【第五話】二人での晩餐会
第五話 二人での晩餐会
〜 姫エルサ side 〜
ルカが私の護衛として仕え始めて、早くも数ヶ月の月日が経とうとしていた。
重大な責務への同行、私の身の回りの世話や用事、騎士団とのパイプ役など。
いろんな面で私を支えてくれ、私は以前とは比べ物にならないほど助けられていた。
それは実務的な面ではもちろんのことだが、それ以上に精神面、心が救われていた。
ルカと一緒にいると心が安らぐ。
変に気を張って自分を演じる必要が薄まり、どんな小さな会話にも快適さや楽しさを感じた。
さらに時間を共に過ごすことにより、ルカへの信頼が実績と共に積み重なっていき、私はルカを信頼していた。築き上げられた確固たる信頼を元に、相変わらず好意も抱いていた。
そんな安心感に包まれて出来上がった幸福感が、日々のなかに生まれつつあった。
こんなふうに一緒にいて居心地が良く安心感を抱けるなら。信頼できる護衛がいるのなら。
もしルカと一緒にいられるなら。
ずっと私の護衛でいてほしいと密かに願った。
私は、その気持ちに名前をつけることをあえて避けた。
そのことを考えそうになる度に、私はあえて見ないふりをして目を逸らし続けた。
気づかないふりをし続けた。
それは自分を守るため、それとも国を守っていくためか。
姫と騎士、責務と護衛、信頼と愛情、それ以上に……。
物心がついたときから、自分の立場を理解したときから、自分の生まれを考える年齢になってから、私は自分の気持ちに蓋をし続けて生きてきた。図書部屋でいろんな世界を生きる人々の物語を読むたびに、空想の世界にふけった。
もし、私が異なる国の生まれだったら。
もし私の性別が異なったなら。
もし私の心から湧き上がる感情が違ったなら。
そんな仮定の世界を空想しては、現実に戻ってきた時の絶望が深くなってしまうのに。自分以外の人間にはなれないのに。私はもはや自分ではない自分をどこまでも想像しては、そのギャップに苦しみ、どうにもできない現実を憎んですらいた。
でも、いまは少し違う。
ルカがいるから。
仮に想いは伝えられずとも、その想いを表に出すことは出来ずとも、私の心はたしかに救われている。
いまはこのまま。そして、それがずっと続けばいい。
いまはこのまま、が連続して未来を紡いでいってくれればいい。
だって、この気持ちを一度でも口に出してしまったら、もう私は私でいられなくなる。
この国の姫であるという私ではいられなくなる。
でも、もしいっそのこと、この隠し通してきた想いを口にすれば、私は「私」に戻るだろうか。
姫でもなく、ただ一人の女として、女を愛する人間に。
ただ、たった一瞬でもそんなことをしてしまったら、この時代の、この国ではもう生きていけなくなる。
空想するだけ虚しいのに、現実に意識を戻した瞬間に悲しくなってしまうのに、私はいつも空想の世界へと逃げ込んでいた。そうやって、いままでも自分で自分の心を救ってきた。
初恋は、同い年の学友だった。勉学に関しては立場上、基本的には先生と一対一での授業が主だったが、週に一度は同い年の学友たちと一緒に授業を受ける機会があった。
二十名ほどが一つの教室に集められ、先生の話を聞く。
ときには意見を交わしたり、共同で課題をこなしたりもした。
課題をこなすためのグループに分けられるとき、男子は青色の札をもらう。女子は赤色の札をもらう。
ちょうど半分ずつに色分けされたクラスメイトたち。
そんな二十名のなかに、友情というには強すぎる感情を持った相手がいた。
私が握りしめている札は赤色。女子に配られた色。
私が強すぎる感情を寄せていた子も、赤い札を持っていた。
まったく同じ色。
どうして。
私は誰にも言えなかった。同じ色というだけで、こんなにも遠かった。
「違う色を持った人同士で、ペアを作ってください」
先生がクラスメイトたちに大きな声でそう言う。それが当たり前だということに疑う素振りすら見せずに。
私は、たとえ同じ色でも、あの子が良かった。
いや、もっと言うなら、同じ色だからこそ、あの子が良かった。
青色の札が欲しいわけじゃない。
決してそうではなくて、同じ色でもペアになって良い。
そんな未来があればいいのにと願っていた。
私は当時、自分の赤色の札をクシャっと握りつぶした。
もう一度それを開くと、もう二度と元には戻らないシワがたくさん刻まれていた。
私は自分で自分の気持ちにシワを付け、傷をつけた。
そして、誰にも言えない孤独を一人で抱えた。
「どうかされましたか? 表情が……」
そんな孤独な初恋を思い出していると、ルカが顔を覗き込んできた。
「ううん、ちょっと考えごとをしてただけ」
まだ心配そうにルカは私の目を覗き込んでいる。私は話題を変えようと、晩餐会の話をする。
「今日の晩餐会、ルカも同席してね」
ルカが少し困ったように頭を掻くように触った。ふわりと赤い髪が揺れて良い匂いがする。
「今日は騎士団の模擬実戦の訓練があります。終わり次第すぐに向かいますので、甲冑姿での参列になりますが、よろしいでしょうか?」
そうだ、すっかり頭から抜けていたが、国民に公開して行う模擬実戦が今週末にあるのだ。我が国の騎士団の実力を見てもらい、安心してもらう旨の国の恒例行事だ。今日はそれの予行練習ということだろう。
「うん。甲冑姿のままでいいから、できるだけ早く合流して」
ルカはいつものように敬礼をして、訓練へと向かっていった。
◇◇◇
今宵も晩餐会に出席する。
毎回、同じような顔ぶればかり。誰と挨拶を交わすか、相手がどのような対応を取ってくるか。そんなことを気にしながら食事を共にする。
大事な責務の一つとはいえ、とても疲れる。
毎回、席順が変わるため、共にする相手が苦手な人であるとき、国の重鎮ばかりがドッカリと座るとき、私の心は疲弊してしまう。熱心に議論に参加しているふうを装いながら、心はついお留守になってしまうこともある。
頭をフル回転させながら、周囲に気を使いながら食事をすると味も半減する。美味しさに意識が向かなくて、味もおぼろげだ。消化にも悪い。
力関係を意識しなければならない人、不躾なことばかり聞いてくる人、自分を上に置こうとしてくる人たちとの食事は疲れてばかりだ。気を張っていて味も分かりはしない。
もっと気楽に、楽しく食事を取りたい。美味しい嬉しいと感じながらご飯を食べたい。静かに一人で食
べたい。
いや、好きな人と一緒に食べられたら、もっと良いだろう。
サーブ係がテーブルを引いて、私を席に座らせる。同じテーブルに同席する人たちの顔ぶれを瞬時に確認しながら互いの力関係を把握し、挨拶を交わす。
表面上は笑顔で。でも、心のうちは真顔で。全員なにを考えているのか、口で言うことと胸の内で考えていることは違う。私だって漏れなくそうだ。それぞれが自分の利益のため、自分たちの国にとって優位な立場に立ちたいと願っている。
私は、ナプキンを膝に広げて、また形式だけの食事をとりながら、笑顔を讃えて姫として責務をまっとうする。
「姫さま」
その声にハッと顔をあげる。
反射的に出てしまう反応や動作で、ルカへの好意が伝わってしまわないかと一瞬、不安が過ぎる。ただ、そんな不安すらも一瞬で消え去って、目の前にいる存在に嬉しさと安らぎを覚えてしまう。
気が抜けない顔ぶれのなかに、気を許せる親しい相手を見つける。
それはまるで、大勢の人のなかで逸れてしまった子どもが、両親を見つけたときのような安心感があった。
ルカはテーブルを挟んで向かい側からこちらにお辞儀をして、顔を近づけてくる。大袈裟で重厚な甲冑から、無防備な小さな頭と赤い髪がちょこんと出ている。
目の前に現れたルカは変におどけて澄ました表情で「ご一緒してもよろしいでしょうか」なんて仰々しく聞いてきた。
目まで瞑っているけれど、口元が笑いを堪えて緩んでいる。
そうだ、ここは公の場なのだと思い直し、私も同じように「どうぞ」なんて過剰に澄まして答える。
側から見ると型式ばった決まりの挨拶に見えるだろうけれど、私たちはおたがいのおどけた雰囲気と様子がおかしくて、二人だけがわかる程度に、静かにフッと笑ってしまった。
ルカとは年齢が近いこともあり、この数ヶ月で冗談すら交わすまでになった。
私は咄嗟に口元を押さえる。ルカはお辞儀から姿勢を戻すのと同時に真剣な表情へと切り替えて、こちら側へとテーブルを回ってくる。
私のすぐ隣の椅子を引く。
その度にカチャカチャと小さく響く甲冑の音に、気を取られる。
真正面を見据えて毅然とした態度を取りたいのに、隣の席に座ろうとしているルカの動作をつい横目で見てしまう。甲冑の隙間から見える腕、スラリと細く繊細なのに力強さを感じる腕。白く透き通るような滑らかな肌。
だが、そこに真っ赤な筋が入っている。傷が出来ていた。
刃物の先がかすめたような傷。まだ周辺が赤く腫れ上がっているから、今日の訓練でついた新しいものだろう。大きな引っ掻き傷のような、振った剣の矛先が当たってなぞったような傷。
頭のなかで心配と思案がめぐり真剣な面持ちになる。先に見つけてしまったけれど、ルカから話があるまでは気づかないフリをすることに決める。
でも、気になる。
「お食事は、まだ途中ですか」
私の前に置かれた皿に残る少しの牛肉のフィグとクレソン、そして皿の両端に対照的に置いたカテラリーを見てルカがそう聞く。
「うん。あまり食欲がなくて」
心配されるかと思いきや「あら、珍しいですね」なんてキョトンとした顔で返される。期待していた反応と違ったことにムッとしてしまう。それに勘づいたのか
「しっかり召し上がってください。また倒れてしまいますよ」
親が子どもを諭すような、包み込むような表情でルカが言ってくる。
「あのときは、たまたま体調が優れなかっただけ。倒れたのは一度きりだもの」
はいはい、分かりましたよという表情で、近づいてきたボーイに飲み物を頼んでいた。
「ソバー・キュリアスを一つ」
ボーイに振り向きながら頼んだドリンク。おかしい。ルカがアルコールが入っていないドリンクを頼んだ。こういった晩餐会ではいつも必ずワインを頼むのに。探りを入れたくなってしまって、つい「今日はアルコールじゃないの?」と聞いてしまう。
すると、気が付いたのかといった表情で「はい。今日はちょっと訓練がハードでして。いまアルコールを入れたら、寝てしまいそうで」と答えた。
その傷はただの訓練でついたものなのか、それとも誰かにつけられたのか。頭のなかで思考が走り回る。
「そう」
深追いしたい気持ちをグッと堪えて、何気ない顔でそう返した。
ルカはまだなにも置かれていない目の前のテーブルをじっと見つめている。両手を膝の上に置いているものの、怪我をしている右腕をまるでかばうように、左手で隠している。その目は少し虚で、遠くを見ていた。なにか考えごとをしているようだ、しかも、なにやら答えの出なさそうな考えごとを。
隣にこの私がいるのに、いったいどこを見ているのだろうなんて思っていると、ドリンクが運ばれてきた。パッと姿勢を正してテーブルに着く姿を横目で見ていると、先ほどは一瞬とはいえ、よほど緊張が解けた状態だったのだろうと思う。それと同時に、本当に疲れた日だったのだろうとも。
いつもに比べて口数も少なく、視線もあまり動いていない。なんとなく会話するのが憚られるような気がして、私は食事を再開した。さっきまで食欲がなかったのに。
冷め切った牛肉のフィレはまだ柔らかくて、添えられたクレソンはいい感じにクタっとソースに絡まっている。それはそれで美味しかった。
どうしてだろう、隣に貴方が現れただけで食事が美味しく感じるのは。
~ ルカ side ~
今日は色んなことがあった。
疲れていて一つ一つを思い出せないが、目まぐるしい一日だった。
国民への催し物として、恒例行事になっている騎士団の実戦。騎士団の実力を目の当たりにしてもらい、国民が安心できるように、そして束の間の娯楽として国民の気晴らしとなるように。トーナメント形式でそれは開かれる。国民は騎士団員たちの活躍を間近で感じられ、騎士団員たちにとっては実力試しの場となっている。
当日は、開戦前に馬たちを交えたパレードなども行うため、予行演習が早くも始まった。
私は、この国の歴史上初めての女性騎士であり、さらには姫さまの専任護衛となっている。
自分の立場上、もちろん覚悟してはいたが、それをよく思わない、つまり女性騎士に護衛が務まるものかと批判的な思いを抱いている騎士団員たちが大勢いる。そんな思いをここぞとばかりに示そうと、模擬実戦とは言え、男性の団員との実戦訓練は手荒く激しいものだった。
普段の訓練と異なり、実際の接戦となっては、力や体格の差でどうしても男性団員には押されてしまう。今日の実戦訓練でも私が負けることは一度もなかった。
だが、最後の試合である三戦目に、相手が振った剣先が私の右腕をかすめた。模擬戦用の剣だったため、深くは刺さらず、引っ掻き傷の程度で済んだが、もしもあれが本番で使用する剣であれば、致命傷となる深い傷を負っていただろう。
そんな自分の実力の至らなさに、ため息が出た。
姫さまの専任の護衛となって早くも数ヶ月が経つ。姫さまの側で過ごしたその間、専任の護衛として勤めるうちに私の心はどんどんと変化を辿っていった。
もっと強く、もっと賢く、もっと優しくなりたい。
姫さまをお守りするため、お力を添えるために、引いてはこの国を支えるために。
そんな信念が私のなかで大きくなり、確固たる根を張っていた。そんな強い信念とは裏腹に、追いつかない自分の実力が悔しくて、私は焦りを感じていた。
周囲からの目を実力で見返さなければという思いが私を燃やし、他の騎士団員たちの手前、情けない姿を一切晒してはいけないとも。以前にも増して終始、気を張るようになった。
姫さまに「おやすみなさい」と一日の最後の挨拶を終えた後でも、私は毎晩筋力トレーニングを増やした。多くの人々が寝静まる深夜、見張り役とネズミ以外は起きていないであろう時間でも私は本を読んで勉学を続けた。だんだんと部屋が明るくなり、そのまま夜明けを迎えたこともある。
だが、まだ自分は到達できない。自分の理想に。自分が良しとし、他の人たちに認められるその点までが遥かに遠い。
模擬実戦を終えた後、すぐさまガールたちが私の傷を手当てしようと駆け寄ってきてくれた。
だが、晩餐会でおそらく疲労している姫さまの顔が頭に浮かび、すぐさま駆けつけねばと私はそれらを断った。
全身が軋んでいたが、気合を入れて立ち上がり、姫さまの元へと向かった。
城の廊下を歩く道中も、鼓動を強く打つ傷口も気にならないぐらい、自然と早足になった。
少しでも早く晩餐会の部屋に着こうと、草木が茂る裏庭を抜けた。晩餐会が行われている部屋の窓から暖かい灯りが溢れていた。この暖かい温もりに満ちた光のなかに貴女はいる。
どうか、そんなつまらなさそうな顔をしないで、笑っていてほしい。
そんなことを思いながら、ポーチから横扉を開けてなかに入る。これだけの緩い施錠がまだ許されているのは、平和な証拠だ。この状態を守り続けるのが私の役目。
外は爽やかな風が吹き抜けていたけれど、晩餐会が行われている部屋は密室ということもあり、人々が発する熱気で満ちていた。貴婦人たちの香水の匂い、男爵たちのむさ苦しいシガレットの匂い。それらに料理の匂いが混じって、全体的にムワッとしている。
大勢の人がそれぞれに小さなグループを成して、難しい話題に笑いや冗談を交えながら談笑している。いかにも急いでいるという振りをして、それぞれのグループの傍を通り過ぎる際にさり気なく聞き耳を立てる。どんな話題が交わされているのか、怪しい点はないか。注意深く歩く。
話題の内容がだいぶ具体的に、本格的な雰囲気を持ち始めていることを感じながら、私はメインの部屋へと急ぐ。
ワイワイと賑やかにテーブルを囲む人々の輪のなかに、ポツンと一人で貴女が下を向きながら食事をしていた。
テーブルで近くの席に着いている人からなにかを聞かれる度に、少しだけ微笑を讃えながら答えている。そんなふうに周囲との会話に参加しつつも、心はどこかに行っている様子が手にとるように分かる。
その様子が、まるで部屋の照明がすべて落ちて、貴女にだけ真上から一筋の光が降り注いで照らされているようなそんなイメージに切り替わる。貴女が本来居たい場所はここではなく、孤独を感じているのだと伝わってくるような、そんなイメージが。
メインディッシュを食べ終えた人から次々に、ワインを片手に他の部屋へ移動して談笑しているのか、貴女の左隣の席が空いていた。
真正面の席の紳士が席を立ち上がったのを見計らって、私はゆっくりと近づく。
心ここに在らずな貴女は、さっきから視線があまり動いていない。心が動いていないのだろう。
私は真正面から声を掛ける。少しでも笑って欲しくておどけた様子を演じてみた。
パッと光が灯るように、明るくなった貴女の表情を見て安堵する。
良かった、ちゃんとこの人も戯けられるのだ。おどける軽さを、ちゃんと知っている人なのだ。
それを忘れてしまうほどの負荷をかけすぎているだけなのだ。そんな現実を変えたい。
ふざけることや笑うことを思い出してほしくて、私はついおどけて見せてしまう。私と目が合っていたと思ったら、視線が落ち着きなく動き始め、瞬きが多くなる。落ち着いた平然な姿を装いながらも心が動き出したのを感じる、良かった。
その様子を見守って、私はテーブルを周りこんで左隣の席へと移動する。
食事の場では甲冑の音をあまり立てないようにするのがマナーとされているため、腹あたりの甲冑を押さえながら静かに座る。ちょうど押さえていた右手がくの字に曲がったことにより、甲冑に覆われていない腕の内側の傷が露わになってしまった。貴女の視線がすぐさまそこに動く。
なにか聞かれない限り、私は自ら話さないつもりだ。余分な心配りはされたくない。貴女の心にこれ以上の負荷をかけたくないのだ。貴女の視線の動きがまた遅くなる、たぶん傷について推測を巡らせているのだろう。
そんな推測の渦に石を投げ込んでみたくなり、まだ残っている食事に触れる。食欲がないのも当たり前だろうと思う。そんな重荷を背負っていては食欲も湧かず、食事も喉も通りにくいだろう。
なんとか食べて欲しくて私は言葉を返しながら、近づいてきたボーイに意識を向ける。
私は密かにこのボーイがスパイであると睨んでいる。疑いのそぶりを微塵も見せずにさり気なくソバー・キュリアスを頼む。アルコールで血行がよくなり血液が巡回すると傷口から出血してしまうかもしれないため、今日はそれを取るわけにはいかない。
ボーイが厨房の方へと戻ったのを背中で感じながら、一息つく。
今日一日だけでもめまぐるしく経験したことを思い出そうとするにも、うまく頭が働かない。身体が疲れると頭まで疲れる。ボーイがサーブする食べ物や飲みものになにかを混入させることは、まず考えにくい。ターゲットが生きたままでないと情報は得られないからだ。
おそらく、ターゲットを今すぐにどうこうしようとしていないのは、長期的にこの王国を侵略しようと目論んでいるのだろう。
少しでもより多くの情報を得たいがために、泳がせておくのだ。だからすぐに行動には移してこないのはそのため。
こちらの身内に染まってしまう一歩手前まで近づいてきて、一気に敵にまわる。一番気をつけなければならない傾向だ。かといって確固たる証拠など一つも掴めていないため、こちらもすぐに動きは取れない。そんなことを考えているとボーイが戻ってきた。すぐさま姿勢を正してドリンクを口に含む。
味に異常はないことを確認して飲み込む。大丈夫。このようにして私と姫さまは着実に一日を重ねていく。
姫さまの手が回らないところには、私が手を添える。
姫さまが一日でも長く、一日でも多く、笑顔で健康に任務をまっとうすることを守り切るのが私の役目。
姫さまの護衛という役目を私は一生懸命にまっとうしたい。
この国を、そして何よりもこの隣に座る姫さまをお支えしたいと、私は心から思っている。
そんな私の思いが通じているのかは分からない。
わざわざ伝えなくとも、私は行動で、自分の生き方を通してそれを示せたらと願う。残っていた食事に手を付け始めた貴女を見て、私はそれだけでも今日を生きた価値があったなと思う。私がここにいる意味が確かに存在していたということだから。
食事を取ろうと思えるということは、少しは心がほぐれたということだ。
それが私は嬉しかった。貴女の心を少しでも軽くできたことが。
こんな私でも貴女の役に立てる存在なのだと、私は生まれて初めて思いつつあった。




