100 裏切られた夜【アリエル視点】
その日の夜。
寮の自室にて、アリエルは窓の外に浮かぶ月を眺めていた。
「……ふぅ。とうとう明日ですね」
明日はいよいよ会長選の最終演説。
本来であれば、その準備に意識を割くべき夜だ。
しかしどういうわけか、アリエルの胸には別の何かが燻り続けていた。
(これも、先ほどクラウスさんとお話したからでしょうか)
なぜ彼との会話で、これほど胸中がざわついているのか。
その正体を確かめるように、彼女はそっと目を閉じ、これまでの人生を振り返り始めた。
――――そもそも、なぜ自分が聖女と呼ばれるのか。
この世には、無色透明の魔力というものが存在する。
通常、他者へ注がれた魔力は毒となり、その身を害してしまう。しかし無色透明の魔力に限っては、誰に与えても一切の害を生まないのだ。
その性質上、気配を絶つための隠蔽魔術はもちろんのこと、強化魔術や回復魔術といった他者へ恩恵をもたらす魔術において、その真価は遺憾なく発揮される。
そんな魔力を生まれ持ち、なおかつ魔術の才覚にも恵まれた者。
すなわち、生まれながらにして自らの力を他者へ分け与える資質を備えた存在こそが、神に役目を与えられし者――『聖女』と呼ばれるのだ。
そう、他者に施すこと。
それこそが、聖女アリエルに課された存在意義だった。
だが、彼女はいつの頃からか、その在り方に小さな疑問を抱くようになっていた。
幼い頃から、アリエルの日々は施しに満ちていた。
日常生活から魔術による支援に至るまで、貧しい者、弱き者へ手を差し伸べることを、半ば義務のように求められ続けてきた。
実力者が集うと名高いこの王立学園に来れば、何かが変わるかもしれない。
そんな淡い期待を抱き留学してきた彼女だったが、結局は同じだった。
アリエルの魔術的才覚は学園においても抜きん出ており、聖女という立場と心優しい性格も相まって、同級生からも教師からも頼られることが多かった。
会長選に出馬したのも、結局は周囲からそう望まれたからにすぎない。
誰もが思い描く『聖女』という偶像。
それが、今のアリエルという少女を形作っていた。
――もっとも、例外もいた。
エレノア・コバルトリーフだ。
剣の才に恵まれ、アリエルと並び立つ実力を持つ彼女は、アリエルに施しを求めることが一度もなかった。
聖女としてではなく、ただのアリエルとして接してくれる。
彼女の隣にいる時間は不思議と居心地がよく、二人は自然と親友になっていた。
しかし、同時に違和感もあった。
多くの者から頼られ、施しを求められる自分。
エレノアの隣で、対等に笑い合う自分。
そのどちらもが、本当の自分ではないような――そんな曖昧な錯覚が、いつも胸の片隅にあった。
そんな折に現れたのが、クラウス・レンフォードという存在だった。
飛びぬけた実力と才覚を持ち、数多の者へ施しを与えてきたとされる聖人。
彼は自らの功績の方が遥かに上であるにもかかわらず、聖女であるアリエルに対し、まっすぐな敬意を向けてくれた。
そして学園にやってきて以降、彼が次々と善行を重ねた結果、これまで学園に行き交っていたアリエルの話題のうち、半分以上は彼の噂が占めるようになっていた。
そんなクラウスに、アリエルが親近感を覚えたのは当然のことだった。
これほど多くの者に施しを与え続けている彼の価値観を知れば、自分の凝り固まった考えに新しい光を当てられるかもしれない。
そんな淡い期待とともに、アリエルは彼に問いかけた。
どうして、そこまでできるのか、と。
しかし返ってきた答えは――
『決まっている――それは、俺がしなくてはならないことだからだ』
――というものだった。
すなわち彼もまた、自らに課された立場に従って動いているにすぎない。
極めつけは、別れ際の言葉だ。
『お前にできるのは、全てを委ねることだけ。それ以外に何も考える必要はない』
――結局、クラウスもまた、アリエルを『聖女』という枠の中で見ていた。
その責務を全うせよと、そう告げているのだ。
それが間違っているわけではない。むしろ、正しい。
だが、だからこそ。
彼女の中に芽生えかけた希望が、ゆっくりと枯れていくのもまた、仕方のないことだった。
「……私は、いったい何を期待していたのでしょうね」
誰に向けるでもなく、アリエルは小さく呟いた。
窓の外、月明かりがやけに白々しく自室を照らしている。
――その時だった。
「ほう。聖女ともあろう者が、ずいぶんと辛気くさい顔をしているではないか」
「っ!? 何者ですか!?」
突如として、自分のものではない声が室内に響いた。
ハッと顔を上げる。
しかし、扉が開いた様子はない。気配が近づいてきた覚えもない。
にもかかわらず――いつの間にか、部屋の中央に異様な存在が佇んでいた。
背の高い、男のような姿。
だが、その全身は濃密な魔力で象られており、爛々と輝く双眸だけがまるで生き物のように赤い光を宿していた。
「貴方はいったい……!」
「よかろう、教えてやる。我は邪神界序列13位、【反発のレベリオ】――その様子では、邪神を見るのは初めてか? 初めて目にするのが我のような序列上位の存在であることに感謝し、ひれ伏すがよい」
レベリオと名乗ったその存在は、口の端を吊り上げて嗤った。
その身から漂う濃密な気配に呑まれ、アリエルは指一本動かすことができない。
そんなアリエルを気にするでもなく、レベリオは楽し気に言葉を続ける。
「我ら邪神は本来、肉体など必要とせぬ。下手な器に縛られるくらいならば、こうして在るがままの魔力体でいた方がよほど身軽というもの……だが、事情が変わった。直近ではこの王都を中心に、魔王軍四天王が討伐されるなど異様な変化が訪れている。念には念を入れ、優秀な器を確保しておくというのも悪くはないだろう」
レベリオの鋭い双眸が、ぬるりとアリエルを捉えた。
「そして今、目の前にこれ以上ないほど優れた器がある。聖女よ、貴様のことだ」
「っ……」
「無色透明の魔力で満たされたその身ならば、我が魔力とて一切の拒絶なく馴染むであろう。元々は我の配下の一人が貴様の体を狙っていたのだが、その計画を丸ごと頂戴させてもらった。我のような上位邪神にふさわしい器などめったに存在せぬからな……先行させた別の配下から連絡が途絶えたなどのアクシデントもあったが、特に支障はあるまい」
レベリオが、ゆっくりとアリエルへ歩み寄ってくる。
「こ、来ないでください!」
「案ずるな、痛みなどありはせん。ただ――その器を、我に明け渡すだけのこと」
言うが早いか、レベリオの姿が漆黒のもやへと崩れたかと思えば、アリエルの体を音もなく包み込んでいく。
抗おうとした意識が、急速に深い闇へと引きずり込まれていく。
遠のいていく視界の中、最後にアリエルの脳裏をよぎったのは――どうしてか家族や唯一の親友でもなく、最後に言葉を交わした彼の横顔だった。
(クラウス、さん……)
その名を呼ぶ声が、声にならぬまま。
アリエルの意識は静かに闇へと呑まれていくのだった。
次回は来週、10月25日(日)更新予定。
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