第15話 透明な時間と極端な切り捨て(結愛視点)
九条さんの口から、彼女の名前は以前から何度も聞いていた。
社内でも十年来の付き合いがあり、彼が「最も優秀な仕事仲間の一人」として絶賛していた女性社員。彼女が私たちのプロジェクトに加わることが決まった時、私は純粋に、これで少しでも業務が前に進むのだと期待を寄せていた。
しかし、彼女を交えた三人での最初のオンラインミーティングが始まった瞬間、画面を流れる空気の温度が、不自然なほど急激に下がるのを感じた。
二人きりで画面を挟む時、彼はいつも私という一点にすべての意識を向け、どんな小さな問題でも私の言葉を求めてきた。そのあまりにも真っ直ぐな熱量に、時には息苦しさを覚えるほどだった。
しかし、その日の画面の中にあるのは、私だけに向けていたあの焦げるような熱を完全に消し去った、見知らぬ他人のような冷たい横顔だった。
二人は私を置き去りにしたまま、滑らかなテンポで言葉を交わし、次々と彼女の意向を汲む形で施策の結論を出していく。まるで見えないガラス張りの二人だけの部屋にいるかのようだった。
彼女が意見を述べるたび、彼は深く頷き、熱心に言葉を返す。
しかしそれは、本来の目的を無視し、彼女の都合を優先させた的外れな施策にしか思えなかった。いつもの冷静で鋭い彼なら一瞬で見抜けるはずの矛盾にまったく気がついていないその様子に、私は得体の知れない違和感を覚えていた。
これは、明らかに彼女と仕事をすること自体が目的のプロジェクトだった。
私のマイクはミュートのままだった。スピーカーから流れる二人の声と、共有画面の上で目まぐるしく更新されていく資料の文字だけが、私の部屋の静寂を侵食していく。
私はただ、議事録のカーソルが点滅するのを、冷え切った指先で見つめることしかできなかった。
画面の端に映る自分の顔を見る。私はそこに確かに息をして座っているのに、二人の世界には私の姿など最初から存在していないかのように透明だった。
存在を消される、という感覚。
会議の終了予定時刻まで、残り一分を切った時だった。
画面の向こうの彼が、ふっと笑みを浮かべ、こちらに視線を向けた。
「あ、そういえば水瀬さんもいましたね。水瀬さんから何かありますか?」
その白々しい声が鼓膜に触れた瞬間、喉の奥がカチリと凍りつくような痛みを覚えた。
頭の芯が急激に冷えていく。誰も本当の私を見てくれない、誰にも私の叫びは届かない。分厚いガラスの向こう側に私一人だけが置き去りにされたような、あのどうしようもない孤独と激しい不安が、一気に肌の表面を駆け上がってくる。
私はこれ以上、ここにはいられない。
「その施策には、賛同できません」
カメラの死角で、私は強く唇を噛み締め、溢れ落ちる涙を必死に堪えていた。いや、滲んだ視界からすでにポロポロと涙が頬を伝っていた。
喉の奥からせり上がってくる嗚咽を無理やり飲み込み、今にも泣き出しそうな声をどうにか硬く保って絞り出した言葉だった。
画面の中の二人の会話が、ぴたりと止まった。凍りついたような沈黙がスピーカー越しに伝わってくる。
『時間が残り少ないので、その件は別途お伺いします』
ミーティングが終了し、画面が消えた静まり返った部屋の中で、私はキーボードの上に置いていた手をそっと引き、膝の上で固く握りしめた。
これ以上、あの歪な空間に身を置き続けることに、私の心は耐えられなかった。自分の内側が音を立てて崩れ壊していくような感覚から、どうしても逃げ出したかった。
私は九条さん宛てのチャット画面を開き、滲む視界のまま、震える指先で心の拒絶を打ち込んだ。
『認識の相違なのか考え方の相違なのか分からないですが、何かが根本的に違う様に思います。毎回同じ議論を繰り返し、プロジェクトも一向に進んでいない為、建設的な議論になっているとは思えません。それが改善できる見通しも今のところ見えませんし、私が反対意見を言うと振り出しに戻る為、このプロジェクトは、私抜きでお二人で進めた方がスムーズかと思います。私は他の案件が立て込んでいるので、抜けさせてください』
送信ボタンを押した直後、胸の奥が激しい後悔に締め付けられた。
(しまった、強く言い過ぎてしまった。彼を傷つけてしまっただろうか……九条さんに対する完全な拒絶だと捉えられてしまわないだろうか......)
取り返しのつかない拒絶として受け取られるかもしれないという不安に急き立てられるように、私はすぐさま言葉を継ぎ足した。
『言葉足らずで申し訳ございません。根本的に違うというのは、プロジェクトの目的と方向性に関する考え方の相違について話しておりました。九条さんのことは今も変わらず信頼しております。私にとって九条さんは、唯一無二のパートナーだと思っています』
メッセージを送信して間もなく、彼から『話せますか?』と短い連絡が入り、私たちは通話を繋いだ。
すると、彼は真剣な、焦りの滲むトーンでこう言った。
「私が一番信頼しているのは水瀬さんです。水瀬さんが感じる直感を何よりも信頼しています。そして、それが仕事のクオリティーを上げると思っています。よろしければその違和感について、表面的なところではなく、その奥深くを一緒に掘り下げさせてもらえないでしょうか?」
イヤホンから流れる彼の声は、どこまでも穏やかで、私のこわばった境界線ごと優しく溶かしていくかのように温かかった。
その言葉が鼓膜を震わせた瞬間、私の胸の奥で、長い間硬く閉ざされていた何かが音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
私は子供の頃から、とても感受性の強い子だった。すぐに泣き、すぐに笑う私を、姉たちはよくからかった。それが嫌で、私は次第に自分の感情に分厚い蓋をし、いつしかあまり笑顔を見せなくなってしまった。
母から「結愛ちゃん、笑って。あなたの笑顔は周りの人を幸せにするんだから」と何度言われても、どうしても自然に笑うことができなかった。
大人になってからも、その呪縛は続いていた。
九条さんと一緒に働き始めた頃、彼が「給料を倍にしてもいい。水瀬さんにはその価値がある」と言ってくれたことがあった。
それが心から嬉しくて、夫にその話をしてみた。けれど、返ってきたのは「その上司は見る目がないんだね」という冷たい言葉だった。
私は何も言い返すことができず、ただ一人、静かに涙を流すしかなかった。
私のそんな孤独な背景を、彼は知る由もない。
それなのに九条さんは、「水瀬さんはそのままでいい。何も変える必要はない」と、私の存在そのものを肯定する言葉を、事あるごとにさりげなく伝え続けてくれていた。
そして今、彼は私をずっと苦しめてきた『厄介で強すぎる感性』を、「何よりも信頼している」と言ってくれたのだ。
私にとっては、人生で初めて、自分のすべてをありのままで全肯定してもらった瞬間だった。
『あなたはありのままでいい。そのままで、宝石のように価値があるんだよ』
――そう言って、私の傷ついた魂を優しく抱きしめられたような気がした。
視界がぼやけ、涙が溢れそうになるのを必死に堪える。
その言葉の端々から伝わってくるのは、どこまでも私を受け止めてくれる懐の深さと、世界中の何からも私を匿ってくれるような、大きな、大きな包容力だった。
まるで、立ち尽くして泣いている私の前に彼がそっと膝をつき、同じ目線に合わせて、私の冷えた両手を温かい手のひらで包み込んでくれているかのような。
――そして、すがるように私の顔を見上げながら、「お願い、ここにいて。僕がすべて受け止めるから」と、切なく、優しい懇願されているかのような、そんな幻影さえ脳裏に浮かぶほどの、どこまでも真っ直ぐな響きがあった。
きっとこの人は、私以外の誰に対しても同じように優しい人なのだろう。
他人の感情の機微を誰よりも敏感に察知して、その人がその瞬間に最も必要としている救いの言葉を、さりげなく、息をするようにかけることができる。
なんて懐が深く、洞察力の優れた人なのだろうと、ただ単純にそう思っていた。
彼のこのあたたかな気遣いによって、これまで一体どれほど多くの人が救われ、孤独から引き揚げられてきたのだろう。
それが、仕事上の尊敬や憧れという枠をとうに超え、自分でも制御しきれないほど深く、切実な『恋心』に似た熱であることに、私はこの時、はっきりと気づいてしまったのだ。
どうしようもないほどに、身も心も、私のすべてを彼に委ねてしまいたい。
もっと必要とされ、もっと求められたい。
いつも応援ありがとうございます。萩雨 柊です。
【完結まで執筆済み】
最終話まで毎日21時に更新予定です。
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