Ⅲ-EP.8 亡国の記憶
夜の街灯に照らされた石畳を、リフは躓きながら走る。
息が浅く、胸の奥が詰まる。
「リフ!」
背後から、ルシアーナの声。
それでも、足は止まらない。
路地へ曲がったところで、膝が崩れた。
「……っ」
石畳に手をつき、肩で息をする。
呼吸が追いつかず、焦点が定まらない。
街灯の光が滲み、輪郭を失っていく。
「どうして……」
頭の中で、エンジュの言葉が何度も反響する。
声を出そうとしても、喉で引っかかって言葉にならない。
唇を噛み、首を振る。
「俺のせいだ……」
それ以上は言葉にならず、呼吸だけが荒くなる。
背後で、足音が止まった。
「お前、何があったんだ」
振り向けないまま、背後にルシアーナが立った気配だけが伝わる。
「どうしたんだよ」
石畳に膝をついたリフの視界に、影が落ちる。
「探してた奴じゃなかったのか」
屈み込んだルシアーナの手が、そっと伸びてきた。
「俺のせいで、」
声が、震える。
「ライオルも、獅子族も……」
胸の奥が強く締め付けられ、目の前が一気に暗転した。
「リフ!!」
呼びかけに、応えられない。
身体が前へ傾き、力が抜ける。
「おい、しっかりしろ!」
音が、遠ざかる。冷たい石の感触も、もう分からなかった。闇が、静かに意識を覆っていく。
白い光と、身体の内側をかき乱す熱だけが、ゆっくりと立ち上って消えた。
*
──二年前
痛みで、意識が引き上げられる。
金属の枷が、骨を責めていた。
小さく身じろいだだけで、痛みが神経を焼く。
手首も足首も固定され、逃げ場はどこにもない。
また、実験室──
『貸し出し記録は、確認したか』
くぐもった声が、すぐ近くで交わされる。
『この個体は、これまで、いくつの種族を渡り歩いている』
『蜥蜴族、山羊族……七箇所だ。ようやく、獅子族の番が巡ってきた』
『鳳凰属から、ようやく借り受けた検体だ。これほどの個体は得難い。ルーメン研究も、大きく前進するだろう』
『王の理想論では、いつまで経っても他種族に後れを取る』
焼けただれた皮膚に刺さった管が、一本、また一本、引き抜かれていく。
『……ぁ……』
皮膚が薬品で焼けたようにむけ、喉の奥からくぐもった喘ぎ声が漏れた。
ふいに四肢を締め付けていた圧が、ふっと抜けた。
力の行き場を失った身体を、誰かの腕が受け止める。
『これ以上、苦しまなくていい』
金色の長い立て髪が視界をかすめ、琥珀色の瞳は、驚くほどあたたかい光を帯びていた。
その温もりだけが、焼けつく痛みの奥に柔らかく染みこん染み込んでいく。
『……うぅ……』
掠れた声に応えるように、抱き上げた者の気配が柔らかく揺れる。
『もう、十分だ』
胸元に縋ろうとして、力無く落ちた手を静かに包み込まれる。
『ライオル様!』
鋭い声が割り込む。
『その実験体は、まだ処置の途中です。ここで止めれば、これまでの成果が無駄になります』
『もう、終わりだ』
『我が国はまた、他種族に遅れを取ることになります』
抱き留める腕の力が、わずかに強まる。
それが、最後に残った感覚だった。
黄金の立て髪が光を受けてぼやける。
その記憶だけを抱いたまま、剥き出しの神経がもたらす痛みとともに、リフの意識は深く沈んでいった。
*
「ったく、……」
そう漏らしたエンジュは、奴隷市場の裏口から市場の様子を眺める。
裏手の通路では、半獣人や人間たちが荷を抱えて行き交っていた。競り台は空いたまま、上に人影はない。
荷を下ろした半獣人の山犬族が、袖で額の汗を拭いながら何か言って肩を揺らし、つられて隣の人間も小さく笑う。
その声が裏口まで流れてくる。
「ナトカ、あんたが関わってると分かった時点で、嫌な予感はしてたんだよ」
低くこぼれた独り言は、裏口の軒に吸われて消えた。
「おお、エンジュ、こんな所まで来るなんて、珍しいじゃないか」
黒猪族のドグールは、平たく潰れた鼻先に皺を寄せる。
「ドグール、商売はどうしたんだい。檻は空っぽだ」
エンジュは競り台の縄を指先で軽く揺らし、その軋む音が収まるのを待ってから口を開く。
「人間の獣人探しに手を貸して、噂まで拾ってやったそうじゃないか」
ドグールは裏口の柱に手をつき、市場の裏手を見回す。
働く半獣人たちの姿を目で追ってから、裏口に立つエンジュへ顔を向けた。
「あぁ、リフのことか。派手な真似した人間だ」
「あんた、人間なんて興味ないだろ」
「まぁな、ただ檻を空にしたのは、あの人間だ」
ドグールは競り台の空いた場所を一瞥する。
「リフはここに並んでた奴隷全部を解放した。人間も半獣人も、獣まで残らずな」
ドグールは懐へ手を入れ、金貨を一枚つまみ上げる。
「見ろ。滅多に出回らねぇ、北方の氷結金貨だ。持ってた分を、全部置いていった」
エンジュは表情を変えずにドグールを見た。
「あの人間が、何者か知ってるのかい」
「さぁな、そういうことをする奴ってだけだ」
市場の裏に漂う金属と埃の匂いの中で、ドグールは突き出た顎を撫でた。
「探してた蝙蝠族の居場所が分かったって聞いたとき、えらく喜んでたが、会えたのか」
「あんたは、何も分かっちゃいない」
エンジュの声が低く落ち、競り場の裏に残ったざわめきが一瞬だけ遠のいた。
「獅子族は、あれのせいで滅んだ……」
「俺には、難しい話は分からねぇ」
ドグールは空になった競り台の方へ顎を向ける。
「檻を空にした人間がいた。それだけだ」
競り台の前では、解放された半獣人たちが荷を担ぎ直し、裏手へと散っていく。
「見つけたなら、会わせてやれよ」
ドグールは片手を上げ、競り場の裏の喧騒を背に去っていった。




