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13話 決戦前夜

 決戦までの二週間は、疾風怒濤のごとく過ぎ去った。


 期末テストも、オヤジたちとの連日の特訓も、今の俺にとってはすべてクリスマスデートというメインイベントへ向かうための「作業」に過ぎなかった。学年を震え上がらせる難関科目の数々ですら、デートを前にした俺の目には、初期ステージのゴブリン程度の雑魚にしか見えなかった。


 青山隼人としての、たった一つの、けれどあまりに巨大な夢。

 それを叶えるために、俺は完全に浮き足立っていた。いや、特訓中にオヤジから「お前、さっきから足が地面に着いてねえぞ」と呆れられたから、文字通り物理的に浮いていたのかもしれない。


 欲しかったゲームを我慢して貯め込んだ貯金と、必死に働いたバイト代のすべてを引き出し、服屋の店員さんに頭を下げて「一番格好いいやつ」をコーディネートしてもらった。

 そして、とうとう運命の12月24日。俺の人生で最も重要な日が幕を開けた。


 ――――――――――――――


 デート場所は、横浜赤レンガ倉庫。

 華やかなイルミネーションが煌めくクリスマスマーケットに、俺たちはいた。

 心臓の鼓動は早鐘を打ち、今にも肋骨を突き破って飛び出しそうだ。


「その……私も、こういうのは初めてだから。前世でも、今世でもね」


 隣を歩く白川さんは、いつもの制服姿とは違う清楚な私服に身を包み、少し照れくさそうに微笑んだ。


「それは俺も同じだよ。正直……ドラゴンを相手に死線を潜っていた時よりも緊張してる」


「あはは、わかる。ほんと、それよね」


 俺たちはどこかふわふわとした足取りで、マーケットの喧騒へと足を踏み入れた。


「すごい人だね」

「流石に、聖夜の横浜を甘く見てたよ……」


 会場は、幸せそうな恋人たちや家族連れで溢れかえっていた。甘いシナモンとお菓子の匂い、華やかな音楽。そこには理不尽な戦争も、呪われた前世も存在しない、幸福そのものの空間が広がっていた。


 あまりの人混みに、気を抜けば一瞬で離れ離れになってしまいそうだ。

「やばい、白川さんを見失う……」

 俺は勇気を振り絞り、咄嗟に彼女の右手を握りしめた。


「あっ……」


 白川さんは顔を真っ赤に染め、俺の手をぎゅっと握り返した。

 その手は、驚くほど小さかった。

 あまりにも華奢で、頼りなくて、けれど温かい。


 前世で戦友として、何度も腕相撲に興じ、勝利の握手を交わしたあの「ストラノアの手」とは、まるで違っていた。知略を尽くし、冷徹に軍を動かしたかつての男の節くれだった手ではなく、今ここにいるのは、ただの、柔らかくて愛らしい一人の少女の手だ。


 この手を、再び血に汚れた復讐の戦場に連れて行くことなんて、俺にはできない。

 守るべきなのは、かつての栄光でも、壊れた家族の再興でもない。


 この掌から伝わる、17歳の「白川希良梨」の体温だ。


 俺の心は、もう決まっていた。


 ――――――――――――――


 クリスマスマーケットの熱気に当てられながら、俺たちは屋台の食べ物で腹を満たし、立ち並ぶ出店を冷やかして回った。


 ふとした拍子に目が止まり、お揃いのチャームを買った。

 かつての俺たちなら「戦場に色気は不要だ」と一蹴したであろう、華奢でキラキラした、いかにも現代の高校生らしいデザイン。それを見つめ合いながら、俺たちは過去の自分たちの堅苦しさを思い出しては、可笑しそうに笑い声を上げた。


 白川さんの手には、俺が贈ったミトン型の手袋がはめられている。

 ……正直に言えば、妹に泣きついて選んでもらったものだが、彼女はそれを宝物のように見つめている。

 そして俺の首元には、彼女から贈られたばかりの、編み目の温かなマフラー。


 夜の港から吹き付ける冷たい海風が、今は少しも寒く感じられなかった。


「……似合ってるわよ、サミナギ。そのマフラー、あなたの昔の瞳の色に合わせたの。……あ、違う。今は『隼人くん』だったね」


 白川さんは自分のミトンを頬に当てて、照れくさそうに首を傾げた。


「ああ、ありがとう……白川さん。この手袋も、君にぴったりだ。……ストラノア、お前がこんな可愛らしいものを身に着ける日が来るなんて、前世の軍議室の連中に見せてやりたいよ」


「ふふ、言えてるわね。……でも、不思議。あの頃は鉄の冷たさしか知らなかったこの手が、今はこんなに柔らかくて、温かい。ねえ、隼人くん。私はもう、この温もりを手放したくない……重い鎧を纏って、冷たい石の城に戻るなんて、もう考えられない」


 彼女の手が、俺のマフラーの端をぎゅっと握りしめる。その指先から伝わる震えは、ストラノアとしての恐怖ではなく、白川希良梨としての切実な願いだった。


「俺も同じだ。……サミナギとして、ベリアルの理想は理解できる。裏切りの落とし前もつけなきゃならない。……だけど、青山隼人としての俺は、明日も、その次も、君とこうして笑っていたいんだ。たとえそれが、ゲーティアの復興という『大義』に背くことになったとしても」


 俺は彼女の手の上から、マフラー越しにそっと手を重ねた。


「明日の夜、俺はベリアルに告げる。……俺たちの家族は、もうあの血塗られた戦場にはいない。俺たちの帰る場所は、この光溢れる横浜の街なんだって」


「……ええ。私も一緒に行くわ。軍師ストラノアとしてじゃなく、あなたの隣にいたい『白川希良梨』として」


 煌めく大観覧車の光が、ゆっくりと彼女の瞳の中で回っている。

 かつて戦場を冷徹に見据え、数多の命のやり取りをチェス盤のように眺めていた軍師の瞳。それが今、目の前のひとりの少年への、痛いほどの恋心で潤んでいた。


「隼人くん……」


 吐息が白く弾け、彼女が顔をわずかに上向かせる。

 俺は、マフラーを握りしめる彼女の小さな手に、自分の手を重ねた。

 ストラノアとして歩んできた前世、そして白川希良梨として生きてきた17年。そのすべてがこの一瞬に収束していくような、不思議な静寂。


 吸い寄せられるように、俺は顔を近づけた。


 触れるか触れないか、そんな微かな迷いをかき消すように、彼女がそっと目を閉じる。

 重なった唇は、冬の夜風に晒されていたせいで少し冷たかったけれど、内側からは驚くほど熱い体温が伝わってきた。


 生まれて初めての、キス。

 心臓が耳のすぐ横で鳴っているみたいにうるさい。


 ほんの数秒のことだったはずなのに、永遠に続く戦記の1ページよりも長く、重く感じられた。

 唇を離すと、彼女の睫毛が震え、潤んだ瞳がゆっくりと俺を捉えた。


「……これ、ストラノアとしての契約じゃないわよ」


 少しだけ声を震わせ、彼女はいたずらっぽく、けれど泣き出しそうな笑顔で言った。


「わかってる。……青山隼人と、白川希良梨の……約束だ」


 俺たちはもう一度、今度は指を絡ませるようにして強く手を繋いだ。

 明日、ベリアルがどんな絶望を突きつけてこようと構わない。

 この唇に残った柔らかな感触と、胸を満たすこの熱量があれば、俺たちはどんな地獄だって撥ね退けてみせる。


 幸せな聖夜の喧騒が、決戦前夜の静寂へと、ゆっくりと溶け込んでいった。


 ――――――――――――――


 12月25日、夜。

 約束の時間は、刻一刻と迫っていた。


 冬の星座が凍てつく空にまたたく中、廃工場の屋上で黄田結――ガーウィップが、静かに天を仰いだ。その指先は無意識に星の軌跡をなぞっている。


「星の巡りは……悪くないわ。ええ、大丈夫。運命の女神はまだ、私たちのことを見捨ててはいない。……多少の痛みは、伴うかもしれないけれどね」


 彼女の星読みは、前世でも一度として外れたことはなかった。もし、あの決戦の日に彼女が病に倒れていなければ、ベルリアンの暴走も、あんな悲劇的な結末も防げていたのかもしれない。すべては残酷な運命の悪戯だったのか。


「おいおい、俺たちの天才参謀がそう言うんだ、負ける気がしねえな。数は9対1だ。いかにベルリアン……いやベリアルとはいえ、この9人を相手にして無傷で済むはずがねえだろ!」


 ザガナスが威勢よく腕を回したが、直後に「あ痛たたた……!」と情けない声を上げてうずくまった。ここ数日の無茶な特訓が祟り、現代っ子の身体は悲鳴を上げていたのだ。


「ちょっと、大丈夫なの? 筋肉痛で盾役タンクが務まるかしら」

 アグレイスが、呆れたように腰に手を当てる。


「うーん、正直心配だわ。まぁ、あっちだって中身は化け物でも、ガワはただの女子高生なんだし。私たちにも十分勝機はあるはずよ」


「……お前、せっかく美少女に転生したのに、喋り方がどんどん前世のオカマっぽくなってないか?」


 アズムンドの容赦ない突っ込みに、アグレイスは「何よ! 失礼しちゃうわね!」と、ポニーテールを揺らして憤慨してみせた。


「身体は乙女になっても、心は誇り高きオカマのままなの! 文句ある!?」


 張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。

 これから始まるのは、もしかしたら命の奪い合いになるかもしれない戦いだ。誰もが心の底では震えていたはずだが、仲間たちはあえて軽口を叩き、互いの緊張をほぐし合っていた。


「……行くか」


 俺は首元のマフラーを指先でなぞり、白川さんと視線を合わせた。

 彼女は力強く頷き、そして一歩前へ出た。


 運命の20時。

 廃工場の空間が、パキリと音を立てて凍りついた。

 闇の奥から、圧倒的な質量を持った「死」の気配が近づいてくる。

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