318.欲望の対価
「では、奥様。失礼いたしますわよ……」
「お願い……」
マリアンヌ・ホテルの一室は、今、極度の緊張感に包まれていた。悲壮なまでの覚悟を瞳に宿したリネア・デューゼンバーグ伯爵夫人が、お付きの老練なメイドと向かい合う。
リネアは意を決して頷いた。メイドはドレスの背に手を回し、力を込める。
「はいっ! 今です!」
「ふんっ!」
次の瞬間、張り詰めた布が「ビリッ!」という、悲鳴にも似た音を立てた。それは、微かな破れの音であり、リネアのプライドが崩壊する音でもあった。
メイドは気まずげに視線を逸らし、小声で囁く。
「奥様、……やはり、少々お肉が……」
「いやぁぁぁぁあ! 言わないでぇ!!」
凄まじい剣幕でメイドの言葉を遮ったリネアの顔は、羞恥と絶望に歪んでいた。薄々は気づいていた、いや、むしろ確信していたのだ。だが、絶対に認めたくなかった、この残酷な真実を。
滞在するこのロートシュタイン領は、別名「美食の街」として名高い。中でも、公爵ラルフ・ドーソンが営む居酒屋領主館は、食欲という名の原罪へと誘う、まさに魔窟である。
クレア王妃や聖女たちとの毎夜の賑やかな宴。
酒が進めば、それに比例してつまみも進む。最近のお気に入りは、ファウスティン公爵直伝の甘いツクネ串焼き。夜食のお持ち帰りには、ボリューム満点のスパムサンドイッチが欠かせない。そして何より、飲みの後の「シメ」に食べる背徳的なラーメンの味を覚えてしまった今、贅肉が付くのは、もはや物理法則に近い摂理だった。
リネアは両手で顔を覆い、流れ出る涙に、人生最大の絶望を感じていた。
その時、ノックもせず、カチャリとドアを開けて入室してきた人物がいた。リネアの愛娘、エリカである。
「どうしたの? お母様。まるで、お腹のお肉が邪魔でドレスが着られなくなっちゃったような、そんなお顔をなさってますよ?」
悪気のない、あまりに的確な言葉に、リネアはついに我慢の限界を迎える。
「的確過ぎるほど的確よー! こんちくしょう!!」
地団駄を踏みながら、彼女は叫んだ。
「そんなことより……。もう少しで街道が開通するみたいですよ。ラルフが冒険者ギルドに除雪作業の依頼を出したって」
「そんなことって?! 由々しき問題よ! 現時点に於ける、最重要課題に他ならないのよ!」
貴族夫人として、いや、それ以前に一人の女性として。美意識というものは、いかなる政務よりも尊い「命題」なのだと、リネアは熱弁する。
しかし、ふと、リネアは娘の姿をじっくりと見つめた。エリカは年齢の割に背は低いが、驚くほど引き締まっている。
「エリカも結構食べているわよね? カレーライスなんて、三杯くらいおかわりしているのに。なんで太らないの?」
リネアが素朴な疑問をぶつけると、エリカは平然と答えた。
「三杯なんてもんじゃないわよ。いつもは、五杯と、小盛りを一杯くらいじゃない? ……なんでかって聞かれても……。動いているからじゃ、ないかしらね?」
リネアはハッとした。あまりにも単純で、痛烈な真実。娘のエリカは、ロートシュタインで働いているのだ。給仕として、カレーのスペシャリストとして。そして、空いた時間には屋台でカレーパンを売るという、恐ろしいほどのバイタリティを見せている。加えて、代謝の早い育ち盛り。
労働――。
その晩、夕闇が迫る居酒屋領主館の戸口に、リネアは立っていた。
「私を、ここで働かせて下さい!!」
その、伯爵夫人にあるまじき、型破りな宣言に、ラルフは心底呆れた表情を浮かべた。
「なに、なに? 今度はなんなんです?! あのねぇ、リネアさん。貴女、伯爵夫人ですよねぇ……。なんで急に居酒屋でバイトしたいなんて話になるんです?!」
理解の範疇を超えた事態に、ラルフは戸惑うしかない。隣にいるエリカも、(困ったことになったわねぇ……)と言わんばかりの極細の目で、明後日の方向を眺めている。
それでもリネアは、食い下がって繰り返す。
「ここで働かせて下さい!」
ラルフは頭の中で、前世で見た、神々が集う湯屋に迷い込んだ少女のアニメ映画の一場面を重ねていた。
見かねたエリカが、ラルフを脇に呼び寄せる。
「ラルフ。ちょっと耳貸しなさい」
「んん?」
ラルフが身体を屈め、エリカの口元に耳を近づけると、
「実は、カクカクシカジカで……」
彼女は母親の悲劇的な状況を簡潔に説明した。
「なるほど。それは、マルマルウシウシだなぁ……」
ラルフは完璧に理解した。
まあ、人手が増えるのは好ましい。それにこの居酒屋は、公爵であるラルフ自身が経営し、第八王子フレデリックがチャーハン職人として立つ、常識外の特殊な場所だ。伯爵夫人が給仕をしたところで、特に問題はないのだ。
そして、開店時間を迎えた居酒屋は、いつもの喧騒に満たされる。
「ガーハッハッハ!」
ドワーフたちの盛大な笑い声。
「いやぁ~、パトリツィアの姉御、今日は本当に助かったぜー!」
「ふんっ! 私とサラちゃんがいれば、除雪作業など楽勝楽勝!」
と、パトリツィア・スーノが、得意げに肩に乗った炎の精霊を撫でる。
どうやら、火魔法で街道に積もる雪を融かして回ったらしい。
街道の除雪を終えた冒険者たちで、店内は活気に溢れていた。
「では、リネアさんは。給仕をお願いします。まずは、ドリンクと料理を、テーブルに間違わずに運ぶ。それをお願いしたいです」
ラルフの説明を受け、リネアは緊張した面持ちで、ホールの隅に立っていた。
不慣れなメイド服に身を包み、彼女は今、人生で初めての労働を体験しようとしていた。
「では、リネア様。ビールの大ジョッキ六つ。八番テーブルにお願いします!」
メイド長のアンナから、早速の指示が飛ぶ。
「あっ、あれ? これは、トレーに載せればいいのかしら?」
余りに大きな、並々とビールが満たされたジョッキが六つ。それを一度に運ぶ勝手がわからず、リネアは戸惑う。
「お母様! こうよ! こう!!」
エリカが手本を見せる。彼女は、片手にジョッキの取手をまとめて握りしめ、両手で五つものジョッキを難なく運んでいく。
リネアも早速真似てみるが――
(お、重いっ!!!)
それは、予想を遥かに越える重量だった。毎晩、客として眺めていたエリカや孤児たち、メイドたちの給仕姿は、朗らかで楽しげに遊んでいるように見えていた。彼ら彼女らが、まさかこれほどの重労働をこなしていたとは、思いもしなかった。
リネアは、なんとかジョッキをしっかりと握り、震える手でどうにか、ドワーフの職人たちのテーブルまで運びきった。
「お待たせしました!」
慎重にジョッキをテーブルに置くと、ドワーフの一人が目を丸くした。
「ん? おや、お前さん、確か……デューゼンバーグ殿の嫁さんじゃなかったか?」
気づかれてしまった。リネアは、用意していた建前を、すかさず言い放つ。
「は、はいっ! 私も、ドーソン公爵やフレデリック殿下を見習って。貴族でありながら、労働の尊さを学んでみようと思いまして!」
嘘と情熱は、女の切り札。彼女もまた、紛れもない貴族なのだ。
「ふむ……。このような志を持つ貴族様がいるから、この王国は居心地が良いのだ! どれ、チップを貰ってはくれんか?」
なぜか感銘を受けてしまったドワーフの大工の親方が、銅貨を差し出す。
「儂もだ」
「儂もだ。受け取ってくれ!」
渡された銅貨を眺め、リネアは戸惑う。
(こ、これは……。ど、どうしたら?)
「リネアさん! スパムチャーハン大盛り、女騎士さんに運んで下さい!」
フレデリック殿下からの指示が飛び、リネアは慌ててそっと銅貨をポケットに仕舞う。
「は、はいっ! すぐに!」
カウンターへ急ぐ。給仕の仕事の大変さは、リネアの想像を遥かに超えていた。客が増えれば、店内はパニックと化す。
「リネアさん! それ違う! 海苔増しほうれん草増しは、クランクさん。……で、味濃いめの脂多めはファウスティン公爵だから!」
料理の取り違えが増え、その度に注意を受ける。
「はっ、はいっ! ごめんなさい!」
肉体的疲労だけでなく、それぞれの常連客の「お好み」という、ぱっと見ではわからないほどの差異を覚える頭脳労働でもあることを、リネアは思い知った。
そんなパニックの最中。
「リネア様。二番テーブルに、白ワインとフルーツの盛り合わせをお願いします」
アンナの指示を受け、クタクタになりながらオーダーを運ぶと、リネアは息を切らして言った。
「お待たせしました。白ワインと……」
「おや? リネア殿。どうして……。いや、なかなかに、似合っているではないかぁ?」
面白そうに微笑むその人物は――クレア王妃だった。
「あっ、あ……。く、クレア、様……」
気がつけば、そのテーブルは、リネアも所属する貴族夫人たちの集いになっていた。他の貴婦人たちも、まるで珍しい見世物でも見ているかのように、面白そうにリネアを見て微笑む。
「金にでも困っておるのか?」
クレア王妃が不思議そうに尋ねる。
「い、いえ。その……。私も、労働の尊さを学んでみたいなぁ、と……」
用意していた建前を絞り出すと、クレア王妃は優雅に笑い、核心を突いた。
「ふ~ん……。もしかしたら、ダイエットの為だと邪推してしまったが。そんなわけあるはずないな!」
優雅な笑い声が広がる。リネアは、驚愕と羞恥で顔を真っ赤に染めた。エリカといい、クレア王妃といい、なぜこれほどまでに勘が鋭いのか、謎すぎる。
しかし、リネアは気づいていなかった。
このロートシュタインに集う貴婦人方も、似たような悩みを抱えていることを。クレア王妃の周囲のご婦人方は、内心、こう思っていたのだ。
(そうかぁ! その手があったか!!)
彼女たちは、リネアの姿を通して、「労働の尊さ」、すなわち「消費したカロリーに見合う対価」という真理に思い至っていたのだ。
数時間の嵐のような給仕仕事をこなした後。
「リネア様ぁ! 休憩です! "まかない"あるんで、食べて下さーい!」
ラルフから声がかかる。
もはや、心ここにあらず、といった様子でフラフラと、厨房の中のテーブルに腰掛けるリネア。
ラルフがドンッ! と、丼を目の前に置いた。
「もしよかったら、スパム丼の試作です。感想を聞きたいですね。なんなら、おかわりもできますよ!」
リネアは呆然と、その料理を見下ろす。
こんがり焦げ目がついたスパムに、鮮やかな茹でほうれん草、とろける半熟の目玉焼き。そこから立ち昇るのは、香ばしいバターと、白飯の豊潤な香り。そして、乳白色の描線は、間違いなくマヨネーズだ。
これは、明らかにカロリーの塊。
リネアにとって、それは、食欲という名の魔物に他ならない。
しかし、この過酷な労働に勤しんだリネアの胃袋は、極めて正直だった。
グゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!
盛大な腹の虫の鳴き声が、静かな厨房に響き渡った。
リネアは、自らの脳内にある「理性」が、もっと奥深いところに存在する「根源的欲求」により、完全に押し負けたのを自覚した。
「い、……いただきます!」
そうして、涙をダラダラと流しながら、丼をかき込む。
その涙は、悔しさか、未知の美味に対する感涙か、あるいは、ようやく解き放たれた肉体の喜びか――もはや、彼女自身にも判別はつかなかった。




