II-EP.7 迫る気配
「あと、ひとつ」
リフはそうつぶやいて、木々の狭間を縫うように進んでいた。
鬱蒼とした森の奥を、躊躇なく茂みをかき分けていく。
苔むした倒木をまたぎ、背の高い草をかき分けながら歩いていたときだった。
視界の隅に、ひらりと白く揺れる気配があった。
「……ッ!」
一歩を踏み出しかけた足が止まり、鼓動がひときわ強く跳ねた。
全身が一気に強張る。
遠くに立つ、すらりとした影。
光を弾くような、純白の外套。
しなやかで、静かで、そして異質だった。
そのすぐ後ろにもう一体、同じ外套を纏った影。
長屋でゼルに牙を向けた、あの白蛇に擬態していた男の傍にいた部下たち。
(こんな近くまで、来てるなんて)
まだ距離はある。
けれど、相手の力を考えればこのくらいの間合いなんて、無いに等しい。
一歩、引きかけた足を、リフは木の影の中に沈めた。
気配は確実にこちらに向かって近づいてくる。
思考よりも先に、心臓が強く脈打った。
鼓動が速すぎて、思考が追いつかなくなる。
その瞬間だった。
「落ち着け」
不意に、背後から誰かの手がリフの口元を押さえた。
「んん!!」
ひやりとするほど近くで囁く声。
聞き慣れた低音。
(ゼル?!)
問いかける間もないまま、リフは背後からその腕の中に抱き寄せられる。
ぴたりと背中にあてられた体温が、震える思考を一気に現実に引き戻した。
「なんで、ここに?」
「静かに」
低く、穏やかに響く声。
リフの焦りと混乱は、ふっとほどけていく。
「ゆっくりでいい、呼吸を合わせろ」
リフはぎゅっと目を閉じ、
ゼルの腕の中で深く息を吸った。
そして、吐き出す。
ゆっくりと、静かに。
まるで、自分の輪郭が、森の匂いと、ゼルの体温に溶けていくみたいに。
苦しいほどだった自分の呼吸が、ゼルの静かな息遣いと重なって、落ち着きを取り戻していく。
気配が、森の深奥に調和して、消える。
森の匂い、葉擦れの音、風の流れ、
すべてが、二人の輪郭を塗り潰していくようだった。
気配を探っていた影は、しばらく立ち止まり、それから静かに踵を返す。
足音ひとつ残さず、イサリスの部下達は森の奥へと消えていった。
(気づかれ、なかった)
そう悟った瞬間、リフの背中から静かに力が抜けていく。
ゼルの腕はまだ離れない。
そのまま、わずかに息を潜めたまま、ふたりの静寂はしばらく続いた。
「やり過ごせた、よね?」
ゼルは、すぐには返事をしなかった。
腕の力を少しだけ緩めて、それから、低く押し殺した声で言う。
「一人で、行くな」
怒っていた。
そして心底、心配した声音。
「勝手な真似、するなよ」
ゼルは呼吸も不安定で、無理をしているのが息遣いから伝わる。
「すぐに見つかる。ここを離れるぞ」
ゼルが言い終える前に、リフが声を上げた。
「あっ!!」
視線の先、ゼルの背後に繁る木の枝に、ぽつりと赤く色づいた小さな果実が実っていた。
リフの目が見開かれる。
「あった!!ナトカに頼まれた最後のひとつ!」
ゼルの腕から抜け出すようにして、リフは大木に駆け寄る。
背伸びしても、指先がほんのわずかに届かない。
ふいに、後ろからそっと腕が回された。
ゼルが、無言でリフの腰を抱き上げる。
「と、届きそう!」
ようやく、指先が果実に届いた。
優しくもぎ取って、リフは嬉しそうにゼルを振り返る。
「やった!全部そろった。これでナトカがきっとなんとかしてくれるよ」
リフはゼルに向けて、安心したように笑った。
「………」
ゼルはしばらく何も言えず、その笑顔を見つめていた。
心底嬉しそうなリフの言葉が、冷え切っていた体の奥を温めていく。
呼吸はいつの間にか穏やかになり、重く澱んでいた胸の奥も、わずかに軽くなる。
「ゼル、やっぱり無理してるっぽいけど大丈夫?」
心配そうにのぞき込まれ、ゼルは一瞬、視線を逸らす。
「平気だ」
「肩、貸そっか?」
「体格差考えろ、寄りかかった瞬間潰れる」
「俺、意外に力あるよ」
リフは軽く笑って、長身のゼルを見上げる。
「気持ちだけでいい」
あくまで素っ気なく、でもその声はどこかやわらかい。
「戻るぞ」
いつも無愛想なはずのその口元が、ほんのわずかに緩んでいた。




