Ⅲ-EP.4 市場の檻
朝の市場通りは、すでに人で溢れていた。
ルシアーナは歩きながら、紙に包まれた肉詰めパンにかぶりつく。噛みちぎるたびに、肉汁が指に滲む。
「人探しと言えば、市場だろ」
口にまだ肉詰めを残したまま言い、隣を歩くリフの肩を肘で軽く押す。
「市場には、物も、噂も、すべて集まる」
通りの流れは途切れることなく、大広場の方へ吸い込まれていく。
「お前、金は持ってるんだろ。タダで話すやつは少ない」
「多少はあると思う」
「なら問題ない」
ルシアーナは残りを口に押し込み、油の染みた包みを丸めて、通りの端へ放った。
「そういえば、朝飯、さっきの一個で足りるのか」
「え?」
「朝、食ってただろ。砂を固めたみたいなブロック」
彼女は歩調を変えず、リフの腕へ目を向ける。袖の下に浮かぶ骨の輪郭を確かめるように眺め、そのまま顔をしかめた。
「ちゃんと食わねえから、そんなガリガリなんだ」
「まぁ、あれしか食べられないって言うか」
「人間って、そんなもんか」
ルシアーナは納得したのかしていないのか分からないまま、肩をすくめた。
市場の中心へ近づくほど、人の流れは密度を増していく。
「ほら、あっちだ」
ルシアーナが顎で示した先には、多種多様な獣族が溢れていた。天幕の中は、熱気に包まれている。
「人探しなら、まずあそこだろ」
そう言って、ルシアーナは人の隙間へ迷いなく踏み込んでいった。
リフは一歩遅れて、その背中を追う。
肩と肩がぶつかり、押し流されそうになった瞬間、背中の奥を細い針でなぞられたような感覚が走った。
刺すような感覚。
昨日と、同じ。
広場の奥へ導かれるように引き寄せられてしまう。
「おい、リフ、待て!」
リフの足は止まらない。
「そっちじゃねえって言ってるだろ!」
背後から投げられたルシアーナの声を受けても、リフの歩調は変わらなかった。
そこに、何かがある気がした。
天幕の裏に、積み上げられた檻が見えた。
奴隷市目当ての獣族たちが、集まり始めている。
檻の列が、はっきり見える距離まで来たとき、視線が、合った。
布を掛けられた小さな檻。
その中に、誰かがいる。
リフはさらに数歩進む。
列の一番奥、小さな檻がひとつだけ離されるように置かれていた。
傷だらけの白い身体。
乾いた血に汚れた白銀の髪、裂けた純白の外套。
イサリスの部下の片割れ。
「あの時の、白蛇族!」
リフは檻の前へ膝を落とし、鉄格子へ手を伸ばす。
「なんでこんな所に、ゼルは?!」
檻の中の男の唇が動く。乾いた皮膚がひび割れ、かすかな音が漏れかけた、その時だった。
「おい、何やってる。そんなとこで、しゃがみ込んで」
追いついたルシアーナが、顔をしかめた。
檻の中の男を見て、眉間を寄せる。
「白蛇か。薄汚れてんな、知り合いか?」
檻の中の男は答えない。ただ、乾いた瞳でリフを見返していた。
「おいおい、そいつに触るなよ」
背後からかけられた声に、リフはゆっくりと振り返る。
すぐ後ろに、黒猪族の半獣人が立っていた。鼻先は前へ突き出し、口の端からは、黄ばんだ牙が覗いている。粗末な外套の胸元には、鉄の鍵束がいくつも吊られていた。
「まさか人間が獣族を買いたいのか?人間は売られる側だろ」
黒猪族はリフと檻の間へ視線を滑らせ、愉快そうに鼻を鳴らす。
「そいつは門の外でぶっ倒れてたんだよ。最初は死体かと思ったがな。まだ息があった。声かけても、何聞いてもだんまり」
肩をすくめると、腹の肉が外套の下で揺れた。
「登録証もなし。そう言う奴は罪人か、厄介者か。身元不明で暴れるやつは、どっちにしろ、市場行きだ」
「だからって、こんなひどい扱い」
「文句があるなら、買い取ればいい」
言葉を遮るように、黒猪族は即座に返す。
「市場はそういう場所だろ」
合図が飛び、数人の獣族が檻の脇に回り込んだ。
金属が鳴り、檻が持ち上げられる。
「待って、」
リフの声が、途中で切れた。
檻はそのまま天幕の奥へ、運ばれていく。
*
ざわめきが一段落ち、視線が一斉に上へ集まる。
競り台に上げられた獣族や人間たちを、リフは見つめていた。
横一列に並ばされ、番号を呼ばれるたび、ひとりずつ引き出されていく。
競り落とされた先で、何が待っているか。
拒めず、命令され、壊れるまで終わらない。
リフの指が、いつの間にか強く握られていた。
爪が掌に食い込む。
思い出そうとしたわけじゃない。
痛みを感じる前に、ただ、体が先に思い出してしまった。
「これで、」
視線を逸らさないまま、ルシアーナの袖を引いた。
「これ全部で、あそこにいる人間と獣族、誰にも踏みにじられずに済むと思う?」
ルシアーナは一瞬、何を言われたのか分からない顔をして、リフの手にある布袋へ目を落とす。
握られた布袋。その口がわずかに開き、重なった金貨の縁が光を受けていた。
「全部、使う気か」
リフは、短く頷いた。
「バカだな、お前」
口端を軽く上げルシアーナは、競り台の方へ一歩踏み出し、胸いっぱいに息を吸う。
「聞け!!」
広場に、よく通る声が響いた。
「人間も、獣族も、まとめて、この場に出てるやつら、私らが買う!」
視線が一斉に集まる。
「こいつら、全部だ!!」
*
「本当に全部、買い取る気か」
競り台の喧噪から一歩外れた天幕の裏、黒猪族の奴隷商人は腕を組んだまま、値踏みするようにリフの全身をゆっくり見回した。
リフは布袋の口をほどき、台の上に金貨を置いた。
「これで登録証も、出してもらえるよね。みんな、きちんと解放してほしい」
黒猪族は、並べられた金貨に視線を落とした。
鼻先を鳴らし、短く笑う。
「気前がいいな、人間」
外した鍵束を、黒猪族は無造作に卓の上へ滑らせた。
「ほら、檻と鎖の鍵だ。登録証の手続きもして、間違いなく解放してやろう。約束は必ず守る」
ルシアーナは受け取った鍵を指先で弄び、檻へ向かう。金属が鳴り、扉と鎖が次々に外されていく。
鎖を外す開錠音が続く中、リフは黒猪族へと視線を戻した。
「もう一つだけ、いいかな」
黒猪族が鼻を鳴らし、続きを促す。
「俺と連れの女性は、それぞれ獣人を探してて。何か耳に入ることがあれば、知らせてもらえると嬉しいんだ」
「保証はできん。だが、入る噂は拾ってやろう。後で名や特徴があるなら、聞かせろ」
「ありがとう」
「獣を売り買いする連中は、案外、口が軽い。仲間連中に知らせておいてやるよ」
その言葉を聞いてから、リフはその場を離れた。
イサリスの部下が囚われている檻の前へ立つ。
リフは何も言わず、鍵を差し込み、回した。
低い音がして、扉が開く。
鉄格子の向こうで、白蛇族の男が顔を上げた。
その目を見た瞬間、リフは確信した。
あのとき見た白蛇族──イサリスの部下。
双子の片割れ、アルベルク。
リフはアルベルクの手首に手を伸ばし、鎖の留め具に鍵を差し込み、短く捻った。
留め具が外れ、鎖は支えを失ったように床へ落ちた。
「何のつもりだ」
アルベルクは、自由を取り戻した両手を見つめ、それから、ゆっくりとリフを見た。
「助かって、よかった」
「くだらない」
それだけを吐き捨て、傷ついた身体を引きずるようにして踵を返す。
「あっ、あの」
「恩に着るつもりはない」
歩きかけたアルベルクが、わずかに止まる。
「やつは、生きてる」
「えっ……」
次の瞬間には、人の流れの中へ紛れ、白蛇族の背中は見えなくなりそうになる。
「待って!!」
「おい、リフ!」
背後から叩き割るような声が飛んできて、振り返る。広場の端で、ルシアーナが腕をぶんぶん振っている。
開け放たれた檻のそば、解かれた鎖の近くに人間と獣族が固まって、こちらを見ていた。
「こいつらが礼言いてぇってよ、さっさと来い!」
「う、うん」
リフが背後に視線を戻した時には、白蛇族の影はどこにもない。人の流れだけが、何事もなかったように続いている。
「さっきの、知り合いか?」
「……少しだけ」
リフは短く答えた。
「あの白いの、どこかで見た覚えがあるんだよな」
去っていった方向を睨むように見たまま、ルシアーナは舌打ちを飲み込む。
「……この姿のままじゃ、気配がうまく掴めねぇ」
ルシアーナはすぐに表情を戻し、肩を竦める。
「まあいいや。さっさと来いよ」
リフは小さく頷き、解放された奴隷たちの方へ向き直った。




