317.マーサとフィセ
日が早い冬の、性急な夜の帳が、ロートシュタイン領の中心に位置する居酒屋領主館へと静かに降りかかった。白亜の石造りの重厚な館の一階は、今宵もまた熱気と喧騒で満ちている。
剣を掲げる冒険者たち、身分を誇る貴族、さらには国や種族の垣根をも超えた酔客たちの活気が、琥珀色の酒とオーク材の古めかしい香りと共に溢れていた。
「カンパーイ!!!」
歓声が轟き、グラスとジョッキが激しく打ち鳴らされる。
「美味いっ! え、これまた一つの革命じゃねーのか?!」
「ドーソン公爵! 是非ともこの瓶詰めスパムを我が領にも卸していただきたい!」
人々が熱を込めて語るのは、他ならぬこの店の主、ラルフ・ドーソンが新たに発明したという、保存に適した加工食肉、その名も『スパム』の話題だった。その驚くべき美味と、秘めたる経済的ポテンシャルについて、誰もが夢中になっていた。
店内の一角、赤々と燃える暖炉の前。パチパチと薪が爆ぜる音だけが、周囲の喧騒から隔絶されたように響く。
「お前たち、もう大丈夫か?」
ラルフ・ドーソンは、深い心配の色を瞳に湛え、三人のリザードマンの戦士に問いかけた。
「ふぇ〜。あったかい……」
「王国の冬、寒い……」
「死ぬかと思った……」
彼らは、本日、野営地にて仮死状態で発見されたばかりだった。
(そういえば、あの三人、最近見ないな)
と、ふと思い立ったラルフが、雪に埋もれた彼らを見つけた時、一瞬、最悪の事態を覚悟した。
しかし、ヴィヴィアンによれば、変温動物であるリザードマンは、極端な低温下では一種の冬眠状態に入るのだという。
三人は今、分厚いブランケットにくるまれ、暖炉の前に体育座りのように身を寄せ、湯気の立つオーク肉の豚汁をゆっくりと啜っている。
その姿は、まるで孵化したばかりの雛鳥のようで、獰猛な戦士の面影は微塵もなかった。
その時、新たな来客を告げるドアベルの澄んだ音色が、店内の騒音を切り裂いた。
「いらっしゃ〜い」
ラルフはカウンター越しに、いつものように間延びした声を戸口へと向けた。そこに立つのは、またもや久しい来訪者だった。
「あ〜、あったか〜い。相変わらず、賑やかですねぇ」
黒革のライダースジャケットに身を包み、首元を厚手のマフラーで厳重に固めた、妙に様になっている女性。
「あれ? マーサさん! 久しぶりじゃん!」
ラルフは目を見開いた。
「お久しぶりです! 早速ですが、ビールをいただけますか!!」
マーサは朗らかに、そしてどこか解放されたような笑顔で注文を告げる。
彼女の生業は、魔導二輪車を駆使する緊急配送便の配達人。しかし、この度、街道の積雪のため配送がままならなくなり、ここロートシュタイン領のジョン・ポール商会で、愛車:スクラバーのバージョンアップと調整のため、しばらく滞在することになったのだという。
「あ! あれっ?! マーサ! マーサじゃん! 久しぶり!!」
店内の奥、海の冒険者クラン"シャーク・ハンターズ"のテーブル席から、一人の女性が目を輝かせ、人込みを掻き分けて駆け寄ってきた。フィセだ。
「フィセ!! 久しぶり〜! 元気してたぁ?!」
二人は互いに抱き合い、喜びの声を上げながらじゃれ合いはじめる。
マーサとフィセ。
彼女たちは、少し前まで王都の商業ギルドで机を並べた同僚だった。図らずも、ラルフ・ドーソンと、このロートシュタインという辺境の地に深く関わってしまったがゆえに、その人生を大きく転換させた二人だった。
フィセは、クランの面々に事情を説明し、今宵は一晩中語り明かす覚悟を決め、マーサと並んでカウンター席に腰を下ろした。
「そんじゃあ! カンパーイ!」
「カンパーイ!!!」
琥珀色の液体が満たされたグラスが高く掲げられ、かつての同僚二人の、気の置けない飲み会が静かに、そして熱狂的に始まった。
「ハッハッハッハ! えー?! ウソー?! そんな、船よりも大きな獲物を仕留めたの?!!」
フィセは腹を抱えて大笑いする。
「マジでマジで! 共和国の議員が高値で買い取ってくれて、すっごい儲かったんだから!」
「ん? うーん? あれ? ……その買い取り金額の……借用書、運んだの、私かも……」
マーサはビールを一口飲み、しみじみと呟いた。
「えええー? そうなの?」
「それって、参事会議員の、ティボーさんじゃない? デューゼンバーグ伯爵の邸宅に、書類を運んだけど……」
個人情報の漏洩とも取れる、際どい話題である。だが、人生の機微を知る二人にとって、この酒の席ではなんの問題にもならなかった。むしろ、立場も、生きる場所も大きく離れてしまった二人が、こうして不可視の経済原理の仕組みの中で、いまだに何らかの繋がりを持ち続けているという、運命めいた面白さが、さらに酒を美味しくさせた。
涙目になりながら相手の肩を叩くフィセと、腹の底から大笑いするマーサ。
二人はただただ、この再会が楽しくて仕方がない。
しばらくすると、カウンターの向こう側から、ラルフが声をかけてきた。
「よ! お前たち、今夜のサービスメニューだ。スパム料理、食うか?」
「あっ! 食べる! えー? なんにしよう? おにぎり? サンドイッチ? ピーマンとスパムのチュウカフウ炒め? ……ウ〜ン……。全部美味しそうで選べない! マーサは何が食べたい?」
フィセは顔をメニューに近づけ、深刻そうに悩む。
「私は、あの……アメリカンドッグっていうのが、気になるんだけど……」
マーサの視線は、近くの席でまだ幼さの残る冒険者の男の子が頬張っている、見慣れない串刺しの料理に釘付けになっていた。
「っていうか、アメリカン? それ、どういう意味なの?」
「ドッグっていうのも、なんなんだろうね? まさか、犬の肉を使ってるわけじゃないだろうし……」
二人は純粋な好奇心から、揃って首を傾げた。
ラルフは、その表情が一瞬で固まる。
(うっわ……、面倒くさいことに、気づかれてしまった……!)
カウンターの中で、たった一人、異世界の言語と文化を説明する責務を負いそうな気配に、ラルフはただ戦々恐々とするしかなかった。
その夜の帳と、ラルフにとっての面倒事は、まだまだ長く続きそうだった。




