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前編

窓の外に目をやる。これで何回目だろう。


無機質な窓枠に切り取られた空は、綺麗に澄み渡っている。そこに浮かぶ入道雲は、油絵の具を何度も重ねたような、ごつごつしたテクスチャだ。


雲は白い。当然だ。でも、よく見ると雲は白一色ではない。影の部分には空から回り込んだ光が入り込み、わずかに青みを帯びている。影の度合によって白と青のグラデーションとなっているので、純粋な真っ白という部分は意外と少ない。


では、あの雲はいったいどこまでがまじりけのない白で、どこから青まじりなのか。

私はその答えを持っていない。正確に答えられる人間などいるのだろうか。少なくとも私は知らない。


「……さん」


そう考えると、世の中は実に不思議だ。雲に限らず、いろんなものが『まじりけのない白』の所在が曖昧なままだ。それでもこの世界は回っているのだから、不思議と言うより他にないだろう。


「……木さん?」


そもそも、大人たちはこのことをどこまで認識しているのだろうか?みんな眉間に皺を寄せるのは得意なようだが、その頭では一体なにを考えているのだろう。彼らは脳という貴重なリソースを、本当に大事なことに使えているのか、疑わしい。今朝だって──


柚木ゆずきさん!」


ハッとして顔を正面に戻す。ジャージ姿の担任がこちらを睨んでいる。彼女もまた、眉間に皺を寄せて。


「いまの先生の話、ぜんぜん聞いてなかったでしょう?」


すぐには答えず、隣の誠也せいやの顔を見る。彼の顔は正面に向いたまま、横目で私を見ている。元より細い目が、糸のように細くなっている。


「ちょっと、聞いてるの!?」


担任の桂木かつらぎ先生の声が教室に響き渡る。ヒステリックな叫びではない。単に地声が大きいのだ。


「あ、はい。全然聞いてませんでした」


私のその一言で、どっと教室がわく──わけもなく、数人に鼻で笑われただけだ。ついでに言うと、外の蝉の声に混じって、誠也のため息も聞こえた。


「もう……。田茂たもくん、あとで教えてあげて」


「……はい」返事をする誠也の表情は、微動だにしない。


そのタイミングで終業のチャイムが鳴る。人生で初めてチャイムに助けられたと思った。



昼休み。


桂木先生が教室を出た途端、誠也が口を開く。


「いっつも空ばっか見上げてるけど、なにがそんなに気になるんだよ?」


気になる?彼はどの文脈でそう聞いてるのだろう?窓から見える景色のことなのか、それとも、私が考えを巡らせている対象のことなのか……。


「まぁ、いろいろとね」そんなことまで考える必要もないと思い、適当に返した。


「いろいろって……。柚木ってたまに大人ぶるよな。その見た目で」


誠也は、細い目を私の頭に向けている。正確には、緩やかにカーブしたツインテールの毛先を見ている。


「柚木って、小学生のころからずっとその髪型だよな。もう高校生だぞ?ガキっぽい髪型いいかげん卒業しろよ」


「私は好きでやってるの。それに、ガキっぽくても成績はあんたより上だし」


誠也は誤魔化すように、二、三度咳払いをする。


「桂木も桂木だよ。あいつ、柚木にはいつも甘いよな。他の生徒だったら、もっと怒鳴られてだぞ。やっぱ顔馴染みには怒れないんだろうな」


「ちょっと、それやめてよ。関係ないじゃん」


私に睨まれた誠也は、ようやく口を閉ざした。


放っておいたら、またいつ口を開くかわからない。昼食は教室の外で食べよう。


机の横のカバンに手を突っ込んで、弁当箱を探る──が、カバンの中の手は弁当箱を見つけられない。


そのとき、今朝の出来事がフラッシュバックする。


「ああ、そうだ。今日、お弁当ないんだった……」


今朝のことを思い出すだけで、胸焼けがする。


やむをえず、スマホだけを手に教室を出て、一階まで降りる。そして、廊下の突き当たりにある、自販機コーナーまで歩く。


ドリンク自販機の紙パックの緑茶のボタンを押し、スマホをリーダーにかざして電子マネー決済を済ませる。続いて、隣のフード自販機で砂糖がたっぷりコーティングされた円盤型の菓子パンを買う。とりあえず、これで昼食は確保できた。


あとは、人気のない適当なところで時間を潰そう──。


ふと、旧校舎のほうに視線を向ける。旧校舎の壁は塗装が剥がれ、至るところに細かなヒビが入っている。日中に人が立ち入ることがないので、どの教室も電気は付いておらず、不気味な静けさを放っている。背後にそびえる山と相待って、まるでホラー映画のセットのようだ。


とはいえ、旧校舎への立ち入りを禁止されているわけではない。事実、一階の一部は美術部と吹奏楽部が放課後に部室として利用している。


とにかくいまは、どこかに腰を下ろしたかった。緑茶の紙パックと菓子パンの袋をまとめて持っている左手が、早くも悲鳴を上げ始めている。


一部の生徒からは『出る』と噂される旧校舎だが、美術部である私にとっては、入ることになんの抵抗もない。


足が自然と旧校舎へ向かう。



旧校舎一階の廊下を進み、美術部が部室として使っている教室の前に立つ。スマホを左脇にはさみ、解放された右手を扉の取っ手に伸ばす。


取っ手に触れる直前、ぴたりと手が止まる。


この時間に誰かが来ることはまずない。ましてや部員は現在、私と同級生の雪歩ゆきほのふたりだけだ。


でももし、雪歩が道具を取りに教室の扉を開けたら……?教室の隅でひとり、菓子パンをむさぼるところをタイミング悪く目撃されたら……?


授業の空気を凍りつかせても気にしない私だが、そんな虚しい姿を雪歩に見られることだけは耐えられない。内から鍵をかけようかとも思ったが、そんなことをしたらいっそう怪しまれる。


手を引っ込め、廊下奥の階段に目をやる。


階段の入り口には、黄色いチェーンで柵がされている。ホームセンターに置かれている、プラスチック製の安いやつだ。チェーンの中央に「立ち入り禁止」と書かれた張り紙がぶら下がっている。


生徒が使えるのは一階の部室だけだ。二階には上がれない。


だが、私には『大人の勝手で心が傷つけられた』という免罪符がある。柵を越えるくらいの権利があってもいい。


柵を跨いで越える。古いとはいえ普段使っている校舎だ、上の階だって別に大丈夫だろう。


階段を登って二階の廊下に出ると、一気に空気が変わる。真夏だというのに、空気がひんやりとしているのだ。かすかに埃の匂いも混じっている。


廊下には空き缶やレジ袋のゴミが落ちていた。花火の燃えカスまで落ちている。


──なるほど。


『出る』と噂される理由がわかった。おそらく夏休みになると、バカな生徒が夜な夜な勝手に立ち入っているのだろう。ここの雰囲気は、肝試しにはもってこいだ。そんなことのために、わざわざ旧校舎に侵入するなんて、他にすることがないのだろうか。


まぁ、私も人のことは言えないのだが。


ゴミを避けながら廊下を少し歩くと、わずかに扉が開いている教室があった。扉の上の、蜘蛛の巣がかかったプレートには『理科準備室』と書かれている。


隙間から中を覗く。薄暗い教室の中央に大きな長机が置かれているのが見えるが、準備室というわりに、道具や器具の類いは見当たらない。すべて新校舎のほうに移したのだろう。どうやらここは荒らされていないようだ。


またスマホを脇に挟み、扉を開けて中に入ると埃が舞った。思わず咳き込む。


持っているものを長机に置いて、窓に駆け寄り、一気に開く。


ジメジメした蒸し暑い空気が入ってくる。それでも、埃にまみれるよりはマシだ。あまり意味はないだろうが、室内の空気を外に出すように手で払う。


しばらくすると、呼吸が落ち着く。近くの椅子を動かして窓の前に置き、座面の埃を手で払って座る。


そして、窓の外に目をやる。


午前の授業のときと同じ二階から見上げているのに、青空に浮かぶ入道雲は、先ほどよりずっと近く感じる。


空を眺めながら菓子パンを頬張っていると、また今朝のことがフラッシュバックする。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「お父さん!?クロッキー帳は?」


居間で新聞を読んでいる父に詰め寄る。


私は家を出る直前だったが、異変に気づいた以上、確認を取らないといけない。私にとっては、それほどの事態だった。


「いったいなんだ?朝っぱらから」父は目を丸くしている。


「だから、クロッキー帳!ぜんぶないんだけど!」目を見開いて、深刻であることを父に訴える。


「クロッキー帳?ああ、あれか。もう要らないだろうから、まとめて──」


言い終わる前に、次の応酬を浴びせる。「どこ?どこにやったの!まさか捨てたとか言わないよね!?」


「玄関に置いてる」


居間を飛び出し、玄関へ走る。


──あった。


ビニール紐で括られた新聞の束の隣に、同じように括られたクロッキー帳の束が。


「もう必要ないだろう?お前のでもないんだし」居間から顔だけを出した父が言う。


「だからじゃん!これ、『お姉ちゃんの』クロッキー帳だよ。なんで勝手に捨てるの?」


「なんでって、日和ひよりも東京に持って行かなかったわけだし……」


「うっさいなぁ。朝からなに喧嘩してんの?」ワイシャツを着た兄が、自分の部屋から出てきた。締めかけのネクタイが、首から下がっている。


父が兄になにか言い訳をしているが、私は無視してクロッキー帳の紐を解き、部屋に戻す。


そして、感覚のズレた父に自分の主張をぶつけるため、ふたたび居間へ乗り込む。


「私がお姉ちゃんのクロッキー帳を大事にしてるの、知ってるでしょ!」


「そんなこと言っても、最近は開いてもなかったじゃないか」


父は頭をかきながら言う。彼の眉間には皺が寄っている。その顔が非常に腹立たしい。


この人は……。


「お父さんはなにもわかってない!」


自分の部屋に戻り、カバンを持って飛び出す。


玄関でローファーに足を通していると、後ろに立った父が声をかけてきた。


うた、これ弁当……」


振り返って睨みつける。私のお弁当を手に持った父は、ひとまわり小さく見える。


「要らない!」吐き捨てるように言って、家を出た。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


コトン……


音に驚いて体がのけ反る。


慌てて見回すも、教室には誰もいない。立ち上がって廊下を確認するが、人の気配はない。


「気のせい……?」


椅子に戻ろうと振り返ったとき、床でなにかが小さく光った。


指でつまんで、それを拾う。


「ビー玉?」


それは、わずかに青みがかった、ガラスのビー玉だった。模様も入っていない、どこにでもあるやつだ。


椅子に戻り、ビー玉を窓から差し込む陽の光に透す。ガラスを通る光が、屈折して目に届く。中に閉じ込められている小さな気泡も、光を受けてひとつ、ひとつが輝いている。


「綺麗……」


思わず、ため息を漏らす。


緊張の糸が切れたように、すっと肩が下がる。朝からずっと肩に力が入っていたようだ。


リラックスできたせいもあってか、しばらくビー玉を見つめていると、次第にまぶたが重くなってきた。視界が霞み、暗くなる──。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「詩、おねえちゃんの絵、スキ!」


クロッキー帳に描かれた絵を見ながら私は言う。後ろから伸びた二本の腕が、私の肩を抱きしめる。


「ありがとう、詩。お姉ちゃん、もっと頑張るね!」


姉の優しい声と暖かい腕に包まれ、とても心地よい。


「詩も大きくなったら、おねえちゃんとおんなじガッコに行く!詩、おねえちゃんみたいになりたい!」


「もう、可愛いこと言って〜!」


一層力強く抱きしめられる。彼女のさらさらの長い髪が私の鼻先に触れ、リンスの甘い香りがする。


私はこの香りが大好きだ。


──香りの思い出が、さらなる記憶を呼び覚ます。


ああ、そうだ。


当時、姉と私のあいだには、二人だけの約束があったんだ。


それは──



──スマホの振動音で目を覚ます。


椅子から立ち上がれないまま、しばらくぼーっとしているとスマホの振動が止まった。


部屋の雰囲気が少し変わっているように感じる。状況を理解するために寝ぼけた頭を回転させ、そして、窓の外を見る。日がだいぶ落ちてきている。


「やばっ!」


急いで椅子から立ち上がり、長机のスマホを手に取り時間を確認する。


時間はすでに放課後になっていた。午後の授業を完全にすっぽかしてしまった。


「あー……やらかした」


カバンは自分の教室だが、いま戻るのはいい考えではない。まだ生徒が残っている可能性が高い。


不幸中の幸いなのは、自分がいるのが旧校舎だということだ。このまま部室に入って時間を潰し、頃合いを見てカバンを取りに行こう。なんなら雪歩にお願いして取って来てもらえばいい。


理科準備室を出る。旧校舎は相変わらず静まり返っている。まぁ、それも吹奏楽部が音出しを始めるまでのことだが。


一階に降りて部室の前に来ると、窓からの灯りが薄暗い廊下に漏れていた。


「あれ……?」


窓から人影が見える。女子生徒がひとり、キャンバスに向かって鉛筆で絵を描いている背中だった。しかし、雪歩ではない。雪歩の髪は肩までの長さだが、窓の向こうにいる女子は腰くらいまである。鉛筆で線を引く腕が左右に振れると、明るい茶色の毛先がふわりと揺れる。


「誰……?」


廃部寸前の美術部に、ついに念願の新入部員が現れたのだろうか。いや、だったら午前のうちに顧問の桂木先生から報告があったはずだ。あの人が私に黙っているわけがない。


少し怖くなって反射的に一歩後ずさる。気づくと、階段のほうへと戻っていた。「立ち入り禁止」の柵を跨ぎ、二階へ続く階段の踊り場まで上がる。


そして、三回ほど深呼吸をして雪歩に電話をかける。


「もしもし?」いつものか細い声が耳に届き、少し安心する。


「もしもし?雪歩、いまどこ?」


「どこって、部室だけど。詩、なんで来てないの?」


雪歩も部室にいた……?まったく気づかなかった。


「ねぇ、新入部員が来てる?」


「え!?新入部員が来るの?どんな子?」


微妙に会話が噛み合わないことに、若干の苛立ちを覚える。


「じゃなくて……部室に来てんじゃん、女の子」


しばしの沈黙。胸がざわつき始める。


「え……部室は私しかいないよ」雪歩の声には、戸惑いが混じっている。


「いや、さっき廊下から見えたし。腰くらいの長さの茶髪の子」


雪歩は、ふふっと微かに笑った。


「そんな派手な子、美術部に来るわけないじゃん。……あ、別に詩がどうこうって言ってるんじゃなくて……」


確かに、外見の派手さなら私も負けていないだろうが、そんなことはどうでもいい。雪歩の魂胆がわからない。なぜ嘘をつく必要があるのだろうか。電話でこれ以上話しても埒があかない。


「もういいよ、そっち行くから」そう言って電話を切り、階段を降りる。


部室の扉の前に立ち、取っ手に手を伸ばした途端──突然、開いた。



向き合う顔を、私は知っている。しかし、頭がそれを処理できない。


パニックで喉が閉じてしまい、声が出ない。それでも、どうにか絞り出す。


「……お、お姉ちゃん?」


姉の日和が、そこに立っていた。


彼女はいま、東京にいるはずだ。こんな瀬戸内の田舎の学校ではなく。


しかし、顔は間違いなく彼女だった。それも、私と同じ制服を着ている。


高校生の姉が目の前にいる。


いったいどう納得したらいい?頭を必死に回転させ、答えを探す。


私の頭が答えに辿り着くより先、姉が口を開いた。


「やっと帰って来た。いったい、どこ行ってたの?」


口を開けるが、声が出ない。というより、なにを言ったらいいかわからない。


「いや〜、日和がまた自分の世界に入り込みすぎてたからさ。息抜きにおやつタイムにしようと思って」


真後ろで大きな声がして、思わず身体がのけ反る。


振り返ると、そこには桂木先生の顔があった。しかし、彼女もまた学生服姿だ。腕にはビニール袋を提げている。


学生服の桂木先生は、部室に入ろうと一歩踏み出す。目の前の私のことを無視するように。


いや、先生は私を無視しているのではない。見えていないのだ。


距離が近すぎて、避けるのが間に合わない。──ぶつかる!


「え……ちょっと!」咄嗟に両手で顔を守って、ぎゅっと目を閉じる。


──目を開けると、先生は私の後ろにいた。


「ほら、これ。差し入れのアイス」彼女はなにごともない様子で、ビニール袋から取り出したアイスの袋を姉に差し出す。


「やった〜!ありがと!」姉は無邪気によろこんでいる。


先生は、私をすり抜けて部室に入った。


あまりに突拍子のない出来事に驚いたが、逆にすぐに冷静になれた。


「ああ、そういうこと……。これ、夢か」

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