3.ふたりのリサたちと旦那様
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彼が仕事でいない、雪混じりの雨降るひとりの時間のことだった。二人なら気がまぎれるし、アルルハイド様もそのつもりでひとりにしないでくれてるんだと思うけど、そしてそれは本当にありがたいことなんだけど、いつだってそうとは限らない。二人でいるのに慣れかけているひとりは、余計に時間を持て余してしまう感じがする。
そんな私に声を掛けてくれたのは、私の世話をしてくれることが多い年の近いライラというメイドさんだった。
「リスワール様、ご自分のお部屋には行かれましたか?」
「私の部屋?」
「はい。アルルハイド様からは、リスワール様に何かあってはならないからご自分の部屋のそばに移した、と聞いております。でもずっとこちらの部屋においでのようなので、もしかして覚えてらっしゃらないのではないか、と」
「うーんそうね、どこかは分からないみたい」
私が別人だと(主張していると)いうことはさすがに私とアルルハイド様しか知らない。でも私にリサ——これは奥さんのほうだけど、わかりにくいので今更ながらこれからはリスワールさんとこれから呼ぶことにしよう——の記憶がないのは遅かれ早かれ知れるだろうということで、周囲には若奥様は倒れたショックで記憶がない、ということになっているのだ。当初こそ戸惑っていたメイデル卿や周囲の使用人たちも、半月もすれば慣れつつあるようだった。
「よろしければ、ご案内致しましょうか?」
「お願いし、……いえ、お願いするわ」
私は、大きくも小さくもない街で生まれ育った、庶民代表、クイーン・オブ・庶民だ。世話なんてされるような身分じゃなかったから、未だに本物のリスワールさんの生活は慣れない。言葉づかいもあんまりたどたどしいので、アルルハイド様と二人きりの時以外はあまり話さなくなった。周りには、ふさぎ込んでいると思われたらしく話しかけられることも少ないので、都合はよかったけれど。
とはいえ、私の中身、というか性格が変わってしまったことにはみんな気付いているわけで。
ライラの「もしかしたら」という心は透けて見えていた。もしかしたら、自分の部屋や物を見れば、自分の主人が元に戻るのではないか、と。
といっても、今の私には元々ない記憶なんだから、戻るとは思えない。それでも私は、リスワールさんの部屋に行くことにした。あくまで希望的観測だけど、こうなった手掛かりくらいは見つかればいいな、と思って。
*
ライラに案内されたリスワールさんの部屋は、晴れていたなら日差しが降り注いだだろう、窓の大きな部屋だった。窓から見える庭は、今日は雪まじりの雨に濡れているけれど、花の季節が来ればきっと絵画のようになるんだろう。
華美ではないけれど、艶のある大きな文机と、本棚、シンプルなベッド。これまでもリスワールさんの服や小物を見ていて思ったことだけど、物のクオリティーこそ違うものの、私と趣味は似ている気がする。さすがはもう一人のリサ、なんて。
だけどそうであれば、もしかしたら。
ふと思いついた私は、ライラにお茶の用意を頼んで、ひとりになった。さて、早速本棚の裏を探ってみる。
「……うそ。あった?」
赤い表紙の手帳。恐る恐る開いてみたそれは予想通り、リスワールさんの日記だった。私の元の世界の小さな部屋でも、本棚の後ろがそれの定位置だったけれど、まさか彼女もなんて。
こういうことはままあった。ちょっとした考え方とか、仕草とかが、同じようなのだ。そのたびにアルルハイド様が呼びかける「リサ」という声音と、その後のはっとしたような表情で、私はなんとなく気付いてしまった。ううーん、察しがよすぎるのも考え物、なーんて、ね。
もちろん、人の日記を覗き見るなんて、お行儀がいいものではないのは知っている。だけど今は少しでも手がかりが欲しいもん、そんなこと言ってる場合じゃないよね?
私は自分を納得させると、ぱらぱらめくった挙句、最後に記されたページを開いた。
*
彼が優しい。
そのたびに私はどこにいるのか、分からなくなってしまう。
彼が欲しいのは、愛しているのは、リスワール=メイデルなのだと思う。
そして、ただのリサのことは妹のようにしか想っていないのだと。嫌でもわかってしまう。
彼のたったひとりが私であることを幸運に思ってる。だけど同時に、ただのリサとして想ってほしいと望んでしまう。
彼が好きだ。愛してる。
彼の心まで欲しい。もしそうでないのなら、私は――
*
走り書きのような手荒さで唐突に途切れたそれを見て、私は動悸がしてきた。
リスワールさんが本当に『彼』を--アルルハイド様を想っていたことが、切羽詰まったようなそれからガツンと伝わってきて、まともにぶつけられたその衝撃をどう受け流したらいいのか分からない。
「だけど、どうして、」
思わず言葉が漏れ出た。だって、私がリサとして目覚める前から、仲睦まじい夫婦だったはずなのだ。リスワールさんは彼の妹なんかではなく妻で、ここにはもちろん一夫多妻なんてなくて、あなたのことだけを慈しんでいたのが私にも分かるくらいなのに。それだけで十分じゃないのか。
贅沢なことを、と思った私は、すとんと、腑に落ちた。あぁ。
なんだ、私と一緒だ。
今は私が、表面だけとはいえ彼と番うたったひとり。大事にされているのは感じる。好意もある程度は。だけどそれ以上が欲しいのだ。私も彼女も。
アルルハイド様がくれる愛や好意は、今も疑う余地もないくらい大きなものだ。だからもっとなんて望めなくて、でも本当は欲しくて。
会ったこともない彼女は、やっぱり他人には思えない。ふとした時に気付く彼女は、いつも私のそばにいる。
雨に濡れた窓に映った自分が、涙を流すもう一人のリサに見えた。
*
その日、私は調理場に立っていた。後ろには、異変に気が付いて駆け付けたアルルハイド様。彼が着いてすぐに息をのんだのも分かるように、目の前にあるのは悲惨な光景だった。
「リサ。これは一体どうした--いや。こんなことも、あるよね」
どうしたもこうしたも、自分でもまさかこんなことになるとは思っていなかった。ただ少し時間を持て余して、それならアルルハイド様とお茶するのに、お菓子を作ろうと思い立っただけだったんだから。しかも作り慣れたパイだし、これでも料理の腕だけは褒められることが多いのだ。あ、これ自慢ですえっへん。
今日はちょっと考え事をしていたのは認めるけれど、まさかまさか。慌ててオーブンから取り出したものの、出てきたのはもくもく煙をたてる黒い物体。それに床には白い粉が飛び散っている……アルルハイド様のフォローの言葉(と書いて優しさと読む)が刺さる。
きっと元のリサは、こんなに粗雑ではないと言われているんだろう。残念ながら、今回ばかりは自覚は少し、すこーしだけある。
「ご、ごめんなさい。いつもはこんな風にはならないんですけど!」
「いや。まぁ、失敗することは誰にでもあるからね」
「そ、そんな。信じてくれてないんですね……」
振り返った私の泣きそうな顔を見て、アルルハイド様は驚いたような顔をしたかと思うと、ふふっと笑った。……笑っただと?!
「ひどい!そんなに私の泣き顔が面白いんですか!」
「まさか。そうじゃないよ」
「だって、だって今!」
「違うよ、これは思い出し笑いみたいなものさ」
思わぬ言葉に勢いがそがれた私の隣をすり抜けて、彼はキッチンの中でも比較的被害の少ないカウンターに、肘をついた。
「まるで昔に戻ったみたいだって思って。一緒に遊んでいた頃のようだとね」
ふふっと上品に笑う横顔が、窓の外の、でも目に見える景色よりももっと遠くを見遣る。そうして彼が、私の知らない時間を語る。
「料理を失敗した時も、転んだ時も、リサは強がったんだ。そして僕が心配したり気を遣っていると分かると、泣きそうになった。励ますつもりが泣かすなんて、今思えば本末転倒もいいところだけど」
私にも似たような経験がある。神童と呼ばれながらも相当はっちゃけた子ども時代、縫うような怪我をしようとも、確かに私も強がってばかりだった。見た目以外も他人とは思えないリスワールさんも同じく、お転婆だったんだなということは想像がつく。
そしてこんな声音を聞いてしまったら、気付かないふりをすることなんてできない。分からないはずがない。そんな彼女を、彼が心からいとしく思っていることを。
「……仲が良かったんですね」
「そうだね。僕たちは小さい頃から、よく一緒にいた。物心着く頃には婚約者と言われていて、そのせいなのか、なんとなくお互いに恋人も作らなかったわけだけれど。交際期間がなく結婚しても、幼馴染ともいえるリサだ。なんの違和感もなかったよ」
語る声は優しい。いつも彼は優しいけれど、今の優しさはきっと、ここにいない彼女に対する優しさなんだ。
……なんだろう。さっきとはまた別の泣きたい気分が、むくむくと。
「……ごめんね」
「ん?何だって?」
「私は何も、知らないから。ごめんなさい」
「リサ」
彼が過去から目を離して、私を見た。記憶の中の誰かじゃなく、今ここにいるリサを。
「大丈夫だよ。君は悪くないし、僕はちゃんと覚えているから」
アルルハイド様が、私に微笑む。
そしてカウンター越しに腕が伸びてくるけれど、それに私が怯えることはない。だってその声だけじゃなく、手だって優しいことを、私は知っている。
「だけど奥さんそのままの君が全部知らないのは悔しいから、その内君の記憶になってしまうくらい、しつこく話すことにするよ」
私の頭をぽふぽふしながらおどけたように話すアルルハイド様が眩しすぎて優しすぎて、私はどうしたらいいかわからなくなってしまった。
リスワールさん、私はあなたが羨ましい。あなたはこんなに、彼に愛されている。 私があなただったら良かったのに、とまた思った。私だったら、この人を前に、思い違いなんてしないのに。
ふと、脳裏を赤い日記帳がちらつく。
リスワールさんは一体、どうなってしまったんだろう。あなたを愛する人はここにいるのに、どうして、どこかへ行ってしまったの。
私じゃきっと駄目なのに。この優しい人を悲しませる、その責任を取るのはあなた以外誰がいるっていうんだ。
「……アルルハイド様。聞きたいことがあります」
「何かな?」
穏やかな笑顔に、くじけそうになる。やっぱりやめようかと迷ってしまう。
でももう、無理だ。これ以上これを、この気持ちを、この溢れるものを、どうしたらいいのか私には分からない。だから。
「どうして、リスワールさんは家出したんですか?」
この質問が無礼なんじゃないかっていうのは、充分分かっている。だって、リスワールさんがいなくなったり私がここにいる原因に一番近くて関係ありそうな話題なのに、今までにわざわざ話したことがなかったんだから。
そして、アルルハイド様も、私に家出の理由は聞かなかった。あえてしたくもない話だったから、訊かれないことにほっとしていたのも確かだけれど。
それでも、このままじゃ駄目だと思ってしまったなら。その時には避けては通れないと、私たちは理解していた。