第六話 見知らぬ顔の女①
第六話
見知らぬ顔の女
* * *
中央行きの手続きがすべて終わる頃には、地上へ出たラグードの街にも朝の光が差し始めていた。
幼獣は保全機構の記録へ正式に登録され、昨夜使ったものより一回り大きな透明な容器へ収められている。前日のように蓋へ体当たりすることはなかった。ただ、青い瞳だけは絶えずアリステラを追っているようで、少し離れるたび、伏せていた頭が持ち上がった。
気まずさを隠さずに、アリステラはその視線を無視し続けた。
保全機構から数日分の栄養食と簡単な医療用品、中央の施設へ渡す記録を受け取り、レオンは輸送書類に星環院の認証を加えた。最後の表示が消えれば、ラグードに残ってすることはもうないだろう。
そうして宿を出て港へ向かう途中、クェンが交差路の手前で足を止めた。
「俺はここまでだな」
気づいたアリステラも足を止める。
クェンは両手をポケットへ突っ込み、すぐ隣に星環院の人間がいることなど忘れたような顔をしていた。
「まあ、向こうへ戻ったら、しばらくは仕事どころじゃないだろうけどさ」
「たぶんね」
「暇になったら連絡しろよ。仕事が必要なら、いつでも探してやる」
アリステラは目を細めた。
「また?」
「ああ、また」
その言葉に、最初に会った頃のことがふと蘇った。
まだクェンの名前すら知らなかった頃。辺境の小さな酒場で酔客同士の揉め事に巻き込まれ、片方が抜いた刃物を取り上げたところ、壁際で酒を飲んでいた男に笑われた。
『そんな腕を余らせてるなら、裏通りの仲介屋へでも行けばいい』
おそらく冗談だったのだと思う。けれどアリステラは、本当にその店へ行った。他にすることがなかったからだ。
あの頃は、どこへ行っても同じだった。
宿が取れた日は寝台で眠った。そうでなければ、貨物区画の隅や閉鎖された駅舎の軒下で夜を明かす。船の待合所で朝まで座っていたこともあれば、人気のない荒野で外套に包まり、そのまま眠ってしまったこともある。
それ以上のことは、あまり考えなかった。
眠れない夜は外へ出た。店の灯りが一つずつ消えていく中を歩き、清掃機が路面へ出始める頃になって、ようやく宿へ戻る。空腹にも鈍くなって、気づけば一日何も食べていないことがあり、腕や脚に見覚えのない傷が増えていても血が止まっていればそのままにした。
知らない街へ着けば、窓の向こうには知らない景色がある。夜空には名前も知らない星が浮かび、それを眺めてもそこに留まろうとは思わない。次に行きたい場所があるわけでもなく、適当に空いた便へ乗った。
アリステラには、何をしていれば一日が終わるのかまるで分からなかった。
裏通りの仲介屋は、古い輸送区画の一角にあった。今にも外れそうなその扉を押して薄暗い店へ入ると、クェンは端末から顔を上げた。そしてアリステラを一瞥しただけで、名前も経歴も訊かずに言った。
『人を追えるか』
最初の仕事は、逃亡犯の居場所を突き止めて連れ戻すだけのものだった。
期限があり、目的がある。そして終われば報酬が出る。翌朝までに移動しなければならないと分かっていれば、その夜は移動船の中で眠ればいい。
次は密輸品の回収だった。そのあとは護衛、失踪船の捜索、盗品の奪還。クェンは一つ終わるたびに、また別の仕事を寄越してきた。
『次、どうする?』
その問いに「何かある?」と返すようになるまで、それほど時間はかからなかった。
クェンは過去を訊かない。
アリステラがそれまでどこで戦い、何をしてきたのかをまったく知らなかったとは思えない。それでも何も訊かなかったし、仕事の外でどう暮らしているのかを知ろうともしない。
提示した報酬をあとから削ったこともなければ、危険が増えれば追加分を出した。アリステラが案件を断れば、「そうか」と端末を閉じ、しばらくすると別の仕事を探してきた。
ただ、クェンから仕事を受けるようになってから、今日が何日なのか分からなくなることは減った。決められた時刻を一つずつ辿るうちに、それまで輪郭のなかった一日に、少しずつ区切りができていった。
「あなた、本当に懲りないのね」
「商売だからな」
クェンは笑った。けれど、その笑みを残したまま、ほんの少しだけ顔を逸らす。
「あんたは何もしないでいるより、仕事してる方がましそうだったし」
アリステラは返事をしなかった。
朝まで街を歩き続ける夜はいつの間にか減った。眠れるようになったわけではない。それでも翌朝に向かう場所があれば、その時間まで身体を横たえておこうと思うようにはなる。
クェンも答えを求めてはいないようで、いつものように片手を上げた。
「じゃあな。また何かあったら」
アリステラはその手を一度見てから、クェンへ顔を戻した。
「また」
口にしてから、自分でもわずかな違和感を覚えた。
これまでなら、クェンに「またな」と言われても、せいぜい頷くくらいだったからだ。
クェンはおかしなものを見るように、片方の眉を上げる。
「……おう」
意外そうな顔をしたのは一瞬で、すぐにいつもの薄い笑いへ戻った。
「またな」
クェンは踵を返し、朝の人通りの中へ紛れていった。
その背中が見えなくなるまで、アリステラはしばらく同じ場所に立っていた。隣にいるレオンも何も言わずに立っている。気を使っているのだろうか。やがてアリステラが宇宙港へ向かって歩き出すと、レオンは半歩ほど遅れてから隣へ並んだ。
しばらく、靴音だけが並んだ。その沈黙が妙に居心地悪くなって、アリステラは先に口を開いた。
「何?」
レオンは前を見たまま言った。
「いいや。思っていたより、親しいんだなと思って」




