第14話 蒼の悩み
「最近の蒼、ちょっとおかしくない。」
紅が郁人に小声で言った。
「俺も思ってた。」
郁人は大きく頷き、眉間にしわを寄せる。
「何かあったのかって聞いたけど、別に何もないって言うんだよね。」
紅は首をかしげた。
蒼は普段、悩みがあればすぐ顔に出るタイプだ。
それが、ここ数日はまるで“心を隠している”ような雰囲気をまとっている。
「紅ちゃんに言わないなら、俺が聞いても言わないだろうしな。」
郁人は調理場の片付けをしながら、何か良い方法はないかと考え込んだ。
しかし、結局片付けが終わるまでに妙案は浮かばなかった。
その夜も、三人はお客様の夕食の片付けを終え、遅い夕食を囲んでいた。
真言坊の夜は静かで、外の風の音だけが聞こえる。
「ねえ蒼、今晩久しぶりに村のパトロールに行こうか。最近見回りしてなかったから。」
紅は、蒼が好きな“パトロール”なら気分も晴れるだろうと考えた。
もちろん、蒼が嬉しそうに「行く!」と言う姿を想像して。
しかし――
「俺は、今日はいいや。」
蒼は箸を置き、短くそう答えた。
その声は、どこか遠くの方から聞こえてくるような、力のない響きだった。
紅と郁人は顔を見合わせた。
「ねえ蒼、このところ元気がないよね。いつもならよろこんでパトロールだって行くのに。具合が悪かったり何か困ってるなら、何でも言ってよ。」
紅は向かいに座る蒼の手をそっとつかんだ。
「おれ、」
蒼は一瞬、何かを言おうとした。
その目は、迷いと不安が入り混じったような揺らぎが見える。
しかし――
「何でもない。何もないよ、ご馳走さま。」
蒼はうつむき、席を立って部屋へ戻ってしまった。
紅は蒼の背中を見送りながら、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
「何もない人の様子じゃないよね。」
紅がつぶやき、郁人も深く頷いた。
その後も蒼の様子は元に戻らなかった。
真言坊では薬草入りのリンゴジュースを製造販売している。
三人で営む宿坊の自家製ゆえ大量生産はできないが、素朴で優しい味わいが評判となり、村の直売所や土産物店、下の町の農産物直売所にも置いてもらっている。
その売れ行きは、三人の努力を静かに支えるように、じわじわと伸びていた。
リーン、リーン――
真言坊の黒電話が鳴り、静かな館内にレトロな音が響いた。
「真言坊でございます。」
フロントにいた紅が受話器を取る。
電話の向こうから聞こえてきたのは、聞き慣れた声だった。
「農産物直売場です。お世話になります。」
「ああ、こちらこそいつもお世話になっております。」
紅の声は自然と丁寧になる。
下の町の直売所では、真言坊のリンゴジュースを大量に扱ってくれている。
そのおかげで、真言坊の名は少しずつ広まりつつあった。
「いつものリンゴジュースが在庫ゼロになったところに、今朝お客様からの注文も入りまして……早めに配達していただけると助かるのですが。」
スタッフの声は申し訳なさそうだったが、紅は慣れた調子で答えた。
「わかりました。では準備が出来次第伺います。いつもありがとうございます。」
電話を切ると、紅はメモ用紙に「リンゴジュース二十本」と書き込んだ。
調理場では郁人が調味料の在庫確認をしていた。
「郁坊、町の農産物直売所からリンゴジュースの注文が入ったから届けに行ってくるね。」
紅は食品倉庫から自家製リンゴジュースを二十本取り出し、箱に詰めていく。
瓶が触れ合う軽い音が、調理場に心地よく響いた。
「気を付けて行ってきてね。蒼ちゃんも一緒。」
「んー、蒼は客室の掃除してるよね。一応聞いてみるわ。」
紅はジュースを車に積み込み、蒼のいる客室へ向かった。
「蒼。」
客室に入ると、蒼はベッドのシーツを交換しているところだった。
名前を呼ばれ、蒼が振り返る。
「これから町の直売所にジュース配達に行くんだけど、一緒に行く?」
いつもなら「行く!」と即答し、掃除を途中で放り出してでも紅と出かける蒼。
しかし――
「んー、まだ掃除にかかるからな。紅一人でも大丈夫か。」
蒼は淡々と答えた。
その声には、いつもの弾むような明るさがない。
「もちろん大丈夫だよ。じゃあ、掃除よろしくね。」
紅は微笑んだが、胸の奥に小さな不安が灯った。
やっぱり蒼の様子がおかしい。
紅はため息をひとつつき、車に乗り込んだ。
戸板村から下の町までは車で二十分ほど。
新緑の季節、やわらかい黄緑色の木々がトンネルのように道を覆い、紅の運転する車はその中を滑るように下っていく。
「すこし雲行きが怪しいな。雨が降って来るかな。」
進む先には、厚く濃い灰色の雲が垂れ込めていた。
山の天気は変わりやすい。
紅はハンドルを握りながら空を見上げた。
「こんにちはー。真言坊です。」
紅はリンゴジュースを抱えて農産物直売所の裏口から入った。
「やあ、紅さん。早速配達してもらって助かります。」
スタッフが笑顔で寄ってくる。
「こちらこそ、いつもお世話になってありがとうございます。」
紅はリンゴジュースの定位置に、真言坊特製の瓶を丁寧に並べていく。
瓶の中の淡い琥珀色が、店内の光を受けてきらりと輝いた。
「紅ちゃんのところのジュースは評判が良くてね。リピーターさんもついているから。」
スタッフのおじさんは愛想よく微笑んだ。
「今後とも宜しくお願いします。」
紅は深く頭を下げ、店を後にした。
二十本のリンゴジュースを並べ終えた紅は、スタッフに丁寧に挨拶して頭を下げると、再び車に乗り込んだ。
車が走り出すと、ぽつり、ぽつりとフロントガラスに雨粒が落ちてきた。
「運び終わった後でよかった。」
紅はつぶやき、真言坊へ向かって山道を登り始めた。
ここからの二十分は、慣れているとはいえ油断できない。
急な坂道、鋭いカーブ、そして山特有の突然の天候変化。
降り出した雨はみるみる間に激しさを増し、
あっという間に土砂降りとなった。
ワイパーを高速で動かしても、
数メートル先が白い膜のようにかすんで見えない。
「ゆっくり進めば大丈夫。」
紅は自分に言い聞かせ、ハンドルをギュッと握った。
対向車も後続車もいない。
山道に響くのは、雨が車体を叩く音と、ワイパーの必死な往復だけ。
紅の車が一台、悪天候の山道を黙々と上っていく。
少し雨脚が弱まり、紅がフーっと息を吐いたその瞬間――
目の前に、黒い影が飛び出した。
「えっ――!」
反射的に右へハンドルを切る。
同時に急ブレーキを踏んだが、
アスファルトに溜まった水の上を車は横滑りし、
タイヤが悲鳴を上げた。
次の瞬間、車体がふわりと浮いたような感覚が紅を襲い、
そのまま崖下へ落ちていった。
「紅、おせーな。もう昼めしの時間だぞ。何やってんだ。」
調理場で昼ごはんの準備をしながら蒼が心配していた。
午前中に出かけた紅がまだ帰ってこない。
下の町までは車で二十分。
荷下ろししても、一時間ちょっとあれば十分帰って来るはずだ。
「何かあったのかな。」
郁人にも不安がよぎる。
紅は時間にルーズなタイプではない。
こんなことは今まで一度もなかった。
「とりあえず、昼飯食っちまおう。そしたら俺探しに行ってくるわ。」
蒼はご飯をかき込み、急いで食べ終えると郁人の車を借りて町へ向かった。
道中、蒼はあたりをキョロキョロと見回しながら下っていく。
しかし、紅の車はどこにも見当たらない。
「こんにちは。」
直売所に蒼が入ると、客の対応を終えたスタッフがやって来た。
「これは蒼さん、いつもお世話になります。今日も早々にリンゴジュースを運んでもらってありがとうございました。」
蒼は軽く頭を下げたが、心は焦りでいっぱいだった。
「こちらこそお世話になります。ところで、うちの紅はいつごろこちらを出ましたか。」
スタッフのおじさんは、意外な質問に目を丸くした。
「紅さんなら、そうだな……十時前にはジュースを届けてくれて、そのまま帰って行きましたよ。どうかしたんですか。」
「それが、まだ真言坊に帰って来ていなくて。」
蒼の言葉にスタッフの顔も曇った。
「どこかに別の用事で寄っているとかないんですか。」
「ええ、今日はジュースの配達だけだったんで。」
蒼はスタッフに挨拶をすると、急いで車に戻った。
「ここから真言坊に帰る間に何かがあったんだな。」
蒼はつぶやき、車を発進させた。
「さっきも見たけど、何もなかったもんな……。」
辺りをきょろきょろと見回しながら、蒼はゆっくりと山道を上っていく。
しかし、どこにも紅の車は見当たらない。
「もしかして、崖下に落ちたなんてことあるか……。」
蒼は嫌な想像を振り払った。
もしそうなら、ガードレールが壊れたり、何かしらの跡が残っているはずだ。
しかし、何もない。
結局帰り道でも紅を見つけられず、蒼は真言坊に戻った。
本来ならば、こんな時は警察に連絡して大人数で探してもらうべきだ。
だが――紅は鬼だ。
もし“この世のものではない何か”に連れ去られたのなら、
人に知られたらまずい状況もあり得る。
蒼と郁人の心配は増すばかりだった。
今日は二組のお客様がお泊りで、紅不在の中、蒼と郁人は大忙しとなっている。
日がとっぷりと暮れ、心配で仕方ないが、今はお客様の対応で手いっぱいだ。
夕食の配膳が済み、蒼と郁人が調理場の片付けをしていると――
“ガラッ”と勢いよく扉が開いた。
蒼と郁人が反射的にそちらを見る。
そこには、ボロボロの紅が立っていた。
服は所々破れ、破れた布の隙間から擦り傷や切り傷が覗き、血がにじんでいる。
顔にはあざ、髪には土と埃が絡みつき、まるで山の中から這い出してきたばかりのような姿だった。
次の瞬間、蒼が駆け寄り、紅を抱きしめた。
「紅、どこ行ってたんだよ……どんだけ心配したと思ってんだよ。」
蒼の声は震え、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
蒼の涙に、郁人も目を潤ませる。
「よかった……無事で。」
二人の顔を見て、紅はやっと真言坊に戻って来られたのだと、胸の奥から安堵が広がった。
蒼に「まず風呂!」と言われ、紅は土と埃を洗い流し、
その後、蒼が丁寧に傷の手当てをしてくれた。
「どうやら狸か何かが飛び出してきたようなの。避けようとして慌ててハンドルを切ったら、崖下に車ごと落ちてしまった。……と、こういう訳で。」
紅は申し訳なさそうに話した。
「まあ、そういうことならしょうがないよな。」
蒼は傷テープを貼りながら、紅が無事に帰ってきたことが嬉しくて仕方ない様子だ。
「でもな、俺、山道をよーく見ながら探したけど、崖に落ちてる車なんかなかったぞ。」
蒼が首をかしげる。
「それがね、ちょうどガードレールの切れ目だったのよ。落ちたところは木が生い茂ってて、道から下の様子は見えないような場所だったの。運が悪かったわ。」
「それで見つからなかったのか。」
蒼は納得したように頷いた。
「何とか車から出て、崖を這い上がって来たけど……人間なら亡くなってたわね。」
紅は苦笑した。
鬼の強靭さは、こういう時に本領を発揮する。
「車は後日引き上げてもらうようね。新しいのを買わないといけないわ。ごめん、蒼と郁人。」
紅が手を合わせて頭を下げると、郁人が優しく言った。
「何を言ってるの。無事に帰って来れて何よりだよ。車なんて買えるんだから。」
その言葉に、紅の胸がじんわりと温かくなった。
ふと紅が蒼を見る。
「そう言えば、蒼、元気になったね。」
郁人も蒼の顔を見る。確かに、昼間の沈んだ様子とは違う。
蒼は少しうつむき、意を決したように口を開いた。
「実はしばらく前から……俺の角がちょっと。」
蒼は言葉を詰まらせ、立ち上がると青鬼の姿に変身した。
そのまましゃがみ込み、紅と郁人に自分の角を見せる。
「ここを見てくれ。」
角の横を指さす。
「ちょっとでっぱてるの、わかるか。」
確かに、角の横から小さな突起が数ミリほど出ている。
「気が付いたら、こんなところに出っ張りができてさ……これが少しずつ伸びてきてるんだ。このまま伸びたら、俺、二股の角になっちまう。そんな鬼見たことあるか。」
蒼は悲痛な顔で頭を抱えた。
紅と郁人は思わず顔を見合わせ、吹き出してしまった。
「なんだ、そんなこと。」
「そんなこととは何だ。大変なことだぞ。このままこの突起が伸びていったら……。」
蒼は本気で悩んでいる。
蒼のこんな顔を見るのは、かなり珍しい。
「確かに、二股角の鬼は見たことないわね。」
「そうだろ。かっこ悪いだろ。俺が二股角の鬼一号になっちまうんだ……。」
蒼の悲壮感がすごい。
紅は笑いながら言った。
「まずさ、鬼の郷に行って聞いてみたらいいよ。何かわかるかもしれないよ。」
「そ、そうだな。長老とかなら、この出っ張りを取る方法を知ってるかもしれないしな。」
蒼は一縷の望みを託し、翌日、竈から鬼の郷へ向かった。
「それがさ、母ちゃんに聞いたら“なんだ蒼も出てきたのか、母さんに似たんだね”って言うんだよ。」
紅と蒼は調理場で山菜の汚れを丁寧に落としているところだ。
「蒼のお母さんも角にでっぱりがあるの?」
「そうらしいんだ。気になるならざらざらしたもので削れって。母ちゃんは削ってるらしくて、でっぱりはなかったよ。」
「そうなんだ。じゃあヤスリで削ればいいってことね。心配事が無くなって良かったね、蒼。」
蒼は嬉しそうに鼻をこすった。
紅と蒼が笑い合い、真言坊の空気が一段と明るくなったようだ。




