Ⅲ-EP.5 娼館に眠る、名もなきもの
麒麟属支配領《マーケットゼロ外縁・南街道》
「ちょっとー、これ、行き倒れじゃないの?」
孔雀族の娼婦と思しき女が、瑠璃と翠の羽を揺らしてしゃがみ込む。耳の上から伸びる羽根は、角度を変えるたび青から緑へと色を移した。
街道の脇に、血に濡れた蝙蝠族が倒れていた。
「死んでないよね?」
孔雀族の女は顔を寄せ、息の気配を探る。
外套の下で、皮膜の翼が深く裂けているのが見えた。
「やめときなよ。そういうのに関わって、碌なことあった試しないでしょ」
背後で白狐族の娼婦コハクが、距離を取ったまま腕を組む。透き通るような白い肌。柔らかな銀髪の奥で、狐の耳がぴくりと動く。
「でもさ、見てよ、いい男だよ」
影が差し、孔雀族の女──ピーリアは振り返る
歓楽区画・艶街の娼館を取り仕切る獅子族の獣人、エンジュが立っていた。
肩幅の広い体が街道の光を遮り、厚みのある腕がゆったりと腰に掛けられている。短く、密に整えられた砂色の髪が、夕の光を弾いた。
「何やってるんだい。行くよ」
「姐さん、この子がさ。変なの拾おうとしてんの」
「放っときな。変な病気でもうつったら、困るのはあんただけじゃないよ。それより、金目のものがないか見てみな」
娼館の女将エンジュは、倒れた蝙蝠族を見下ろし顎をしゃくった。
白狐族のコハクが肩をすくめ、蝙蝠族のそばに腰を下ろし、裂けた外套の端を探る。
「あ、これ」
腰のあたりから、細い布袋を引き抜く。
「金は入ってないみたいだけど、この袋、細工がすごいわ。ほら、編み目。こんなの、簡単には作れない」
布袋の埃を軽く振り払い、コハクはエンジュへ差し出す。
「ほら、姐さん。価値、ありそうよ」
エンジュは、受け取った布袋を持ったまま目を細めた。
「この編み方と匂い、まさかナトカの……」
そう言って、小さく鼻を鳴らした。
「仕方ないね、店の男どもを呼んできな。ここに転がしとくわけにもいかないだろ」
「やった!」
ピーリアは弾む声でそう言って、またしゃがみ込む。
血で張りついた髪を、指先でそっと掬い上げた。
「ねぇ、生きてるよね、ね?」
「姐さん、いいの、ホントに」
エンジュは大きく息を吐き、もう一度だけ、道端に倒れた蝙蝠族を見下ろした。
「仕方ないだろ。知人の縁ってやつだ」
*
【マーケット・ゼロ/歓楽区画・艶街】
柔らかな帳が、香を孕んでゆっくり揺れていた。
甘い香油と酒の残り香が混じる艶街の娼館、その二階の一室。
孔雀族の娼婦ピーリアは、寝台脇の椅子に腰かけていた。片脚を組み、頬杖をついたまま、横たわる男の顔をじっと見下ろしている。
「ねえ」
ピーリアは頬杖をついたまま呼びかける。
だが、寝台の上で蝙蝠族の男は動かない。
卓の上には、空になった蝙蝠族用のルーメンの小瓶が転がっていた。
「効き、悪いわね」
ピーリアは肩をすくめる。宝石を散りばめたような翡翠色の髪が、窓から吹き込む風にそっと揺れた。
ふいに、階下の空気が変わった。
ピーリアは小さく吐息をこぼす。
階下に広がる、柔らかく弾んだざわめきと、にわかに色めき立つ娼婦たちの気配。
誰が来たのかはすぐに知れた。
「クラヴィオ様が、いらしたのね」
ピーリアは肩肘をついたまま、独り言のように呟き、再び寝台へ目を戻す。
蝙蝠族の男は、相変わらず微動だにしない。
*
黄金の角を戴く異形が紅い灯りの中に現れた瞬間、娼館の空気そのものが妖しく色を変えた。
「クラヴィオ様!!」
娼婦たちの視線が一斉にそちらへ吸い寄せられる。
笑みが深まり、指先を整え、娼館にいる女たちは誰もが無意識に色めき立った。
「今宵も麒麟属の御方が、お見えよ」
クラヴィオは気にも留めず、奥のソファへ向かう。
長く、緩やかに弧を描く黄金の角が、紅い灯りの中で静かに輪郭を浮かび上がらせていた。
どさりと無遠慮に腰を下ろした。
「遅ぇよ」
そのままテーブルへ片足を投げ出す。
「さっさとしろよ」
左右へ娼婦が寄る。高価な酒が注がれ、クラヴィオは受け取るなり、喉を鳴らして煽った。
「悪くねぇ」
周囲の空気がふっと緩み、娼館の夜がようやく本来の音を取り戻す。
「ここはいい。期待も、選択も、すべて脱がせてくれる」
酒杯が空になると、クラヴィオは興味を失ったように立ち上がった。
左右に控えていた娼婦の肩へ無造作に腕を回し、そのまま軽々と抱え上げて歩き出す。
「お前らが今宵の相手だ。退屈させんなよ」
回廊へ差しかかったところで、クラヴィオの足が止まった。
一瞬、眉がわずかに寄る。
「おい」
娼婦達を肩に担いだまま、振り返らずに声を投げる。
「妙な気配がある。この館に、余計なものがいるな」
女たちは視線を交わし、ひとりが控えめに口を開いた。
「孔雀族の子が、路上で蝙蝠族を拾いまして」
「蝙蝠族?」
喉の奥で繰り返す。
「そんな下級な気配には思えないが」
「ただの蝙蝠です。瀕死でしたが、今は奥で休ませています。その気配かと」
クラヴィオは少しだけ考え、やがて興味を手放すように鼻で笑った。
「ふぅん」
それきり視線を前へ戻す。
「まあいい。関係ない」
そのまま特別室へと消えていった。
*
背後で、扉が音もなく開いた。
「ピーリア、降りてきなよ。クラヴィオ様、来てるよ」
白狐族の娼婦仲間、コハクが扉口から声をかけた
露わな首筋から鎖骨にかけて、肌は雪のように白い。
その背後で、大きな白い尻尾がゆるやかに揺れ、床を掃く。
ピーリアは振り返らない。
椅子に腰を落としたまま、視線はベッドの上に留まっている。
「いい」
短く落とされた言葉のあと、コハクは音を立てずに歩み寄り、ピーリアの隣に立った。
「あの御方だよ。麒麟属のクラヴィオ様」
「知ってる」
ピーリアの声は静かだった。眠ったままの蝙蝠族から、目を離さない。
「神獣の麒麟族で、第一王子。そんな御方が毎晩、ここに来る」
コハクは肩をすくめ、尾先で床を払った。
「街も、人も、運命も。何も選ばない。裁きと吉兆の神獣だって、噂なのに」
ピーリアは、そっと椅子を寄せた。身を屈め、眠る顔を覗き込む。長い睫毛が影を落とし、唇は乾いている。それでも呼吸は続いている。
「それより」
指先が宙をなぞる。触れないまま、その顔の輪郭を辿るように。
「早く、目、覚ましたらいいのに。どんな瞳の色をしてるんだろ」
コハクの喉から、くすりと笑いがこぼれた。
「そんなに気になるの」
「この人さ、どっかの王族だったりして」
「ばかばかしい、そんな都合のいい話あるわけない。期待すると面倒よ」
「してないよ」
蝙蝠族の顔を見つめたまま、ピーリアはつぶやく。
「夢くらい見てもいいでしょ」
「夢は歩いてこないし、動かない人のところには、来ない」
「……」
「夢は、自分で迎えに行くものよ」
ピーリアは答えず、眠る横顔を見つめ続けた。




