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この世界で、君だけが獣を王にした  作者: そよら
フェーズI 裏路地で、獣は奪う
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Ep.6 空のタブレットケース

「遅ぇぞ、人間達!腰を上げろ」


 通りを一本挟んだ裏手で、人間たちは列を成して働いていた。

 怒声に追われ、重い積荷を運び続けている。


「止まるな!!」 


 その中に、リフの姿があった。

 鉄材を抱え、汗を拭いながら指示に従っている。


 通りの壁にもたれ、ゼルは人間の列を流し見る。


「今日は殴られてねぇな」


 そう呟くと、背を向けた。


 ゼルが去って数分後、

 リフの指先は限界を迎えていた。


 抱えていた鉄材の束が、震える指先からずるりと滑り落ちる。

 肩にかかる重さが一気に増し、膝が抜ける。

 視界が歪み、早打つ心臓の鼓動がひどく煩い。


「おい、なにやってんだ!」


 怒声が飛ぶ。


 なんとかリフは、震える指で鉄材を拾おうとした。

 腰をかがめた瞬間、脚の感覚が、ふっと消えた。


「おい、くたばったのか」


 犬族の一人が鼻を鳴らし、もう一人に目配せを送る。


「構うな、死に損ないだ」

「邪魔だな」


 そう吐き捨てると、リフの両腕を無造作に掴んだ。

 泥に染まった地面を、身体が引きずられていく。


「係に言って、回収を呼んどけ」


 乾いた笑い声が遠ざかる。


 リフの指先が、わずかに動いた。

 けれどもう、立ち上がることはできなかった。


 *


 眠気の中で身じろいだゼルは、うっすらと瞼を上げた。


「ああ……くそ、いて……」


 胸を押さえて体を起こすと、腕のあちこちに腫れや痣が広がっていた。リングに置いてきたはずの痛みが、まだ離れてくれない。

 今日も勝てなかった証。

 肩から革の外套をゆるく羽織り、片膝を立てた姿で、ゼルは背を壁に預けた。


 ──遅ぇな。


 いつもなら、夜に差し掛かる頃にはあの人間が戻ってくる。

 足音がして、外の桶から水をすくう音がする。

 それが、この部屋に夜が来た合図だった。


 だが今夜は、音ひとつない。


「……」


 ゼルは、無意識にため息を吐いて視線を落とした。

 手の中には、リフがくれた薬草の小さな包み。


「どっかでくたばってんのか」


 外の灯がすべて落ちて、深夜がとっくに更けても、リフは戻らなかった。


 ゼルの眉間に皺が寄る。

 何度も寝返りを打った。


「……クソッ」


 ついに堪えきれず、壁を蹴り上げた。

 鈍い音が狭い部屋に響く。

 積まれていた荷袋が崩れ、くしゃくしゃの布や小物が散らばった。


 ゼルは散らばった荷物の中に足を踏み入れた。

 古びた布切れ、石鹸の欠片、欠けた食器。

 そして、小さな金属製の錆びたタブレットケース。


 しばらく、それを手のひらに載せたまま見つめた。

 ゼルは視線を落とし、無意識に指先で開く。


 ──中は、空だった。


「……」


 ゼルの喉がゆっくり鳴った。

 胸の奥で、何かが小さくひび割れたような気がした。


「……チッ」


 低く吐き捨て、ゼルは立ち上がる。


 外はもう、夜明け前の静けさ。

 ゼルは長屋を出て、裏路地を早足で歩き出す。

 空っぽの錠剤ケースを、手の中に握ったまま、夜の路地をひたすらに進んだ。


 今朝、荷運びの列にいた、細い人影。


(あいつ……)


 ゼルは通りを曲がった。

 倉庫の裏手。朝と同じ、鉄の柵と排水路のある細道。


 風が一度、冷たく吹き抜ける。


 ──いた。


 泥に染まった排水路に、小さな影が横たわっていた。


 身体はくの字に折れ、背中が泥水に沈みかけている。

 顔は見えない。

 片腕が無防備に投げ出され、指先がかすかに痙攣している。


 ゼルは音もなくしゃがみ込み、そっとその体を抱き上げる。


 まだ死んでいない、ただそれだけ。

 その日は、命がまだ残っていたというだけの、冷たさ。


「おい」


 返事はない。

 けれど、うっすらと浅い息だけが、まだ、あった。


「くそ……」


 低く、息を吐くように呟いた。

 腕の中のリフは軽く、恐ろしいほどに脆かった。


 その重さを受け止めながら、ゼルはリフを背負って長屋まで戻った。


 幌を片手で押し上げると、湿気を含んだ空気が、重く迎えるように流れ出てきた。


 ゼルは低くかがみ、狭いその空間にそっとリフの体を降ろした。

 布の感触が背を受け止め、リフの身体は小さく沈む。

 ゼルは何も言わず、肩から外した外套をそのままふわりとかけた。

 革の重みがゆっくりと、リフの身体に降りる。


「なんなんだよ」


 隣に腰を下ろし、それきり、ゼルは動かなかった。

 物音ひとつない小さな空間で、ただ、朝を待った。


 *


 空が白み、朝の光が床に滲んでいた。

 朝が訪れても、部屋の中は昨夜のまま何も変わらなかった。


 ゼルは壁にもたれたまま、微動だにしなかった。

 指の間で、空の錠剤ケースが鈍く光っていた。

 夜のあいだ、それを何度も開けては閉じた。

 中身が戻るわけでもないのに。


 床の布の上では、リフが静かに眠っている。

 目を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返していた。

 その胸の動きが止まらないことだけが、ここにまだ「生」が残っている証だった。


 ゼルはゆっくりと身体を起こした。

 握っていたタブレットケースをポケットに押し込み、外套の端を整えてリフの肩に掛け直す。

 それから、何も言わずに立ち上がった。


 幌の隙間から差し込んだ淡い光が、床を細く照らしていた。

 一度だけ視線を落とし、ゼルは無言のまま外へ出た。


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