ep.31 いつも通り
雪から告白された翌日。春希は「いつも通り」、楠原駅の改札前にある太いコンクリート柱に背を預けていた。
「春希、おはよう」
雪はいつもの時間に改札を出て、笑顔で春希に駆け寄る。
「おう……おはよ」
雪のローファーが春希の二歩手前でぴたりと止まって、幹線道路の方角へ向く。
「行こ」
「あ、ああ」
春希は柱から背中を離し、歩き出した雪に続いた。
二人で幹線道路沿いの通学路を歩く。いつも通り、隣に並んで。
だけど今日は靴一つ分の距離がある。歩いていても、肘や靴がぶつかることは一度もなかった。
声の温度も、何て事のない雑談も、昨日までと変わらない。それでも、二人の間に吹き抜ける朝の風は、いつもより冷たく感じた。
教室に着くと、春希は自分の通学鞄の中から、母・秋子が持たせてくれた小さめの弁当袋を取り出して雪に渡す。
「今日はのり弁だって」
「ありがとう!」
雪は花が咲いたような笑顔を浮かべ、両手を差し出した。互いの指が少しも触れ合うことなく、巾着袋の紐が春希の手からするりと離れた。
「……」
「楽しみ」
受け取った雪は、袋を抱きしめた。いつもと同じ。
そして予鈴が鳴るまでの時間は、窓辺で並んで一緒に校庭を眺める。窓枠に乗せた腕、いつもなら自然と触れ合っていた肘と肘の間に、今日は拳一つ分の空間が生まれている。
「あ、大きい犬」
雪が窓から少しだけ首を外へ出して言った。いつもなら、もっと春希へ体を寄せて、身を乗り出すように下を覗き込むはずなのに。
「またね」
やがて朝のホームルームを告げる予鈴が鳴り、雪が自分の席へと離れていく。
「ああ……後で」
自席に腰を下ろして、春希はようやく、自分がずっと息を詰めていたことに気がついた。
ブレザーの下、首や脇のあたりを触ってみると、じっとりと汗で湿っている。内臓の底から冷えた汗が滲み出ているようだった。
春希は昨日、ほとんど眠れなかったというのに。
雪の顔色は「いつも通り」で変わらない。
休み時間の過ごし方も、昼休みの弁当の時間も、移動教室も、下校の時間も。
「また明日ね」
別れ際、雪はいつも通り手を振って改札を通り抜ける。
「……」
華奢な背中が見えなくなった後、春希は肺の底から息を吐ききった。
踵を返し、駅から出た。線路の上を跨ぐ陸橋を渡る途中、足を止めて眼下のホームを見下ろした。最前列側へ向かって歩く雪の姿が見える。
定位置に辿り着いた雪はうつむき、手の甲で顔をぬぐった。二度、三度と繰り返す。間もなく、電車の接近を知らせるアナウンスが流れた。雪は最後にブレザーの袖で目元を押さえてから顔を上げ、ホームに滑り込んだ電車に乗り込んだ。
「雪……」
春希はしばらく、空になったホームを見つめていた。
*
翌日も、同じだった。
「これまで通り」というよりも、昨日を判で押したような繰り返しだ。
「これが三学期が終わるまで続いて――その後は……」
窓際で隣に並ぶ雪の姿が消えることを、春希は想像してみる。何も思い浮かばなかった。
小さめの弁当箱をつついて「美味しい」と笑う雪が消えることを、想像してみる。真っ白に霞んで、何も見えなかった。
「嫌、だな……」
雪が消えてしまうことが、嫌だということは、分かる。それが何という名前の感情なのか、分からない。
「また明日ね」
二日目の帰り際も、雪は手を振って、改札の向こうへ遠ざかっていった。昨日、そして今日、もどかしい距離を空けたまま。
雪の姿が見えなくなった後、春希は駅を出て陸橋へ向かった。真ん中でふと足を止めかけたが、すぐに前を向き直って足早に橋を渡り切る。雪が今日もあのホームの端で泣いている姿を、自分は期待しているのだろうか。
泣いていなかったら、安心するのか。それとも、がっかりしてしまうのか。どちらに転んだとしても、自分がひどく気味の悪いものに思えてしまう。電車の到着を告げるアナウンスから逃げて、春希は線路沿いの坂道を駆け下りた。
家路につくまでに通りかかった駅ビルや洋菓子店の店先は、週末に控えたバレンタイン商戦の最後の追い込みで湧き返っていた。ガラス越しに見える明るい色彩の店内には、あちこちに制服姿の女子たちが群がっている。
最近では恋愛ではなく「自分へのプレゼント」や「友チョコ」としてチョコレートを消費する文化もあるらしい。
「チョコなんて、食いたい時に食えばいいのに」
春希はぽつりと呟いた。我ながら、負け惜しみにしか聞こえない。甘い香りと浮ついた空気を払いのけ、春希は小走りで駅前を通り過ぎた。
静かな住宅街に入ってから、春希はスマートフォンを手に取る。SNSのアプリを立ち上げた。2ki_daysのタイムラインは止まったままだ。
数日前の最新投稿には、いつもコメントをくれる常連のアカウントから、
『もうすぐバレンタインですね。うちの学校では盛り上がってます』
と、無害なコメントがひとつ、ついていた。
雪からの告白から、あっという間に二日が過ぎる。三日目の今日は祝日の木曜日だ。
祝日は市民プールが閉まっている。春希は朝から塾のテキストを開いていた。期末試験で奮わなかった英語と国語の穴を埋めるためだ。
明日、二月十二日は金曜日。十四日は日曜日。クラスの女子たちの会話によれば、明日が楠原高校でのバレンタイン本番になるらしい。
「バレンタインか……」
無意識の呟きがこぼれた。雪は明日、いくつチョコレートをもらうことになるのだろうか。そんなことを考えながら、いつのまにか裏返したスマートフォンへ手が伸びていた。SNSのおすすめタイムラインには、雪に関する投稿がずらりと並ぶ。
時期柄か、発売されたばかりのファッション雑誌のバレンタイン特集を直接撮影して、無断転載している投稿も目立った。
『ビスクドールみたい』
『前世でどんな徳積んだらこの顔に生まれるの?』
『表情作るの上手になった感じがする』
ビジュアルを褒めるコメントをスクロールしていくうちに、春希の指先がピタリと止まった。
『二の腕が美味しそう』
『絶妙に柔らかそうなのがイイ。筋肉つけないでほしい』
『顎から首のラインがエロい』
春希は思わず、机の端にスマートフォンを放り投げた。
「きっも……」
首の後ろを、虫が這い回るような不快感が駆け抜ける。みぞおちの奥から、今度はドロドロとした黒い怒りがせり上がった。
同時に春希の脳裏をめぐったのは、自分だけが知る生身の雪。
昼休みに隣でおかずを嚥下する、細い喉の動き。
夏休みの海で、パーカーから伸びる滑らかな曲線を描く白い脚。
川から救いあげた日、抱きしめた時の薄くて柔らかい体の感触。
「俺の方がキモ……っ」
ごつっと鈍い音をたてて、春希はノートの上に突っ伏す。机の冷たい天板に額を押しつけ、下腹部で渦巻きかけた熱を散らすように、長く息を吐き出した。
気色悪いコメントを垂れ流す奴らと同じ――認めるくらいなら、この感情の名前は分からないままでいたい。
「は〜る〜き〜〜、ごは〜〜ん」
階下から昼食を知らせる、呑気な母の声が聞こえてきた。




