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3話 覚醒、静寂の空の下で

 視界の端で、柔らかな陽光が揺れている。

 鼻を突くのは、死臭でも硝煙でもない。洗いたてのシーツが放つ、淡い洗剤の匂いだ。


「ここは……」


 耳に届くのは、規則的に刻まれる機械の電子音。

 見上げた天井は、どこまでも平坦で、白かった。

 ゲーティアの陣幕のようなすすもなければ、王宮のような華美な装飾もない。ただ、無機質で、けれど圧倒的に「安全」な空間。


 体を起こそうとして、指先に走る感覚に違和感を覚える。

 剣を握り込み、無数のタコに覆われていたはずの掌は、驚くほど滑らかで、華奢だった。


 次の瞬間、脳の奥底でダムが壊れたように記憶の奔流が溢れ出した。


 降り注ぐ槍の嵐、オヤジの豪快な怒号、団長の紅いマント。

 そして、あの光の中で溶けていった仲間たちの笑顔。

 《レメゲトンの魂器(レメゲトン・レリック)》――俺が放った、最後にして最強の禁忌。


 それと同時に、もう一つの記憶が鮮明に浮かび上がる。


「……青山、隼人(はやと)


 そうだ。俺はこの世界で、そう呼ばれている。

 戦いとは無縁の国、日本。

 朝起きて、学校へ行き、友人と笑い、夕暮れには家路につく。

 そんな「()()」という名の奇跡を享受していた少年の記憶。


 かつてゲーティア傭兵団で、呪われた魔剣士サミナギとして死線を越えてきた「俺」と。

 平和な現代で、明日を疑いもしなかった青山隼人としての「俺」。

 二つの魂が、今、この華奢な体の中で静かに一つへと溶け合っていく。


 窓の外を見れば、そこには整然と並ぶ家々と、見慣れぬ鉄の箱が走る道が広がっていた。

 あの戦場から、どれほどの時が流れたのか。あるいは、どれほど遠い地平へ辿り着いたのか。


 だが、確かなことが一つだけある。

 俺は――生き残った。

 仲間たちが、その魂を賭して俺を「未来(いま)」へと押し出してくれたのだ。


「……ふっ、全く。最後の最後まで、世話が焼ける連中だ」


 俺は、隼人の記憶にある「制服」という名の外套を羽織り、ゆっくりとベッドから足を下ろした。

 体は軽い。魔力の残り香は微かだが、あの場所で学んだ「生き残るための呼吸」は、今も魂の深層に刻まれている。


 魔剣士サミナギとして。そして、青山隼人として。

 俺はこの「平穏」という名の新しい戦場を、彼らに誇れるように生きていく。


 カーテンを開け放つ。

 眩いばかりの青空が、俺の新しい人生を祝福するように広がっていた。


 青山隼人としての記憶は、確かに俺の中に根を張っている。

 朝起きて、スマホを眺め、退屈な授業をやり過ごす。そんな、平坦で起伏のない十七年分の月日。


 だが――今、俺の魂を支配しているのは、一秒先に死が待つ地獄で、仲間と共に咆哮を上げた「サミナギ」としての記憶だった。

 泥を啜り、返り血を浴び、命の重さをその腕に感じてきた日々。生き延びることそのものに価値があったあの世界から来た俺にとって、この「平和」はあまりに眩しく、どこか現実味を欠いていた。


 そんな俺が、隼人として目覚め、初めて口にした「朝食」。


 立ち昇る味噌汁の芳香。炊き立ての白米から上がる、真っ白な湯気。

 焦げ目のついたウインナーと、黄金色の目玉焼き。

 目の前に並べられたその光景に、俺の箸を持つ手が不自然に止まった。


「……うまい」


 声が、勝手に漏れた。

 オヤジが焚き火で雑に焼いた、焦げて筋張った獣の肉。あれはあれで、生きるための糧として悪くなかった。

 だが、これは……違う。あたたかくて、どこまでも優しい。

 “母親”が家族のために作る料理。それがこれほどまでに、冷え切った魂の深層にまでじんわりと染み渡るものだとは、思いもしなかった。


 ふと視線を感じて顔を上げると、隼人の妹が不思議そうにこちらを凝視していた。


「兄ちゃん、今日どうしたの? そんなに感動するようなメニューじゃないでしょ」


「あ……いや。ちょっと、猛烈に腹が減っててさ」


「ふーん……なんか、今日の兄ちゃん変」


 妹は小首を傾げ、怪訝そうに自分の茶碗に視線を戻した。


 無理もない。

 俺が最後に喉を通した「飯」は、敵の怒号と金属音が響き渡る中、泥まみれの手で口に放り込んだ硬い携帯食だった。

 それに比べれば、清潔な椅子に座り、安全な家の中で、温かく滋味深い食事を供される――。その事実だけで、ここは神話に謳われる天国よりもなお、救いに満ちているように思えた。


「……お、おかわり。もらってもいい?」


 隼人の記憶にある「少食でクールな高校生」という役柄を忘れ、つい言葉が口をついて出た。


 母親が、驚いたように目を丸くしてこちらを見やる。


「珍しいわね、隼人。そんなにお腹が空いてるなんて、風邪でも治りかけかしら?」


「……いや。今日の味噌汁が、特別うまかったんだ。本当に」


 俺は、一滴も残さず飲み干した椀を差し出した。

 それは決して、空世辞などではない。心からの本音だった。

 刃を枕に眠る必要のない世界で、誰かの愛情が形になった食事を摂る。

 こんなにも「優しい味」を、俺は、サミナギは、生まれて初めて知ったのだから。


 白米を咀嚼するたび、腹の底からじわりと熱が広がっていく。

 ゲーティアの誇りは、今も胸にある。だが、今はただ、この一杯の汁物に込められた平和を、噛み締めずにはいられなかった。


 ――――――――――――――――――――――――――――――


 鏡の向こうに立つ「青山隼人」という存在を、(サミナギ)の魂はまだ拒絶していた。


 ――この、薄っぺらで貧弱な肉体。


 あいつらがこの姿を見たら、一体どんな顔をするだろう。

 ベルリアンなら、あの不敵な破顔で「おい、そんな枝のような腕で誰を守るつもりだ?」と笑い飛ばすに違いない。

 オヤジなら、眉間に深い皺を刻んで「情けねぇ、一から叩き直してやる」と拳を固めるだろう。

 ストラノアだけは、何も言わずに憐れむような視線を逸らしてくれるかもしれない。


 だが、他ならぬ俺自身が、この覇気のない17年間の「ツケ」を許せなかった。

 命を繋ぐための筋肉も、敵を屠るための瞬発力も、ここには何一つ存在しない。


「……戻ってやるさ。あの誇りに、相応しい俺にな」


 俺は、細い指先を自身の肉体へと向けた。

 体内に微かに残る魔力を練り、筋繊維の一つひとつに微細な刺激を与える。超回復を強制的に促し、肉体を魔法で「調律」していく。

 だが、結局のところ、魔法は補助に過ぎない。

 泥を噛むようなプッシュアップ、膝を震わせるスクワット、肺が灼けるような深夜のランニング。

 失われた年月を埋めるには、一歩ずつ、この大地を蹴り続けるしかなかった。


 トレーニングの合間、ふと腕の内側に目を落とした。

 ……そこには、何もない。


 かつてゲーティア傭兵団の団員であることの誇りとして、魂と共に刻んだあの刺青は、影も形もなく消え失せていた。

 白く、滑らかで、あまりにも無垢な皮膚。


 すべらせた指先が、何もないはずの場所をそっとなぞる。


 その瞬間、決壊した。

 ベルリアンの傲岸な笑い声。ストラノアの冷静な、けれど温かな忠告。

 オヤジの獣臭い抱擁。飛び散る血、砕ける鋼、そしてあの日、俺たち全員で打ち砕いた絶望の魔法陣――。


「……クソ……っ」


 気づけば、視界が滲んでいた。

 もう、会えない。あの風を、あの匂いを、二度と共有することは叶わない。

 それでも、あいつらが放った魂が、俺の術式によってどこかへ「転生」したのだとすれば。

 その微かな、あまりにも儚い祈りだけが、今の俺を繋ぎ止める唯一の希望だった。


「ここが『平和』なら、俺にとっては……広すぎる『牢獄』だな」


 禁忌の術を使い、一人だけ意志を持って目覚めてしまった罪。

 だからこそ、俺はこの身体を、あいつらが笑わないレベルにまで叩き上げる。

 この世界でどう生きるべきか、戦いのない日常で何を成すべきか、まだ答えは見つからない。

 だが、たった一つ、譲れない真実がある。


 ――俺が歩みを止めた時、本当の意味で“ゲーティア”は死ぬ。


 だから俺は、今日も重力に逆らい、己を追い込む。

 皮膚の下に眠る「誇り」を、もう一度、この現世に呼び覚ますために。


 俺は再び、夜の冷気の中へと駆け出した。


 ――――――――――――――――――――――――――――――


 それは、転生して数日が過ぎた、ある黄昏時のことだった。

 日課となったランニングの帰り道。肺を焼くような呼気を整えながら、いつもの公園を通りかかったとき、俺の「索敵本能」が微かな違和感を捉えた。


 ベンチの周辺にたむろする、数人の若者たち。

 その中心に立つ、一際体格のいい男――黒崎竜二。

 隼人の記憶によれば、中学時代からの腐れ縁であり、この界隈を締める「番長」というか、隼人が最も恐れていた人種の一人だ。だが、今の俺にとって、それは牙の生え揃わない仔犬の群れにしか見えなかった。


 ……はずだった。


 だが、黒崎から漂う、その「気配」に触れた瞬間、俺の全身の毛穴が逆立った。

 熱く、重く、血と獣の匂いが混じり合う――戦場で幾度となく背中を預けてきた、あの懐かしすぎる魂の波動。


「おい、なんだよアイツ。こっち見てるぞ」

「青山……? ああ、あのモヤシか。無視しとけって」


 周囲の取り巻きがざわめくが、俺の耳には届かない。吸い寄せられるように、俺は黒崎の前へと歩みを進めた。近づくほどに確信が深まる。この眼光、この重心の置き方、そして底に眠る荒ぶる戦鬼。


 間違いない。この男の器の中にいるのは――。


「……オヤジ?……グラシアスのオヤジなのか?」


 震える声で、その名を呼んでいた。


 一瞬、公園の時が止まった。


「……は? グラ…今、なんて言った?」

「オ、オヤジ……? 黒崎さんのこと……?」

「うわ、何あいつ。いきなり家族認定? 宗教か何かかよ」


 周囲の不良たちが、冷やかし混じりの嘲笑を浮かべる。だが、黒崎だけは笑わなかった。

 彼は、まるで雷に打たれたかのように硬直し、俺の目を――サミナギの魂を、射抜くように凝視した。


 その瞳の奥に、かつての“血塗れの将軍”の熾火が灯る。


「……サミ……ナギ、か……?」


 掠れた、けれど芯の通ったその声。

 次の瞬間、俺たちは言葉を介さず、互いに踏み込んでいた。

 がっちりと腕を回し、骨が軋むほどの力で抱き合う。隼人の華奢な体と、黒崎の屈強な体がぶつかり合い、互いの体温を、魂の存在を、むさぼるように確かめ合った。


「……本当に、転生してやがったか、オヤジ……ッ!」

「お前こそ、しぶとい野郎だ……。随分と、ひょろっこい器に入りやがって」


 背中を叩く拳の感触は、確かにあの戦場のものだった。昨日まで隣で剣を振るっていたかのような、あまりにも自然で、けれど奇跡のような再会。


 だが、この感動的な沈黙を切り裂いたのは、取り巻きたちの悲鳴にも似た困惑だった。


「え……? マジ……?」

「黒崎さん、そっちのがあったんですか……?」

「青山とハグ……? しかも、めちゃくちゃ熱烈じゃん……」


 引き攣った顔で後退りする不良たち。その視線に気づいた瞬間、俺たちの脳内に「現代社会の常識」が猛スピードで帰還した。


「あ、ち、違うんだ! これは……その!」

「そうそう! 幼馴染なんだよ! 2年ぶりくらいに会ったから、ちょっと感極まっちまってよぉ!」


 黒崎が慌てて俺を引き剥がし、真っ赤な顔で頭をかきながら必死の弁明を始める。俺もつられて、冷や汗を流しながらぎこちない苦笑いを浮かべた。


「そうなんだ、昔、プロレスごっことかしてた仲でさ……!」


 苦しい言い訳を並べ立てながら、俺たちは視線を交わし、同時にふっと口元を緩めた。

 周囲がどれほど引いていようと、関係ない。

 この狂った世界で、またあの「家族」に出会えた。その事実だけで、この第二の人生は、何よりも価値のあるものに変わったのだから。

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