第一話 プロローグ
新作です。よろしくお願いします。
―――もう、いいのかもしれない。
ゆっくりと身体を崩し、地面に横たわりながら彼女は思う。全てが限界で、窮屈で、悲哀に満ちたこの現状に吐き気がした。汗と埃が染み込んだ穢らしい衣服を纏い、ボロボロに朽ち果てたその姿もここでは当たり前の常識。人通りの少ない路地とはいえ、彼女に目を向ける者はいなかった。
死とは、一体何なのか。死ねば救われるのか。それは明日が希望でなく絶望で、自身の運命が逃れられない必然であると理解した者が一度は考える話だろう。
―――私にとっての救いは……現状の改善。こんなところで一生身を粉にするなら、ここで諦めるのも妥当かもしれない。
死に救いがあるなら、既に大勢の人間が実行しているはず。頭の中では彼女もそれくらいの知識は蓄えている。
けれども弱りきった性根と腐敗した現状に濁り浴びることすら叶わない精神が、彼女を楽な道筋に連れ去ろうとする。
このまま倒れ込んでいれば、疲労の溜まった身体で身動きが取りづらくなり、二日間口にしていない胃から吐く栄養すらないまま、息を引き取るだろう。
―――来世は、もっと幸せな人生を……、
そう思い、微かに開いていた瞼を閉じた瞬間、
ドーン‼︎
「―ッ⁉︎」
耳が張り裂けそうな爆発音。
突如として地面に激震が走り、僅かに潜んでいた群衆が連鎖的に悲鳴を上げる。横たわったまま顔だけ起こした彼女は、響き渡る大音響と建造物や仮設ハウスの崩れる音に恐怖を覚え、固く目を閉じた。
逃げ惑う人の絶叫と粉砕音が一体を支配し、土塊が舞って思わず咳き込んでしまう。
音が段々と遠ざかっていくのを体感しながら再び目を開くと、見覚えのある、しかしここに来てからは見なくなったものを遠目で捉えた。
「…エネミー」
あの日、自分から全てを奪った元凶。心情的には恐怖より憎悪の方が強かった。
羽が四つ生えた巨大な犬のような外見で、全身からドス黒い異臭を放ちながら、集団で人々の居住地を薙ぎ倒す害悪は、本来ならこの場所には出現しないはずだった。
気色悪いその生物は、何気ない日常を送る生活に突然現れ、人々を蝕んでいく。
人間を捕食する恐ろしい性質について解明はされていないが、奴らのせいで人類は生活圏を減らしたと言っても過言ではない。
安全地区とはいえ、この場所に攻めてきたのも奴らの勢力が強くなったからだろう。こんな前例は過去一度しか存在しなかった。
―――予想を超えてくる。そう、いつだって奴らは人間の邪魔をするから。
彼女は逃げることを選択しない。それはまだ中学生程度の年齢で、逃げる体力が残っていないからではない。
既に手遅れ。過去まともな装備なしに生き残った人間は存在しないというれっきとした事実に基づくもの。
―――どうせ、終わった人生。どうなろうと知ったことじゃない。
全長は十五メートルほどだろうか。羽は紫色の血管が張り巡らされ、全ての管は総じて身体の中心に嵌った赤黒い石に収束されている。水晶のような黒い2つの目の中で絶え間なく眼球が移動しており、身の丈にあってない牙は口から収まらずに常備してあった。
奴らの溢れ出る卑劣な闘争心は、同胞と人を殺した人数で競い合う。紫色の炎を吹き荒らし、触れた者は一瞬のうちに、身体が爛れ、焼かれる。人だけでなく、建物や車でさえ同様だ。奴らが通った場所に生き残りが居ないのもそういった背景があるのだろう。
思考を巡らす彼女に、辺りを見回していたうちの一匹が気づいた。
「ギュギャー!」
気色の悪い金切り声を上げたエネミーは、彼女の前に瞬時に移動する。
威嚇のつもりだろうか。獲物を見つけたことに嬉しそうに雄叫びを行うエネミー。先ほどまで人間の体内にあった、血の混じった涎が顔面に飛び散り、威圧と風圧が彼女の身体を弄ぶ。
―――ここで終わり、か。
ゆっくりと口を開くエネミーを前に身をすくめる。
その刹那、
シュン!
一瞬の風切り音と共に、エネミーの口内から出ていた生暖かい風が消える。恐る恐る目を開けると、エネミーの風体が崩れ、紫色の血液が流れ出ていた。
「死んでる…なんで」
「私がやったからだよ」
溌剌とした声。
音の方角に顔を向けると、先刻まで動いていたエネミーの死体の上で、同い年ぐらいの少女が立っている。透き通った白髪のショートヘア。見たことのない近未来的服装に少女の風貌はよく似合い、左手には盾、右手には刀が握られていた。
お礼を口にした方が良いのだろうか。戸惑う彼女を前にひらりと、おとぎ話に出てくるのような振る舞いで、彼女のすぐそばに降り立つ。
そして、少女は尋ねた。
「ねえ、名前聞いてもいいかな」
どこか聞き覚えのある文言。瞳は下を見つめ、悲しみに暮れているような気がした。初対面のはずなのに、記憶の片隅で何かを主張する不思議な気持ち。
「……おばな、尾花実璃」
「そう、じゃあみのりんだね」
小さく口ずさむ少女。寂しそうに笑う顔がこれ以上見たくなくて、咄嗟に彼女は聞き返した。
「ねえ、あなたの名前は?」
「私? 私は、………むとう。夢冬奏って言うんだよ。…………って、みのりん!」
―――ああ、なんか急に眠い。
疲労の溜まった身体がついに頭に訴えかけ、少しずつ彼女の景色が闇色に染まっていく。起き上がることはできそうになかった。
―――もう少し、話していたかったのに。
遠い場所で、誰かが泣いている気がしたが……よく聞き取れないまま…、それを最後に彼女は意識を手放した。




