EP.4 隣にいる温度
前を歩く蝙蝠族の背中は大きく、皮膜の翼は規則正しく揺れていた。
リフは少し距離を空けて、その背中を見ていた。
「ちょっと、寄りたいところが」
ゼルは歩みを止めず、わずか視線だけを向ける。
「なんだ」
「露店通りの店に」
「食い物か」
リフは小さく頷いた。
ゼルは歩幅をわずかに緩めた。リフが横へ出られる程度の、ほんの小さな隙間だった。
ひとつ角を曲がると、細く連なる屋台の列が、軒を寄せ合うように並ぶ露店通りに出た。
焼ける肉の煙と、獣族たちの活気に満ちた呼び声。
様々な食材や果物が並び、雑貨など何でも揃う店が連なっている。
その中に、ひとつだけ人間向けの品を扱う屋台があった。
この辺りの店で唯一、人間用の栄養食——コアレットを扱っている屋台だった。
リフは肩にかけていた古びた布のフードを、深めに被り直す。
「あの……」
屋台の前に立ち、蜥蜴族の雇主から貰った銅貨を静かに差し出す。
「人間か、後ろ下がってろ!!先にこっちに客いんのが見えてんだろ。チッ、目障りだな」
背から鋭利な背びれを生やした、鰐族の半獣人の店主は、顔を逸らした。
「人間は金払いが悪いから、嫌いなんだよ」
鰐族の店主は、鼻を鳴らした。視線は、そのまま横へ流れる。
露店の前に並んでいた狐族の少年が、尾を揺らした。その後ろで、鹿族の女性が荷物を抱え直す。
店主の手が、そちらへ伸びかけた。
「おい!無視すんなよ!!」
ゼルは短く息を吐き、面倒そうに声を落とした。
「なんだよ、今忙しいんだよ」
「先に並んでんの、こっちだろ」
鰐族の店主が、不機嫌そうにリフに視線を向ける。
「いつものか?」
リフは深く頷き、握っていた銅貨を置き、無意識にゼルを見上げる。
淡い紫色の瞳が、じっとこちらを捉えていた。
慌てたように、すぐさままた視線を落とした。
鰐族の店主は汚れた銅貨を一枚受け取り、粗末な布袋から小さな灰色のブロックを二つ、無造作に取り出した。
無愛想に置かれたそれを、静かに受け取る。
ゼルの視線が、手のひらの小さな固形ブロックに注がれた。
「それだけか?」
紫の瞳は驚いてわずかに見開かれる。
「おい、店主」
鰐族の男が動きを止める。
「失礼な態度の詫びに、その肉、ひと串よこせ」
「ちっ、なんだよ蝙蝠。客の皮をかぶった、ただのたかりじゃねえか」
鰐族の店主は表情を曇らせ、深く息を吐き、肉串を一本つまみ上げた。
「ほらよ」
「もう一本寄越せ」
「チッ、さっさと行け」
ゼルは油紙に包まれた焼きたての肉を受け取り、何も言わずに歩き出した。
リフはその背中を追うようにして、足を踏みかけ、動きを止めた。
ふと、賑わう露店の人混みの向こうに、
金色の立て髪が揺れた気がした。
あの時の、獅子族──
(待って!!!)
そう叫ぼうとした瞬間には、人混みに紛れて、もう見えなくなっていた。
「おい。どうした」
不意にかけられた声に、はっと顔を上げる。
「なんでもない」
つぶやきに失望の色を滲ませたのち、リフは慌てて、皮膜の翼を追った。
*
長屋区と呼ばれる一角には、人ひとりが身を横たえるのがやっとの部屋が、壁を共有するように並んでいた。
「ここか。ボロいな」
そう言って、ゼルは苦笑したまま、入り口の幌を乱暴に払うようにめくり、身を滑り込ませる。
「おまけに、狭ぇ」
壁際の空いた床に、ブーツも脱がずにどかりと腰を下ろす。
「まぁいい。ここ、空いてんだろ」
リフは何かを言いかけて、けれどすぐ口を閉じた。
少しだけ眉を寄せて、擦れた布を引き寄せると、部屋の隅へとゆっくりと移動する。
「何か言えよ」
ゼルは半身を起こし、脇に置いていた油紙包みに手を伸ばした。
その気配だけで、リフの肩が小さく跳ねる。
「おまえに噛みつくほど、飢えちゃいねぇ」
ゼルは懐に手を差し入れ、ルーメンの小瓶を取り出す。
「理性まで腹減らしてねぇ、これがあるうちはな」
小瓶の中で、濁った液体がとろりと揺れた。
獣族が理性を繋ぎ止めるための、神の薬。
これを切らした連中がどうなるか、リフは何度も見てきた。
「切れたら、やっぱり暴れるの……」
「さあな」
ゼルは小瓶を指で弾く。中の液体が、わずかに揺れた。
一瞬だけ、目の奥が獣じみて光る。
それを誤魔化すみたいに、屋台で貰った肉に齧り付いた。
「人間もルーメンを切らせば、くたばるのか?」
「獣族ほどではないけど」
「ふうん」
肉を噛みちぎりながら、ゼルは空いた手でもう一本の串を差し出す。
「ほら」
リフは串を見て、ほんの一瞬だけ指先を動かしたが、そのまま膝を抱え直した。
「いや、大丈夫」
「気に入らねぇ味か?」
ゼルは舌打ちをひとつ落とし、試合帰りの身体を休めるように、小さく息を吐き、背を壁に預けた。
狭い長屋の部屋は、横になれる場所がほとんどなかった。
人ひとりが身を丸めて眠るのがやっとの床に、二人はどうしても収まりきらない。
ゼルは少し考えるように黙り込み、外套を脱ぐと、それを床に広げた。
「おい、詰めろ」
短く言って、自分が先に横になる。
大きな体を壁際に寄せ、片腕を頭の下に差し入れた。
リフは一瞬だけ躊躇ったが、言われた通り、そっと隣に身を下ろした。
距離は近い。
肩と肩が触れ、呼吸の熱が、わずかに伝わる。
ゼルの翼が、畳まれたまま床に沿って伸びている。
動けば当たりそうで、リフは身じろぎを止めた。
「くそ狭いな」
返事はない。
しばらくして、布の擦れる小さな音がした。
リフは胸元で抱えていた布包みを、ゼルの方へ静かに押し出す。
それがゼルの腕に軽く触れた。
「なんだ?」
ゼルは黙って、押し出された布包みを手にした。
鼻を近づけると、湿った薬草の匂いがわずかに広がった。
(頼んでねぇってのに……)
布を開き、指先でそれを取ると、傷口に押し当てる。染み出した血が、草と混ざってぬるく滲む。
「痛っ」
ゼルはそのまま瞼を閉じた。
やがて、部屋の外の物音が遠のき、二人の呼吸だけが、ゆっくりと重なっていった。




