322.SEED
雷鳴が天を衝き、滝を思わせる豪雨がロートシュタイン領の全土を塗り潰した。
冬の最中にあるまじき、ねっとりと肌にまとわりつくような温い雨。それは、夏の積乱雲が放つ突発的な夕立ちを彷彿とさせた。
海沿いに位置するこの地では、東大陸から吹き込む偏西風気流の気まぐれな乱れによって、こうした気象の狂いもしばしば訪れる。
その夜、人々は門戸を閉ざして灯火の下に身を寄せ、普段なら喧騒に包まれる目抜き通りも、ただ冷たい石畳を叩く雨音だけが支配する静寂の支配下に置かれていた。
そうして、劇的な一夜が明ける。
領主ラルフ・ドーソンは、領主館の重厚な扉を押し開けると、眩い陽光に向かって天を仰ぎ、思い切り背伸びをした。
「いやぁ……快晴、快晴!」
庭園の濡れた芝生は、まるで砕いた宝石を鏤めたかのように輝き、朝日を乱反射させている。
昨日まで街を白く閉ざしていた雪は、一夜の豪雨によって跡形もなく融け去り、泥混じりの濁流となってどこかへ流れ去ったようだった。
隣に控えていたメイドのアンナが、呆れたような、それでいてどこか安堵したような溜息を漏らす。
「こんなことなら、無理に街道の除雪作業を冒険者たちに依頼せずとも良かったかもしれませんね」
「なーに……。あれも一種の公共事業さ。それで稼げた奴らがいるなら、万々歳じゃないか」
ラルフは軽やかに言い放つ。
その言葉の真意を、アンナも理解はしていた。富を停滞させず、再分配という触媒を用いて経済の歯車を回す。その循環こそが王国という巨躯を支え、民の営みを安定させるのだ。
(とはいえ……。金をばら撒いたところで、彼らはその金を、『居酒屋領主館』で使い果たし……つまり、ここに戻ってきてしまうのですが?)
アンナは喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
この領地の経済原理は、どうにも領主館と領民との間で行われる「超近距離のキャッチボール」だけで完結しており、複雑な学術的理論を嘲笑うかのような単純さで回っている。
まあ、それもこの地らしいと、彼女は口を噤んだ。
その時、背後の扉から気だるげな声が響いた。
「おはようございます……」
「あー、晴れましたねぇ。よかったよかった。ふぁぁぁぁぁぁ……あー!」
現れたのは、聖女の肩書きを持つ二人、トーヴァ・レイヨンとマルシャ・ヴァールだった。
マルシャなどは、口を大きく開き、奥歯まで見えるほどの大欠伸だ。
昨夜、居酒屋領主館で酌み交わしている最中に豪雨に見舞われ、下宿先へ帰るのを断念した彼女たちは、飲みに飲み、酔い潰れ、客席でそのまま泥のように眠りこけていたのだ。
聖女という高潔な響きとは程遠い、だらしない寝癖と眠そうな眼差し。
そんな緩みきった空気を切り裂いたのは、目抜き通りの向こうから響いてきた重低音だった。
魔導エンジンが唸りを上げ、巨大な車体が石畳を軋ませながら近づいてくる。
「おや? あれは――"ファット・ローダー"だな! どうやらレグが帰ってきたらしい!」
ラルフの顔が、期待にパッと輝いた。
――数分後。
居酒屋領主館のテーブル席で、厚切りの全粒粉パンに載ったハムエッグをムシャムシャと豪快に頬張る少年がいた。
「へぇ。じゃあ、年末年始は聖教国で過ごしたのか?」
ラルフはカフェオレの湯気の向こうから、対面に座るレグに問いかけた。
「モグモグ……ゴックン! はい! 大雪で身動きが取れなくなっちゃって。大教会に転がり込んで、お世話になってました」
朗らかに笑うレグは、まだ十代半ばの幼さが残る少年だが、その実体は大型輸送用魔導車を駆る超一流のドライバーだ。天賦の才としか言いようのない繊細な感覚で、彼はその巨大な鉄の獣を御している。
「聖光祭? だったか。それにも参加したのか?」
「もちろんです! 司祭様が神話を語ってくれたり、タダで飲み物や食べ物が振る舞われたりして、賑やかでしたよ!」
旅の思い出を輝かしく語るレグ。だが、隣のテーブルで"ハムエッグ定食"を啄んでいた聖女たちは、その言葉に過剰な反応を見せた。
「ずずず……。ぷはぁ! やっぱり、ロートシュタインの味噌汁が五臓六腑に沁みるわぁ……。って、ちょっとレグ君? それって聖教国の"聖餐"のことでしょ? どうせいつもの地豆スープじゃない。あー、もう思い出したくもない」
トーヴァは、清貧を美徳とする聖教国で育った過去を、嫌悪感とともに振り返る。この領地の美食という「猛毒」に、彼女はすっかり侵されていた。
「そうそう。あの地豆スープね……。不味くはないけど、なんだかモッサリして、とにかく飽きるのよね」
マルシャも同意し、ヒジキと大豆の煮付けに箸を伸ばす。
(お前ら、豆が嫌いな癖に、ここの豆はモリモリ食うんだなぁ……)
ラルフは内心で鋭いツッコミを入れたが、言葉には出さなかった。
「えっ? 豆のスープ? あ、まぁそれもありましたけど、ヤキソバとかピザとか、色々ありましたよ?」
レグが不思議そうに首を傾げる。
「……は?」
「えっ!?」
聖女二人の箸が、同時に止まった。
「え? ええ、だって……。ハンバーガーとかホットドッグとかもあったし、オムライスのおにぎりなんて絶品だったんですよ? 全部無料ですよ、無料!」
戸惑いながら語るレグに対し、二人の聖女は信じ難いものを見る目で固まっている。トーヴァに至っては、半開きになった口から味噌汁が零れていた。
そのやり取りを傍観していたラルフは、直感した。
どうやらあの「聖女解放運動」という名の革命以降、聖教国は本格的な開国へと舵を切ったらしい。貿易を盛んにし、食文化の革新を驚異的なスピードで推し進めているのだ。
それを知らないのは、帰国を拒んでこの領地に引きこもっている、この聖女たちだけなのだろう。
そんな裏事情など露知らず、レグは溌剌とした声を上げた。
「その地豆、いっぱい積んできたんですよ! ラルフ様、居酒屋のメニューに使えませんか?」
期待に満ちた少年の眼差し。だが、聖女たちは冷ややかだった。
「無理無理。地豆なんて、砕いて練ってスープにするしかないわよ」
「そうよ。殻を剥くのも面倒だし、なんか独特の苦味があるし……」
ラルフには、その「地豆」とやらが、何なのかはわからなかった。だが、彼女たちにそれほど不評だという事実は、逆に彼の好奇心を刺激した。
「それ、どんな豆なんだ?」
「僕は結構好きなんですけどね。これですよ、これ!」
レグがポケットから取り出したのは、乾燥した、独特のくびれを持つ奇妙な殻だった。長距離運転の合間に、指先で殻を割って楽しむ、オヤツにしていたのだろう。
それを見た瞬間、ラルフの視界が歪んだ。
反射的にレグの細い腕を掴んでしまう。
「ちょ、ちょっと待て! これ……これって……!」
「わっ、領主様!? 痛いです、痛いですって!」
「あ……す、すまない。……いや、だが……お前たち。これが好きじゃない、と、本気でそう言ったのか?」
レグに謝りながら、ラルフは戦慄にも似た感情で聖女たちを問い詰めた。
前世の記憶が、彼の脳内で激しく警鐘を鳴らしていた。これを愛さない人間が、この世に存在するはずがないと。
「えぇー? だって、あんまり味がしないですし。もう一生分食べましたもん!」
トーヴァが頬を膨らませて不満を漏らす。
信じられない言葉だった。
だが同時に、彼はこの異世界でその「再会」を果たせたことに、静かな、しかし熱烈な感動を覚えていた。
まさか、この世界にも、存在していたとは……。
その豆とは、
落花生――。
転生者であるラルフにとって。それは、ロートシュタイン領の、いや、この世界の「酒のつまみ」の歴史を塗り替える、革命の種子だった。




