後編
どんな奇妙な体験も、その原因さえわかってしまえば、なんの問題もない。
私はいま、姉と桂木先生──高校生に戻ったふたりを、部室の隅で見守っている。
ふたりは同級生であり、また親友でもあった。
桂木先生──いや、いまは当時の呼びかたのほうが自然だろう──ナツメお姉ちゃんは、よく家に遊びに来ていた。幼稚園児だった私とも、よくお絵描きで遊んでくれた。彼女も絵がとても上手だった。
姉とナツメお姉ちゃんが、私に絵を描く楽しさを教えてくれたのだ。
そのふたりが、いまこうして肩を並べて椅子に座り、アイスを食べている。窓から差し込む西陽が、ふたりの笑顔を優しく輝かせる。
ナツメお姉ちゃんは、思い出したように姉に聞く。
「あ、そうそう。詩ちゃん元気?」
姉の顔がさらに明るくなる。「もちろん。元気すぎて困るくらい。昨日も、私と同じ学校に行くんだってはしゃいでた」
「え、じゃあウチの高校じゃん!うれしいねー」
「うん。私らも今年で卒業だし、一緒に居られるあいだにたくさん絵を教えてあげたいんだ」
「そーだね」
ナツメお姉ちゃんはアイスの棒を口にくわえたまま、腕を組んで天井を見上げる。そして、なにかを閃いて立ち上がる。
「そうだ!詩ちゃん入れたウチら三人でさ、作品展しない?」
「作品展?」
「そう!商店街に新しいカフェできたの知ってる?」
「ああ、確か古民家を改装したってとこでしょ。珍しいよね、廃れた商店街にカフェなんて」
「あそこの二階がギャラリーになってて、出展料を払えば誰でも出展できるんだってさ。貯めたバイト代の使い道を考えてたとこだし、ちょうどいいや!」
「でも、詩はまだお絵描きしかしたことないよ」
「だから教えてあげるんだって!大丈夫、詩ちゃん飲み込み早いし。それに、コンテストじゃないんだから」
姉も立ち上がる。「そっか。それ、面白そうだね!やろう!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目を開くと、理科準備室だった。陽もまだ高い。
念のために手の甲をつねってみる。……今度は、本当に目覚めたようだ。
意識がはっきりするにつれ、先ほど見た夢の奇妙さが輪郭を帯びてくる。夢にしてはやけに鮮明な映像だったし、そもそも私の記憶にはない……知らない内容だった。
「もしかして、私の願望……?」
そのとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
持って来たものを手に取り、慌てて教室を出た。
正直、午後の授業の内容はひとつも入ってこなかった。
ずっと姉のことを思い出していたからだ。
今朝のクロッキー帳事件(私は事件と言っていいと思っている)に始まり、夢に出てきた高校生の姉。これらは偶然だろうか。
それと、作品展の話。あれは私の空想ではない。実際に、姉はそれを計画していた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「さくひんてんってなに?」幼い私は、姉の話がよくわからずに聞く。
「詩と私とナツメお姉ちゃん。三人の絵を飾ってみんなに見てもらうの」
私は目を丸くする。
「みんなに!?おとおさんやおにいちゃんや、あと、ももぐみのみんなも?」
「そう。お父さんもお兄ちゃんも、もも組のお友だちも。みーんなに見てもらおう」
「でも、お絵かきみせるの、はずかしい。」
「大丈夫。絵の描きかたは、お姉ちゃんが教えるから」
「いつものお絵かきじゃなくて、ちゃんとかきかたおしえてくれるの!?ほんと?」
「もちろん!どうして?」
「だっておにいちゃん言ってたよ?おねえちゃんは絵をかくのはじょうずだけど、人におしえるのはへたっぴだって」
「あはは〜……陽真のやつ、言うね〜」
「詩のかいた絵、ももぐみのみんなにわらわれたらイヤだ」涙を溜めて姉に訴える。
すると、姉は姿勢を正して私に身体を向ける。
「じゃあ、こうしよう。私が詩をもも組の誰よりも上手にしてあげるって約束する!」
「ほんと?アイコせんせいよりも?」
「うん、アイコ先生よりも」
「お姉ちゃんみたいになれる?」
「なれる!」
「やったぁ!じゃあ詩、おえねちゃんのくおっきーちょうにかきたい!」
「お姉ちゃんの?ああ、クロッキー帳のことね」
「うん!お絵かきちょうじゃなくて、詩、くおっきーちょうがいい!」
「いいよ。でもその代わり、この約束は私たちだけの秘密ね。当日にみんなをびっくりさせてやろう!」
姉はそう言って、にっと口角を上げる。
「わかった!ふたりだけのおやくそくね!」
「じゃあ、ゆびきりげんまんしよ」
「うん!ゆーびきりげーんまん──」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
指切りをするときの、姉の楽しそうな顔をいまも覚えている。
しかし、それは叶わなかった。
その話をしてしばらくしたあたりから、姉の様子が日に日に変わっていった。一見すると普段通りの明るくて優しい姉だったし、父も兄も気づいていないようだったが、私にはわかった。姉は、前ほど絵を好きではなくなっていたのだ。
原因はよくわからない。しかし、姉が家で絵を描くときの顔はとても苦しそうだった。そして、その絵には、以前のような自由さがなくなっていた。
夏の終わりくらいには姉も吹っ切れたようだったが、そのころから学校のことやいろんなことが重なって多忙になり、私とあまり遊んでくれなくなった。そのまま彼女は高校を卒業し、東京に就職して家を出て行ったのだ。
放課後。
荷物をカバンに詰めて廊下を出ると、私を追いかけて教室から出て来た桂木先生に声をかけられた。
「柚木さん、ちょっといい?」
「ナツメお姉ちゃ……桂木先生、なにか用ですか?」
「あなた、進路希望の紙をまだ出してないでしょう?クラスで出してないの、あなただけよ」
正直に書いていないと言うと、いろいろ面倒になりそうなので、適当に誤魔化すことにしよう。
「ああ、あの紙。書いたんですが、提出する前になくしちゃって」
「そんなことだろうと思ったわ。はい、これ新しいの」
真新しい紙を受け取り、軽く頭を下げる。そして、バレる前にそそくさとその場を離れる。
旧校舎に入ってすぐ、手に持っていた紙を適当に折りたたんで胸ポケットにねじ込む。
すると、ポケットの中の手が小さな『なにか』に触れた。不思議に思い、指でつまんで取り出してみる。
「あ、これ……」
理科準備室で拾ったビー玉だった。いまのいままで存在を忘れていたが、無意識に胸ポケットに入れていたようだ。
「このビー玉には不思議な力が宿っていて、私の見たい世界を見せてくれる──なんて、ファンタジー映画のようなことがあったらいいのに」
小さく呟いて、ビー玉をポケットに戻す──本当にそうだったら、いつだってお姉ちゃんに会いに行けるのに。
部室に入ると、雪歩がキャンバスに向き合って作業を始めていた。近くの椅子をずらして雪歩のそばに座り、彼女の横顔を眺める。会うのは昨日ぶりなのに、なぜか懐かしいと感じてしまう。
「なによ?そんなジロジロと……」
雪歩は顔をキャンバスからこちらに向ける。名前の通り、その肌は雪のように白い。夏の暑さで溶けてしまわないかと、ときどき心配になる。
「ねえ、雪歩のクラスでも進路希望の紙、配られたんでしょ?なんて書いたの?」
「あー、私は卒業したら親の店を手伝うことになってるの。うちは一人っ子で後継ぎが他にいないから」
最初から進む道が決まっているなんて楽でいい、うらやましい。そんな言葉が出かけて、喉の手前で飲み込む。
「……そういや、雪歩んとこって呉服屋さんだったね。やっぱ着物とか好きなの?」
「うん。小さいころから着物の柄を見るのが好きだったの。こんな綺麗な柄は、どうやったら生み出せるんだろう、自分でもできるのかなって思うようになって。それで美術部に入ったんだ」
「そうだったんだ。一年以上の付き合いなのに全然知らなかった」
「そんな話、したことなかったもんね。……それで?詩はなんて書いたの?」
「まだ書いてない」
「そうか。まぁ、将来のことなんてわかんないよね。私らまだ高二だし」
突然、あたりに低い音が響く。隣の教室で、吹奏楽部が音出しを始めたようだ。チューバの低音にトランペットの軽快な音がわずかに混じっている。曲になる前の不規則な音が、私たちの部室に届く。
雪歩は鉛筆を持つ手を下ろす。「やっぱりこの音、集中できない……」
「演奏中はいいBGMなんだけどね」私はすかさずフォローを入れる。実際、隣で演奏されることに関しては、私たちはすでに耐性がついていた。
「部員ふたりだからって、吹奏楽部の隣なんて不遇すぎる。……ねえ、詩から桂木先生にまた頼んでくれない?部室の場所変えて欲しいって」
雪歩は繊細さを帯びた目をこちらに向ける。今朝の自分も、こんな目をしていたのだろうか。
「誰に頼むって?」桂木先生が部室に入って来た。
「部室の場所ですよ。先生もここが最適とは思わないでしょ?」雪歩は細い声で主張する。
「前にも説明したでしょ?部員がせめてあとひとりは増えてくれないと、部室の移動は認めてもらえないのよ」
「……もういいです」雪歩は肩を落とし、キャンバスに向き直す。
「ところで。今日は、ふたりに話があるの」
先生は脇に抱えていたノートパソコンを、そばの机に置いて開く。ネットに繋いで、なにかを検索し始める。その姿は、やけに楽しそうだ。
教室で授業をしているときと部室にいるときで、先生は雰囲気が少し変わる。桂木先生から、ナツメお姉ちゃんに戻るような感じだ。まぁ、部員がふたりしかいないのだし気が緩むのも仕方ないことだし、私にとっては、むしろそのほうが接しやすかった。進路希望の紙をわざわざ廊下で呼び止めて渡したのも、彼女なりにメリハリをつけたのだろう。
私と雪歩もパソコン画面を覗き込む。
画面には近所に最近できたと話題のカフェの、公式SNSのページが開かれている。
「ここ、行ってみたいって思ってた!」雪歩は先ほどとは打って変わり、興奮気味に言う。
「私の知り合いが始めたカフェなんだけど、一部がギャラリースペースになってるらしいの。それでね、昨日挨拶に行ったら、ウチの美術部で作品展をしてほしいって」
「作品展ってふたりで?」私はそう言って、雪歩と顔を見合わせる。
「私も出すわ!三人でやりましょう!」先生は目を輝かせている。
「先生の絵と並べられるの?絶対無理、恥ずかしいって!」雪歩は首を激しく横にふる。
「大丈夫。ちゃんと指導します!」
先生の姿が一瞬、姉と重なる。
途端に心臓の鼓動が激しくなる。
「詩、どうする?」雪歩が私の顔を覗き込む。
胸が苦しい……。やたらと口が渇く。
「私……」声を絞り出す。
「私、嫌です。やりたくありません」
それを聞いた先生は、腕を組んで天井を見上げる。しかし、すぐに顔を正面に戻す。
「そう。わかった。じゃあこの話はなかったことにして」
先生はパソコンを閉じ、足早に部室を出て行った。
「はっきり言ったねー、結構ダメージ受けたんじゃない?」雪歩は茶化すように言う。
「雪歩、ごめん。私、今日はもう帰るね」
そう言い残して、私も部室を後にした。
家の玄関を開けると、中から香ばしい匂いが漂ってくる。
中に入ると、キッチンで料理をしている父の姿があった。
「あれ?もう帰ってたんだ……」
「ああ。陽真から今晩遅くなるって連絡があってな。晩御飯はアイツに任せっきりだったから、たまには父さんが作らないとな」
「この匂い、懐かしい。豚の生姜焼き?」
「そうだ。詩、好きだったろ?」
「うん」
しばらくキッチンの父の背中を見つめる。そして、言葉を探りながら口を開く。
「あの……今朝はごめん。お弁当も作ってくれてたのに、要らないって……」
「ああ、気にするな。父さんの昼飯にしたから。それより、こちらこそすまない。大事にしてるクロッキー帳にあんなことして」
「ううん。お姉ちゃんのものは取っておかないとって、私ムキになってた。でも、お父さんの言う通り、お姉ちゃんももう要らないんだよね、きっと」
父は頭を掻いた。「父さん、絵のことはわからないが……」そして、私の目を見る。
「あれはお姉ちゃんにとってというより、お前にとって必要だったんじゃないのか?」
「私にとって……」
「お前がお姉ちゃんを尊敬してるのはわかる。高校も部活も同じ。見た目のこだわりも、お姉ちゃんへの憧れからだろ?ただな、詩は──詩だ。お姉ちゃんじゃない。父さんは……詩の絵が見たい」
そのとき、視界がぐっと広がったような感覚がした。
父は最初からわかっていたのだ。
私が憧れを通り越し、ずっと姉に固執していることを。
私はこれ以上傷つかないよう、自分の心を『あのとき』のまま閉じ込めている。
クロッキー帳はそのための鎖。
わかっていなかったのは、私のほうだった。
気づくと、目からぽろぽろと涙がこぼれていた。
「お……おい、大丈夫か?」
私が泣くとは思ってもなかったのだろう、父はあたふたしている。正直、自分でも驚いている。
「うん、大丈夫」自分の袖で涙を拭う。
「……わかった、描いてみる。私の絵」
「ああ、楽しみにしてる」
私は父と約束した。
翌朝。
登校するなり、職員室の桂木先生のところに行く。
「ど、どうしたの?朝早くから」目を丸くした先生が言う。
「……昨日の言葉、訂正したくて。やっぱりやりたいです、作品展」そう言って頭を下げる。
そのとき、知っている声が聞こえた。「あの……桂木先生、いますか?」
顔を上げて振り返ると、扉から雪歩が顔を覗かせている。
「雪歩?」
「詩!?なんでここに?」
「いや、やっぱり作品展やりたいなって思って。え、もしかして……雪歩も?」
戸惑いながらも雪歩が頷く。
なにごとだと他の先生たちがこちらに注目するなか、桂木先生は声を出して笑った。
「ふたりとも、わざわざここに来なくても、部活のときでよかったのに。──でも、あなたたちの気持ちは伝わった。じゃあ、知り合いに連絡しておきます。それに向けて、しっかり指導していくから、そのつもりでね」
「はい!」私と雪歩の声が揃った。
そして、いつもと変わらない授業が始まる。
窓の外に目をやる。
油絵の具を何度も重ねたような入道雲は、今日もそこにある。
あの雲のいったいどこまでがまじりけのない白で、どこから青まじりなのか。
私はその答えをまだ見つけられずにいる。
しかし、姉とふたりだけの約束をしたとき──その瞬間、そこにはまじりけのない白があったのかもしれない。私はそれを確かめたかっただけなのだろう。
そういえば──。
咄嗟に胸ポケットに手を当てる。昨日とは別の制服なので、当然なにも入っていない。
そういえば、あのビー玉をどこにやってしまったのだろう?
ビー玉が私を誘ってくれたのか、それともただの夢か。わからないままだ。
視線をずらし、隣の誠也の横顔を見る。
彼の顔には、相変わらず細い目が付いている。その目は開いているのか、閉じているのか。飽きるほど見てきた顔なのに、私にはまったく判別がつかない。
私はなにも知らないし、なにもわからないのだ。
だが不思議と、いまはそのことに腹が立たない。もどかしいとも思わない。
──そうだ。
授業が終わったら、誠也に雲の話をしてみよう。私が空を眺めているのを、いつも気にしてるみたいだから。もしかすると、誠也にもあるのかもしれない。彼なりの『まじりけのない白』が。
そんなことを考えながら、私はまた窓の外へ顔を向けた。
〜おわり〜
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
本作は前作「瞳の奥の星」から生まれた、小さな物語です。
またどこかで、この世界に触れていただけたらうれしいです。




