ep.06 親鳥と雛鳥
昼休みの中庭は、その日も貸切だった。
今日も上の階の窓から、吹奏楽の音が降っている。
「これ、食う?」
春希は弁当の蓋を裏返して、唐揚げを二つと、卵焼きを一切れ載せた。
それを雪のほうへ差し出す。
「え」
「それじゃ少なすぎるだろ。病み上がりなのに」
雪の膝上には今日もコンビニ袋が置かれていて、鮭おにぎりが一つと、牛乳パック一つが乗っている。
「でも……せっかくお母さんが作ってくれたんだから」
「胃袋に入れば、どっちでも良いんだよ」
雪の睫毛が二度、上下した。
「……じゃあ、いただいてもいい……?」
言うなり、雪は口を開けた。
「ん?」
「お箸、ない」
雪は白い指先で、自分の頬をつつく。
「あ、ああ、そっか……」
春希は蓋を左手に持ち替えた。
雪の口の大きさを見て卵焼きを半分に割る。
箸で挟んで少し迷ってから、雪の口元へ運んだ。
雪の形の良い紅い唇が、差し出された箸先から卵焼きを受け取る。
「……」
春希は箸を持ったまま、無防備な赤ん坊のように丸く白い頬が、ゆっくりと動く様子を見つめた。こくり、と白い喉が嚥下して動く。
「……おいしい」
雪が目を細めて、ふわりと笑った。
「そりゃ……どうも……」
二口目の卵焼きを、再び雪の口へ運ぶ。
春希は不思議な現象を眺める気持ちで、もぐもぐと動く丸い頬を見ていた。
クラスの、他に誰がこうして雪に食事をさせるだろうか。
雪が、それを許すだろうか。
「唐揚げも、食う?」
喉の奥が張りついて、声が掠れた。
「うん。欲しい」
「……ほい」
小さな口の中で懸命に肉を咀嚼する姿を見ているうち、春希は首の裏あたりに粟立ちを覚える。
「唐揚げも、おいしい……っ」
二つの唐揚げを平らげると、雪は目尻を下げて笑った。
丸い頬が持ち上がり、満ち足りた空気が漂う。
そんな雪の笑顔は、初めて見た。
春希は手元の空の弁当蓋へと焦点を逃がした。
「うちのは、生姜が多めなんだと」
春希は指先に微かな痺れを覚え、慌てて視線を膝の上の弁当箱へと落とした。
残りの唐揚げを、自分の口へ放り込む。
「うん。ご飯がすすむね」
まだ唐揚げが残っている口で、雪はおにぎりをかじった。
頭上で、管楽器がまた同じところで音を外していた。
春希が二段の弁当を空にしても、雪はまだおにぎりの残り半分に取り組んでいた。
急かす必要もない。
春希は弁当袋を膝の横に置き、ベンチの背もたれに背中を預け、首を上向かせた。校舎の壁で四角く切り取られた空を、雲が端から端まで横切っていくのに、ずいぶん時間がかかっていた。管楽器は、まだ同じところで外している。
隣で、牛乳のパックにストローが刺さる音がした。
それから、吸い上げる小さな音が、おにぎりを飲み込む時と同じ速度と間隔で、続く。
空の四角が、少しだけ明るくなった。
「あの……」
「ん?」
春希は首を戻した。
ベンチの端に浅く腰掛けたまま、雪が少しだけ腰を浮かせている。
ズボンのポケットに手を突っ込んで、何かを引っ張り出した。
スマートフォンだった。
青い本体に、透明なケース。ストラップも、シールも、何もついていない。
「お。スマホ、持ちはじめたのか」
「ううん」
雪は首を振った。
「前から……持ってた」
「あ〜、なるほど」
嘘をついていた理由は、自ずと察せられる。
「誰にも言わないで……」
雪はスマホの角を、唇に当てた。
「わかった」
春希が頷くと、雪は中腰になって、ベンチの端から距離を詰めてきた。
二の腕同士が触れる。
「――なに」
「昨日、春希が写真フォルダ見せてくれた時に、思ったんだ。僕と似てるかも……って」
雪が画面をこちらへ向けた。
正方形のサムネイルが、びっしりと並んでいる。
電線に止まった鳥。茂みに生えた白いキノコ。マンホール。腐葉土から生えた薄色のキノコ。水田を区切る車道の真ん中にぽつんと立つ自動販売機。木の幹を階段上に覆うキノコ。コンテナに積まれたシイタケ、マイタケ、しめじ。キノコフェアのPOP――
「キノコ率の高さが異常なんだが」
「ふふ」
狙いが当たったようで、雪は嬉しそうに肩を揺らした。
「借りた本がけっこう面白くて……意識して探すようになっちゃった」
「そんなにか」
春希が画面から顔を上げると、
「――うん」
雪も顔を上げた。
お互いの吐息が鼻先を掠める距離。
「……あ」
思わず、春希は雪のスマホへ視線を落とした。
写真フォルダの中にある一枚を、指差す。
春希が貸した文庫本、「毒キノコの世界」の表紙を正面から写したものだ。
「何でわざわざ、こんなん写してんだよ」
気まずさを誤魔化すように、春希は苦笑しながらサムネイルをタップした。
写真が画面に大写しになる。
文庫本の角に、白い指が写り込んでいた。
学校ではないどこか室内、ベージュ色の壁を背景に、片手で文庫本を持って撮影したようだ。
「記念……みたいなもの」
「何の記念だよ」
春希は指先で、スマホを軽く雪の方へ押し戻す。
雪の口元から、苦笑にならない小さな吐息が聞こえた。
視界の端で、雪がスマホを両手で包み込むようにして俯くのが見えた。
落ちた前髪の影になって、春希からは、どんな表情をしているのかが窺えない。
「あー……、えっと」
腹の底あたりで、もぞもぞと微かな痒みのようなものが這い上がってくる。
それを飲み下すように、春希は短く息を吐いた。
「その写真、送ってよ」
え、と隣で雪が顔を上げる気配がした。
「日記に載せてもいい?」
「日記……?」
春希はズボンのポケットから自分のスマホを取り出した。
画面を操作してアプリを開き、雪のほうへ傾ける。
表示されたのは、あるSNSのマイページだ。
灰色のデフォルトアイコンの横に、「hki_days」というアカウント名。
プロフィール欄には「高校生になりました」の一行だけがある。
フォロワー数は二十人程度で、フォロー数のほうがわずかに多い。
その下に並ぶ正方形のサムネイルは、空を映す水たまり、散った桜の花びら、給水塔、夜のコンビニの看板、錆びた自転車のスタンド、プールのチケット――
「これ、俺のアカウント」
「SNS……?」
「全然、数字とかないけど。まあ、日記代わりだからそれで良いんだけどさ」
名前も顔も出していない、匿名のアカウントだ。
「hkiは春希、かな……days……ださ」
「そこはつっこむな。作ったの中二だったからしゃーない」
「ふふ。あ、でもハート、ついてるね」
雪が画面の一点を指した。
公園の片隅に、一本だけ立っている桜の写真の投稿だった。
「反応なんて、月に一回あるかないかだよ」
春希は指で画面を軽く弾いた。
「もしかしたら、同じものを見た近所の人かな、とか想像するのがちょっと面白い……ぐらいで」
「へぇ〜……中学からって、すごいね」
雪の瞳が、磨かれた石のように、画面の光を返していた。
「文字を書く日記だと続かないけどな」
「ここに、僕が撮った写真を載せてくれるの?」
「友達が撮った写真、って書く。変な本を貸した記念ってことで」
「何の記念――いいよ」
雪の整った顔のパーツが、くしゃりと崩れて、愛嬌のある貌になる。
「んじゃ、えっと……メッセージID、交換しとくか」
「うん」
調子外れのメロディが降り注ぐ中、二人はスマホを向け合った。
青いケースと、黒いケース。短い電子音が二つ、続けて鳴った。
4月23日 17:37
友達が撮った写真。本を貸したら、気に入ったらしい。
#友達 #毒キノコの世界
と、キャプションとタグが書かれた投稿に貼られた、「毒キノコの世界」の表紙写真。
投稿から四時間後にはハートマークが二つ、一晩明けたらさらに一つ、増えていた。




