萎む気持ち
裏口から静かに屋敷に入り、見つからぬうちに部屋へ戻ろうと思っていた。
しかしそこには使用人が待ち構えていた。どこか青褪めた顔をしている。屋敷に来た時に出迎えてくれた人だと気がついた時には彼は走り出していた。
「旦那様!旦那様!奥様がお戻りです!」
その言葉に血の気が引いた。まずい、彼に屋敷を出たのがバレてしまった。
勢いよい足音がこちらに近づいてくる。私は立ち尽くしたまま動けない。辺境伯は恐ろしい形相でこちらに迫っていた。そして私の肩をがっしりと掴む。老人の手と侮ったのが間違いだった。痛い程強く掴まれる。
「あなたは私の妻だ!勝手に出ていくな!」
低い声でそう言われる。あまりの恐怖に涙が出そうになるが必死に堪える。
「いいか、わかったな」
念押しと言わんばかりに耳元で低い声で告げられる。私は何度も頷くことしかできなかった。男はようやく肩から手を離し踵を返した。
私はそのままヘナヘナと座り込んでしまった。
「奥様!大丈夫ですか」
青い顔の侍女が駆け寄る。彼女のおかげで幸せな一日だったのに台無しだ。
「大丈夫、大丈夫、びっくりしただけだから」
彼女を安心させたくて、無理に笑顔を作る。無理にお願いをしてしまったのが間違いだったのかもしれない。それよりも彼女が罰されないようにしなければ。
あの男を呼んだ使用人がこちらへ近づき、彼女に対峙した。
「あなたが無理矢理奥様を連れ出したのか?」
叱責するような口調である。彼女は悪くないのに。
「申し訳ございません」
彼女は地につかんばかりに頭を下げている。
「違うのです。彼女は何も悪くないのです」
私は彼女に無理を言って連れて行って貰った話をした。
「お願いです。彼女を罰さないでください」
私も頭を下げると使用人は慌てた様子で頭を上げるよう言った。
「旦那様に相談いたします」
そう言って彼は侍女を連れて行ってしまった。代わりの女性の使用人が部屋へ案内してくれた。
「ごめんなさい、一人になりたいの」
私は夕食も食べず、ベッドに潜り込んだ。
次の朝、優しい侍女は来なかった。昨日ついてくれた女性がこれから私の世話をすると言う。彼女はもしかして辞めさせられてしまったのだろうか。あの男に、辺境伯に何とか彼女を戻すよう言わなければ。彼女は悪くないのに。
「ごめんなさい、部屋で食事をすることはできるかしら」
なんとなく部屋から出たくなくて、そんな無理を言ってしまう。実家にいた頃は部屋で一人が寂しかったのに。
私の我儘は聞いてもらえ、部屋に食事が運ばれた。しかし胃が締め付けられ、あまり食べられなかった。
朝食の後、図書室へと向かった。本の背表紙を手慰みになぞるが読む気になれない。ふとなにか視線を感じる。振り返ると図書室の入口から誰かが去っていくのが見えた。
昼食も部屋で取ろうと思ったが、新しい侍女が食堂に案内する。胃に優しそうな柔らかく煮込まれた料理がでてきた。ここの屋敷の人達の気遣いが嬉しい。あの男に仕えているのが信じられない位だ。
食事が終わり、食後に薬草茶が運ばれて来た。その時また視線を感じた。振り返ると食堂の入口からあの男がこちらを見ていた。一瞬視線がぶつかり合う。すると男は目線を反らし、去っていった。
もしかして監視されているのだろうか?
午後は中庭に行く気になれなくて、部屋で過ごすことにした。図書室から借りてきた本を開く。しかし1ページ目から進まない。私は本を閉じ、クローゼットの中に隠した菓子箱を取り出した。母の形見を手に乗せ、握り締める。なんだか昔の思い出が頭に浮かんでくる。
母が焼き菓子を作ってくれて、それを遊びに来た……確かフロード様、殿下もいた筈だ。一緒にクッキーを食べた殿下は母に甘えていたな。母は嗜めることもせず、殿下の頭をそっと撫でていた。まだ小さい頃の思い出だ。
あんなに小さな子どもの頃から一緒にいたのに。どうして離れて行ってしまったのだろう。こみ上げてくる涙を拭うこともできず、私は泣き続けた。