母
※家庭内の心理的支配を想起させる描写があります。
電話を受けたとき、コップは机の端に置かれていた。
電話の向こうで、母の病状はかなり重く、白血病で、家族はできるだけ早く来てほしいと医師が言っている、と告げられた。
彼はコップを持ち上げ、また置いた。水面が揺れ、グラスの内側に触れて、かすかな音を立てた。
「分かりました」と彼は言った。
その日の夕方、彼は病院に着いた。
病室は廊下の突き当たりにあった。扉は半分開いていて、中には薬品と湿ったシーツの匂いがした。カーテンは半分閉められ、夕陽が床に落ちていた。色褪せた布のようだった。
母はベッドに横たわっていた。
前に会ったときより、ずいぶん小さく見えた。頬は落ち、唇は白く、手の甲には青い針の痕があった。足音を聞いて、ゆっくり顔を向けた。
「来たの」
「来ました、母さん」
彼は果物と花を棚に置いた。花は白く、きれいに包まれていて、まるで何かの式のために用意されたもののようだった。
母はそれを見た。
「そんなもの買ってきて、どうするの」
「途中で見かけたので」
彼はベッドの横に立ったまま、それ以上答えなかった。
しばらくして言った。
「先生は何と?」
「先生が何と言ったか、もう聞いているんでしょう」
「詳しくは」
「詳しく言われなかったから、見に来たのね。詳しく言われていたら、来なくてもよかったのでしょうね」
「母さん、そういう言い方は」
母は目を閉じ、胸を小さく上下させた。声は低かった。
「じゃあ、どう言えばいいの」
彼は椅子をベッドのそばへ引き寄せ、座った。
「何か食べたいものはありますか。買ってきます」
「食べられない」
「どこか痛いですか」
「どこも痛い」
「お金のことは心配しなくていいです」
母は目を開き、彼を見た。
「そういうことが言えるようになったのね」
「当然でしょう」
彼はうつむき、袖口を整えた。袖口は乱れていなかった。
病室はしばらく静かになった。ベッド脇の機械が細い音を立てていた。窓の外を車が通ったが、その音は遠かった。
母が手を伸ばした。
「こっちへ来て」
彼は手を差し出した。
母の手は冷たく、指の節は硬かった。それでも握る力は残っていた。
「痩せたね」と母は言った。
「仕事が忙しくて」
「忙しいのは知っている」母は言った。「あなたはずっと忙しい。母親が死にかけていても、人に電話されないと来ないくらいには忙しい」
「母さん、私は来ました」
彼は立ち上がり、布団の端を少し上へ引いた。
「少し休んでください」
「頼みたいことがある」
「言ってください」
母は彼を見つめた。灰色がかった顔に、急に少し色が差した。
「あなたと血を入れ替えたいの」
彼は理解できなかった。
「何ですか」
「血を入れ替えるの」母は言った。「私の血をあなたの身体に入れる。あなたは身体が丈夫でしょう。あなたが私の血をきれいにして」
彼はその場に立ったままだった。
「母さん、それには意味がありません」
「意味」母は少し笑った。「今は意味なんて言葉を使うのね」
「そういうことはできません」
「どうしてできないの。あなたの身体には、もともと私の血が流れているのに」
母はゆっくりと身体を起こした。
さっきまで、今にも折れそうな紙のように見えたのに、今はまっすぐ座っていた。布団が肩からずり落ちても、気にしなかった。
「そういう意味で言っているの」
「疲れます。横になってください」
「疲れていない」母は言った。「私はずっと、その言葉を待っていたの」
彼は母を見た。
「どの言葉ですか」
「あなたが『できない』と言うのを」
母の声ははっきりしてきた。
「あなたは小さい頃からそう。私が何かをしなさいと言うと、まずできないと言う。あの学校を受けなさいと言うと、できない。あの会社へ行きなさいと言うと、できない。人とうまくやりなさいと言うと、できない。最後はどうなったの?」
彼は答えなかった。
母は言った。
「最後は、どれも私があなたにやらせたでしょう」
「それは母さんがやったことではありません」
母はさらに背筋を伸ばした。
「私じゃない?」
「私だって努力しました」
「努力?」母はその二文字を軽く噛むように言った。「あなたの何が努力なの。机に向かって頭を下げていれば努力? オフィスに座っていれば努力? 毎月給料をもらえば、自分の力だと思っているの?」
「今は身体がよくないんです」
「身体がよくないから、もう聞かなくていいの?」
「そうではなく、興奮しないほうが」
「興奮なんてしていない」母は言った。「こんなにはっきりしているのは久しぶりよ」
母は布団をめくり、足を床へ下ろした。
彼の顔がわずかに動いた。
「母さん、横になってください」
「寝すぎたの」母は言った。「あなたはずいぶん楽に立っているのね」
母はベッドの縁につかまり、立ち上がった。
病衣は身体に対して大きすぎた。足はひどく細かった。けれど、母は立った。揺れもしなかった。
母は病床の前をゆっくり歩き始めた。まるで、自分のものだった部屋の広さを測っているようだった。
「私が、あなたのこれまでを知らないとでも思っているの。家を出れば本当に離れられるとでも思っていた? あなたの友達、誰を知らないとでも?」
「もうやめてください」
「あの佐伯さん。大学のあと、あなたとは距離を置きたがっていた。毎年、私があなたに連絡しなさいと言ったから続いていたのよ。あの林さん、あなたの結婚式に来るつもりはなかった。私が電話して、あの子は人づきあいが下手だけれど、心の中では人を大事にする子なんですって言ったの。あなたのいわゆる昔の友達は、みんなあなたより分別があった。母親がどれだけ大変か分かっていたもの」
彼は顔を上げた。
「連絡していたんですか」
「私が連絡しなければ、あの人たちがいつまでもあなたに付き合ってくれたとでも?」
「何の権利があってそんなことを」
「権利?」母は一歩近づいた。「私があなたの正体を知っているからよ」
彼は一歩下がった。椅子が足に当たり、床で音を立てた。
母は言った。
「結婚だってそう。どうしてあの人があなたにあれほど我慢できたと思っているの。黙っていて、冷たくて、何もかも内側にしまい込んで、そのくせ自分は高尚だと思っている男を、女が理由もなく我慢すると思う? 私がどれだけあなたを庇ったか。あなたが病気のときは、子どもの頃から表現が苦手なんですと言った。あなたが家に帰らないときは、仕事が忙しいんですと言った。あなたが仏頂面をしているときは、心の中ではあなたのことを大切にしているんですと言った」
「もう十分です」
「十分じゃない」母は言った。「あなたはまだ立っている」
彼は椅子の背に手を置いた。
母はその手を見た。
「立つこともできないのね」
病室の外を誰かが通り過ぎたが、止まらなかった。
母の声はさらに安定していた。
「小さい頃、私が抱いて、食べさせて、言葉を教えた。学校は私が選んだ。恋愛は私が相手を見た。仕事は私が頭を下げた。結婚は私が丸く収めた。あなたの一歩一歩は、私が引っ張って歩かせたものよ。私が死にかければ、その糸を切れると思った?」
彼は声を出さなかった。
「ずっとこの日を待っていたんでしょう」母は言った。
彼は顔を上げた。
「何をですか」
「私がもうすぐ死ぬと聞いて、少し楽になったでしょう」
母は言った。
「隠さなくていい。私が産んだんだから分かる。来る途中、花を買ったとき、心のどこかで思ったんでしょう。やっと終わるって」
「母さん、病気なんです」
「病気だから、あなたは嬉しいの」
「嬉しくありません」
「嬉しい」母は言った。「あなたは昔からそう。悪いことを浅いところに隠して、誰にも見えないと思っている」
彼は口を開いたが、何も言えなかった。
母は彼の前に立ち、見上げた。母のほうが背は低い。それなのに、その瞬間、母は高い場所から彼を見下ろしているようだった。
「冷たい子」
彼は一度、目を閉じた。
母は言った。
「私がここに横になってどれだけ経ったと思っているの。何回来た? 何回電話した? 痛いかと聞いた? あなたはいつも、人に親孝行を代わりにさせる。今やっと来て、先生は何と言ったか、お金は心配しなくていいか、そんなことを二、三言えば、もう済んだつもり?」
「これからは、もっと来ます」
母は突然、彼の袖をつかんだ。
「今すぐ入れ替えて」
「母さん」
「入れ替えるの」
「できません」
「あなたの血をちょうだい」母は言った。「私が命をあげたのよ。少しくらい血を返すのに、何ができないの?」
「それは返血ではありません」
「じゃあ何なの」
「そんなのは、正気の話ではありません」
母は手を離した。
顔が急に冷たくなった。
「私を気が狂っていると言ったのね」
「そういう意味では」
「私を気が狂っていると言った」母はうなずいた。「いいわ。今度はあなたが私を裁く番なのね」
「裁いてなんかいません」
「ずっと裁いていた」母は言った。「私が何かさせると、あなたは支配だと言う。私が段取りをすると、干渉だと言う。私が頭を下げると、恥ずかしいと言う。私があなたを泥の中から引き上げたのに、あなたは私が服を汚したと言う」
彼は椅子にもたれて立っていた。
母は言った。
「私を裁くには遅すぎる」
そう言い終えると、母はまたベッドの端に座った。倒れ込むのではなく、自分の席に座るように。
「来なさい」
彼は近づいた。
「言いなさい。私は望みます、と」
彼はうつむいた。
「望みます」
「何を?」
唇が動いた。
「母さんと、血を入れ替えることを」
母は彼を見て、突然笑った。
最初は小さかった笑い声が、だんだん大きくなった。母は身体を曲げて笑い、何度か咳き込み、それでも笑った。
彼はベッドの横に立ち、母を見ていた。
笑い終えると、母はまたベッドに横たわった。顔色は白く戻り、呼吸は浅くなり、手の甲の針の痕はまた脆く見えた。さっき床に立っていた人間は、存在しなかったかのようだった。
母は手を伸ばし、彼の手の甲に触れた。
「ばかな子」と母は言った。「母さんが、あなたの血なんて欲しがるわけないでしょう」
彼は動かなかった。
「さっきの、怖かった?」母は優しく聞いた。
「いいえ」
「病気で少し変なことを言っただけよ。冗談」
「分かっています」
母は言った。
「ほら、やっぱりあなたは母さんを愛している」
「はい」
「これからは会いに来てくれる?」
「来ます」
「毎日?」
彼は一瞬止まった。
母は見ていた。
「毎日」と彼は言った。
「そばにいてくれる?」
「います」
「もう私を一人でここに寝かせたりしない?」
「しません」
母は目を閉じた。満足したようだった。
「それでこそ、私の息子」
彼はしばらく立っていた。それから、布団をきれいにかけ直した。動作は軽かった。母はそれ以上話さなかった。
彼は果物の袋を整え、花瓶を窓際へ移した。花はまだ開いておらず、白い花びらが押し合うように重なっていた。
「母さん、今日はこれで帰ります」
母は目を開けなかった。
彼は振り返り、扉のところまで行った。
「待ちなさい」
彼は止まった。
母はベッドに座っていた。
いつの間に起き上がったのか分からなかった。背筋はまっすぐで、両手は膝の上に置かれていた。布団は身体から滑り落ち、ベッドの脇に垂れていた。
母は彼を見ていた。
「そうやって帰るの?」
「さっき眠っていましたから」
「私が眠ったら、帰るの?」
「明日また来ます」
「明日」母は言った。「ほんとうに言葉を選ぶのがうまい子」
彼は向き直った。
「母さん、ほかに何が必要ですか」
母は彼を見つめた。長いこと。
「あなたには失望したわ」
「私がこんな病気なのに、まだ帰ることを考えている。毎日来ると言ったのは、ここから逃げるため。血を入れ替えると言ったのも、逃げるため。あなたの言葉は一つ一つ、全部ここから出ていくためのもの」
「違います」
「違わない」
母は片手を上げ、扉を指した。
「今すぐ死になさい」
彼は扉のところで、少しうなずいた。
「はい、母さん」
病室を出て、そっと扉を閉めた。
廊下は長かった。白い灯りが一つずつ続いていた。床はきれいに拭かれていて、彼の足音はそこに落ちても反響しなかった。
外はもう暗くなっていた。
病院の裏には川があった。
彼は上着のボタンを留め、そこへ身を投げた。




