当時非常に高価だった「餅をくり抜くための小判型の金型」を、妻がうっかり踏んづけて歪ませてしまった。
今井は激怒し、妻を厳しく叱責したという。だが、買い替える余裕もなく、仕方がなくその歪んだ三日月型の金型を使い続けた。するとある日、客がその奇妙な形を見てこう言ったのだ。
「この形は、柿の種に似ているなぁ……」
まさに、愛しき皮肉に満ちた偶然の産物。
そして時は流れ、昭和30年代。柿の種は運命の伴侶、ピーナッツと出会う。
一説には、日本屈指の格式を誇る帝国ホテルのバーで、ナッツと共におつまみとして出されたのが始まりとも言われ、また一説には亀田製菓がその黄金比を開発したとも伝えられている。
ピーナッツの持つ芳醇な油分が、おせんべいの醤油の塩気、そして唐辛子の刺激と絶妙にマッチし、国民的なヒット商品へと昇華したのだ。
(歴史を辿るなら、まずは金型から作るべきか……?)
先人たちの歩みを異世界で再現しようとするラルフ。その瞳には、美食の伝道者としての不敵な光が宿る。
だが、その瞬間だった。
「カレー煎餅を砕いたのと、バタピー混ぜると、美味しいわよ!」
カウンター席の国王に、エリカが小皿を差し出した。
「おいぃぃぃぃぃぃ!!! エリカぁぁぁぁぁ!! ちょっと、エリカぁぁぁぁぁ!!!!」
壮大な米菓の歴史を一足飛びに飛び越え、安価で最強の「ジャンクな解」を提示した奴隷少女の所業に、ラルフの絶叫が店内に木霊した。




